・プロローグ  かつて、美しい大地を誇っていたソクトア大陸。  神々の祝福に恵まれ、人は神を敬っていた。そして地の底から、魔族が襲ってき た時にも、神々の力のおかげで、守られた時もあった。  だが、織り成す人々にとって、忘れられないのは1000年前の伝記である。事実を 物語った伝記は、未だに、人々の心を惹き付けて止まない。  当時の運命神ミシェーダを中心に、神の世界をソクトアに降臨させようとした、 『法道』。魔族を中心に、力の理をソクトアに反映させようとした『覇道』。新た な世界を作る事を前提に、ソクトアを消し去ろうとした『無道』。そして、共存と 言う名の下に、全ての種族と共にありたいと願った人の歩むべき道『人道』。  それぞれの思惑がぶつかって、最終的に勝利したのは、『人道』だった。それは、 共存と言う夢を、最後まで諦めなかった人間こそが勝利したと言う劇的な話。それ は、事実であった。  だが、1000年の時を経て、人間は、その精神を忘れ去ってしまったようだ。伝記 は、飽くまで作り話だと言う説が有力となり、このソクトアは、人間の所有物であ るかのように勘違いしてしまったようだ。確かに、もう人間以外は、暮らしている とは言えない。しかし隠れつつも住んでいるのだ。それは、いつか人間と和解出来 るかも知れないと言う期待からかも知れない。・・・だが、大半は、人間の愚かさ に失望して、関わらないように生きて行きたいと言う思いの表れからだった。  『人道』を思い描いて勝利に導いた、伝記の『勇士』ジーク=ユード=ルクトリ アが、この現状を見たら、さぞ嘆き悲しむ事だろう。  その最もたる所以が、セントメトロポリス(通称セント)の建造だろう。ソクト ア大陸の中心にあり、かつて、中央大陸と呼ばれた広大な土地に出来上がった、近 代化学発祥の地。それが、セントだった。文明は頂点を極め、他の国から、セント へと、物が流れ込む。正に化学が、このソクトアを支配した表れであった。  他のソクトア大陸の国、ルクトリア、プサグル、デルルツィア、サマハドール、 ストリウス、パーズ、クワドゥラート。その7つの国は、全てセントの言いなりで あった。逆らえないのである。逆らったら、一生懸けても出られないと言われてい る、恐ろしい島『絶望の島』と言う、監獄島へと送られる運命にあった。しかも、 セント反逆罪などと言う罪名が、流布している。何とも悲しい事実だった。  ソクトア大陸は、今や化学の元である『電力』が無ければ、まともに生活出来な い。便利な物が増え過ぎたせいである。電話、自動車、電球、果ては、農作物を作 る農具でさえ、電力が必要なのである。しかし、電力は、自然に出来る訳では無い。 大規模な火力を利用した火力発電、豊かな水源を利用した水力発電、降り注ぐ太陽 を利用した太陽発電、そして、電力工場と呼ばれる所で、ひたすら働いて巨大な滑 車を回して発電する、人力発電の4つが主流だった。  火力発電と水力発電、そして太陽発電については、管理者が、十数人付いていれ ば、やって行ける程だった。主に自然の力を利用していたからである。だが、人力 発電は、別である。この工場で働く人々は、数千から数万に渡ると言われる。しか も、単純作業なので、賃金も高くは無い。要するに、発電のためだけに雇われた人 々である。しかも思った以上に、成績を上げられなかった場合は、最悪『絶望の島』 行きである。人々は、ただ電力を生み出すために生きていく。そんな、地獄のよう な状態の所が、ソクトア大陸全土に広がっていたのだ。  人々は皮肉を込めて、『黒の時代』などと、呼んでいる有様である。  しかも驚くべき事に、電力の供給は、セントに向かって伸びていくのだ。そう言 うシステムを、既に構築してしまったのだ。これでは、他の国は、その恩恵を受け られない。電力が無い国とまでは行かない。だが、セントに比べると、その差は歴 然である。  その屈辱に耐え兼ねて、クーデターを起こした人物が居た。その中心人物は、ジ ークの末裔リーク=ユード=ルクトリアである。だが、彼は失敗した。多くの人々 を連れて、セントまで迫ったが、セントの圧倒的な兵器の前に、敗れ去ったのであ る。この世で究極とさえ言われていた、全てを消し去る力『無』の力を使っても、 勝てなかったのだ。正確に言うと、セントを覆う、ソーラードームと呼ばれるバリ アが、『無』の力までも、防いでしまったのだ。そのせいで、大量の死者を出した リークは、見せしめに首を刎ねられて、全ソクトアに、その顔を晒されたと言う。  この事件以後、人々は、セントに逆らう気力を失くしてしまった。いや、例え小 規模な、いざこざであっても『絶望の島』に入れられてしまったので、不満の声す ら、封じられてしまったのである。恐怖政治の、始まりでもあった。  そんな中で、唯一つの国家だけ、その難を逃れた国があった。それは、島国の国 家であるガリウロルである。ソクトア大陸の、6分の1程度しかないガリウロル島 だが、セントの支配を逃れているため、その自由度は、とてつもない物があった。 更には、ここ数十年で、セントの良い所だけ取り入れようと、少しずつ、貿易を開 始したので、化学の素晴らしい所だけを、真似ている傾向にある。更に、この国が 幸運だったのは、豊かな自然であった。この国は、日照時間が多く、豊かな水源、 自然があるため、人力発電など無くても、電力が賄える程であった。  よって、セント以外で、一番栄えてる国は、他でも無いガリウロルだった。セン トは、さすがに警戒を強めているが、まずは、圧力で貿易を開始させただけでも、 由としたのか、それ以上の追求は無かった。数十年前までは、それすら断ってきた 国である。余程、独自の文化が強いのであろう。  それ程、独自色の強い国だと、国の中でも、全く特色が違う地域と言う物が出て くる。  ガリウロルの首都アズマ。ここは、ソクトア大陸に最も近い所で、かつての筆頭 豪族の榊が、治めてきた地域である。アズマの中で、更に4つの市があり、それぞ れ市長が治めているくらいだから、相当な規模の、都市である事は、間違いない。 だが、ガリウロルの独自色を守るという題目で、栄えさせてきただけあって、封建 的な雰囲気があるのは否めない。この頃、それが無くなってきたとは言え、大陸人。 つまり、外国人を受け入れるなんて、最も度し難い事なのだ。とは言え、一時代を 担ってきたアズマは、人々が、最も多く住んでいる。  そして、ガリウロルの西の都サキョウ。ガリウロル島は、『く』の字の形をして いる。その折り返しの真ん中の部分に当たるのが、サキョウである。ここは、非常 に自由度が高い地域である。化学の便利性を、逸早く見抜き、独自に貿易を開始さ せたのも、この地域が最初だ。先見性がある地域で、人々も、大らかな人が多い。 ここには、外国人が住める地域を独自に設けており、それ以外の地域も、希望さえ あれば、用意する事もあると言う。ただし、ここの地区は、3つの市に分かれてい て、その3つは、余り仲が良く無いらしい。スポーツなどでも、完全に別扱いだし、 税金の形態まで違うと言う。サキョウの都長は、3つの市長に、共に手を携えるよ うに呼びかけているのだが、いずれも、応じようとしないらしい。  そしてガリウロルの北の都テンマ。『く』の字の頂点に位置する都市である。こ の地区は、昔ながらのガリウロルが、まだ根付いていると言われて、アズマやサキ ョウの人々から『田舎』などと、呼ばれているが、テンマでの農産物があるからこ そ、この国は保っているようなのである。この国での農業の70%は、この地域で あり、驚く事に、3つの都市の中で、一番広く面積があるのも、この地域なのであ る。決して馬鹿になど出来ない。最も、化学の伝達は、一番遅い地域ではある。だ が、それは自然に対して、目を向けている事への表れであり、その精神を、忘れて はならないと言うのが、この地域での暗黙の了解でもあった。最も、自然が残って いるのも、この地域である。  他の国で、ここまで特色が分かれている国家は、まず無いだろう。それに、この ガリウロルが特徴的なのが、気候である。ガリウロルは南半球の国なので、通常は、 南に行く程寒く、北に行く程、暖かい筈なのだが、この国には年中、寒流と暖流が あべこべに走っているせいで、北に行く程寒く、南に行く程、暖かいのだ。それは、 大火山帯と呼ばれる暖流を発している地域が、南にどっしり構えているせいだと言 われている。そのせいか、嵐などは、結構多い国でもある。だが、その嵐のせいで、 セントの人間は、この国には近寄り難いのだから、恩恵を受けていると言えば、そ れまでである。  さて、時は2041年9月。9月が新学期の、この国では、春が始まりそうな、この 時期に変化を予感させる出来事が起きる。  とは言っても、ガリウロルの人々は、この変化に気付く者は居なかったであろう。  場所は、サキョウ北市の外れ、あるお屋敷での、出来事。  いつでも始まりと言うのは、唐突にやってくる物だと思い知らされる事になる。  1、継承  始まりは、唐突であった。  一枚の手紙が、送られてきた。  丁寧な封筒に入れられた手紙の封を開ける。  そこには、丁寧な字で書かれていた。 『急報』・・・。  嫌な予感は、していた。  まず送り先が、見知った場所であるからだ。  生半可な事じゃ帰らないと、決めていたのに・・・。  こう言う時に限って、物凄い事が起きる物である。  人生とは、上手く行かない物だと思う。  だが、放って置いた責任もある。  帰らなくては、ならない。  でも、思えば、もう良い時期かも知れない。  何せ修行と言える修行は、既に済ませた。  師匠のようになりたいと思う。  正しくありたいと願うのに、どうにも上手く行かない。  でも、投げ出して堪る物かと思う。  そのための修行であったし、師匠も、これ程に無く、正しいと思う人物だった。  ならば、成果を試す時かも知れない。  それに・・・そろそろ、学業もやらなくては、どやされてしまう。  まったく、難儀な事ばかりだな。  そう愚痴を言ってる暇も無いか。  静まり返った道場に、師匠と俺は座っていた。まぁ師匠と言うより、俺の爺さん なんだが・・・。これまた、尊敬できる師匠なんだから、他に言いようが無い。 「本当に、帰るのだな?」  爺さんは、ギラリと光る眼差しで、俺を見つめてくる。ちょっと怖い・・・。 「二言は、ありません。修行は続けますが、帰らねばなりません。」  俺は、正座しながら礼をする。俺は、爺さんに例の手紙を見せている。 「まぁ、アレが倒れたとあれば、仕方無い。だが、このまま返すのも忍びないな。」  爺さんは、溜め息を吐くと、奥から巻物を持ってきた。 「受け取れい。今日からお前の物だ。」  爺さんは、巻物を俺に手渡す。そこには『皆伝の証』と書いてあった。 「お、俺はまだ・・・。」 「黙らっしゃい!!・・・正直に話そう。お前の実力は、既に、わしを超えている。」  爺さんは、とんでもない事を言う。本当なのだろうか? 「真実(まこと)ですか?」  俺は、未だに、この人を全部超えたと思っていない。爺さんの師匠としての実力 は、群を抜いている。俺は、本当に追いつけたのだろうか? 「嘘など吐かぬ。お前に足りぬのは、自信だけだ。若さ故かも知れんがな。」  爺さんは、揺るぎ無い目で、俺を射抜く。間違いない様だ。そんなに、俺は強く なったのか・・・。自覚と言うのは、本当に無い物だ。 「ここまで、付いて来れたのは、運だけではあるまい?ならば間違いは無い。」  爺さん・・・。そうか。ならば、ちょっとは自信を持って、これを受け取らなき ゃならないな。俺の代で終わりなんて事に、してはいけない。それだけの伝統があ るからだ。何せ、歴史が違うからな。 「行け。お前は今日から天神(あまがみ)流空手の継承者、天神 瞬(しゅん)だ!」  俺は『皆伝の証』を握り締めた。爺さんの言葉は、何よりも重かった。  俺の名前は、天神 瞬。天神流空手と呼ばれる、一子相伝の空手の・・・たった 今、継承者になった。今度出る大会では、爺さんが腕試しに出ろと言われるまま、 爺さんが勝手に『継承者』なんて書いて出場させる物だから、何かと思った。緊張 して仕方が無かったが、あれは、冗談では無かったのか。  だが出るからには、優勝を目指してやるのが筋って物だろう。 「爺さん。世話になりました。ここでの修行は、忘れません。」  俺は、そう言って頭を下げる。まぁ実際、結構楽しかったしな。ちなみに爺さん の名前は、天神 真(しん)だ。全く厳しいお人だ。 「忘れたら、思い出させに、そっちに行くから安心しろ。」  うげ・・・。言うんじゃなかった・・・。その辺は、爺さんらしいわ。 「・・・じゃぁ、行きます。さすがに、行かないと息子として名乗れないので。」 「そうしろ。わしは、喜代(きよ)と共に、ここで過ごす。」  婆様は、去年他界したばかりだ。天神 喜代婆様は、甘い事で親戚では有名だっ た。厳しい爺さんとは、釣り合いが取れてたのかも知れない。 「厳導(げんどう)には、何も無いと伝えておけ。その方が、奴は喜ぶ。」  爺さんは皮肉を言う。と言うのも、俺の父の天神 厳導は、ここ何代かで、企業 として成功した方の『天神家』を受け継ぐ企業家で、『天神流空手』を継ぐ気は、 無かったのだと言う。そのせいで、爺さんからは嫌われているのだ。それに向こう も嫌っているらしく、勘当状態なのだとか・・・。 「相変わらずと、伝えて置きますよ。・・・って爺さん?どうかしたのか?」  俺は爺さんの容態が、変なのに気が付いた。胸を押さえている。そんな筈は無い。 爺さんは、病気とは無縁だった筈だ。 「な、何でも無い!はよ行け!」  爺さんは、厳しい目で俺を追い立てようとする。・・・まさか!結構、昔から病 気に罹っていたのだろうか?俺には見せないように、していたのか? 「ふざけんなよ!爺さんを置いて・・・師匠を置いて、逃げる弟子は居ねぇ!」  俺は、少しパニックになったが、落ち着く事にした。これも『心の修行』だ。落 ち着かなきゃ駄目だ。 「電話だ。すぐ電話する!」  俺は、電話の所へ向かう。救急車を呼べば、間に合うかも知れない。 「・・・間に合わぬ・・・。こちらに来い!」  爺さんは、喀血しながら、俺を呼ぶ。・・・どうする?爺さんに従った方が良い のか?どちらとも、爺さんを見捨てる選択にもなり兼ねない。 「これだ!!」  俺は、電話に救急番号だけ打ち込んで、爺さんの元へと駆けつける。 「・・・不治の病だ。治らぬよ・・・。」 「な!?何で、黙ってたんですか!」  俺は、驚きで膝がガクガク震えてきた。そんな・・・今まで、我慢していたとで も言うのだろうか?爺さんは、馬鹿だ!! 「お前が・・・継いでくれるのを・・・この目で、見たかったんだ・・・。」 「そんなの治ってからで・・・。」 「馬鹿者・・・。不治の病だと、言ったであろう?」  爺さんは、声の力が無くなっていく。どうして?どうして、こんなになるまで、 俺の事を?俺は、そんなに期待されていたのか? 「良いか・・・。強く・・・正しく生きるのだ・・・。我が・・・。」  爺さんは、そこまで言うと、首の力が、無くなっていった。 「おい!爺さん!じいいいいいさああああああん!!!」  俺は堪らず叫んでしまった。涙が止まらない。こんな悲しい事ってあるのか?婆 様が亡くなった時も、ショックだった。だが、爺さんが居なくなるって、こんなに ショックだったのか?俺の体の一部が、無くなりそうだ・・・。  だが、爺さんは再び眼を開ける事は無い。・・・そう気が付いてから、外に救急 車のサイレンが近づいて来るのを知った。  俺は、事情を説明して『急報』に対して、遅れの電話を入れた。向こうも、急ぎ だったので、最初は怒っていたが、爺さんの死を報せると、さすがに弱ったらしく、 最終的には、許してもらった。大会の事まで許してもらった。  これが・・・天神 瞬こと、俺の大会の、1週間前の出来事だった。  俺が『強く正しく』生きたいと願うようになったのは、この事件が切っ掛けだっ たのかも知れない。だが、爺さんの想いも継げない様では、天神流では無い。天神 流を継いで行くためにも、この教えは守っていこうと誓ったのである。  俺の行く道は、茨の道。  世間は、そう思うかも知れない。  爺さんが託したのは、夢物語。  親戚ですら、呆れるかも知れない。  でも、俺は、夢なんかで終わらせたくない。  如何に強く、正しくいられるか・・・。  そんな当たり前の願いを、強く貫きたいと思う。  それが、この天神 瞬の生き方である。  そう胸を張って、言い切ろうと誓ったのだ。  爺さんに婆様。  見れるのなら、見ていてくれ。  俺は誰にも真似出来ない生き方をする。  現実的で無いと言われようと、辞める気は無い。  見ていてくれ・・・。  『急報』をもらって10日余り過ぎて、俺は、再びこのお屋敷に戻ってきた。そ のお屋敷の表札には『天神』と書いてある。まごう事無き『天神家』のお屋敷であ る。ただし、それは企業家であり、投資家でもある『天神家』であり、空手家とし ての『天神家』では無い。  俺は、空手家としての道を歩む事を決めたのだ。その時から、この家には、生半 可な事では、戻らないと決めていた。・・・なのに、この家に戻って来ている。  仕方の無い事だ。さすがに天神 厳導こと俺の父が、危篤で倒れたと言う報せを 聞いて帰らないのは、さすがに心苦しい。様子を見ない事には、嘘とも言い切れな い。それに手紙を寄越したのが、他でも無いアイツだ。  アイツとは・・・俺の妹であった。名前は天神 恵(けい)。恵は、嘘は吐かな い。特に俺には、嘘を吐いてまで、呼び寄せるなどする様な妹では無い。  思えば・・・修行をすると言って3年前、小学校を卒業すると同時に、爺さんの 所に入門した。その時に、一番悲しそうな眼をしてたのは、妹だ。寂しい思いをさ せたかも知れない。何度か手紙を送ったが、妹は忙しかったのか、全く手紙を返さ なかった。・・・その妹が、突然渡した封筒である。嫌な予感はしていた。  恵は、少々気が強い所はあるが、真面目な妹だった。父からも、爺さんからも好 かれていた。勿論、俺にとっても可愛い妹だ。会うのは、少し楽しみにしている。  しかし、お屋敷には、余り良い思い出が無い。と言うのも、躾に厳し過ぎるのだ。 食事のマナーは、勿論の事、帝王学や身の振り方まで、ああだこうだと決められて は、窮屈で仕方が無い。妹は、我慢してやっていたようだが、俺には真っ平だった。 それに、ここはガリウロルだと言うのに、天神のお屋敷は、決まった所だけガリウ ロル式で、他は、全てセント式だってのも、気に入らなかった。ガリウロル式の何 が悪いのか?と思うが、父は気に入らなかったらしい。『セント式は、最新で優れ ている。』これは、父の口癖だった。  爺さんと相性が悪いと言うのも頷ける。俺とも、相性が悪かった。俺が爺さんの 所に修行に行くと伝えた際には、父は、烈火の如く怒ったものだ。あんな怒られ方 は、生まれて初めてだった。  だから、爺さんが、父を勘当したのと同じで、俺も、父からは勘当されていた。 それだけに、余り帰りたいとも思っていなかった。それに、父御付の使用人にも、 俺は良く思われて無いかも知れない。父は、母親とは早く死別したので、その使用 人の人が、ほとんど母代わりだった。食事も、使用人の人が作ってくれたし、勉学 も使用人に教わっていた。使用人の名前は、藤堂(とうどう) 睦月(むつき)と 言って、使用人の中でも、最高峰の力を持つ人らしく、睦月さんの下にも、使用人 と執事が居るくらいだ。使用人の心得を、教え込んで総纏めを務める凄い人で、こ の人無くして、天神のお屋敷は成り立たないそうだ。  しかし、そんな睦月さんでさえ、10年前から開かれている、全ソクトアご奉仕 メイド大会と言う、恥ずかしい名前の大会で、優勝した事が無いのだとか・・・。 何でも、優勝は必ず同じ人が持っていくのだと言う。あの睦月さんを超えてるなん て、恐ろしい人だ。睦月さんは、あれで凄いパワーの持ち主だ。料理も完璧だし、 雑用なども、ほぼ完璧にこなす。使用人として、これ以上無い程の実力だと思って いるのに、それを毎年超えてる人が居るなんて、どんな人なのだろうか?睦月さん は、その日に向けて天神家を完璧に管理しているのに、帰ってくると、まるで魂が 抜けたような顔で帰ってくる。準優勝のカップは、いっぱいあるのに、優勝が無い。  父曰く、トップを取れないのは、努力が足りないからだと言うが、周りの使用人 の話だと、それは、余りに酷な言葉だと言う。と言うのも、優勝者の動きが、並大 抵の物では無いのだと言う。しかも優勝者は、それを常に天使のような笑顔で、こ なしているのだとか・・・。人間か?その人・・・。  そんなこんなで、余り帰って来たくは無いお屋敷だが、ここまで来たからには、 途中で帰るのも、馬鹿馬鹿しい話である。俺は、お屋敷のインターホンを押すと、 鐘のような音が響き渡る。相変わらず、悪趣味なインターホンだと、俺は思う。 「ご用件を、お申し付け下さい。」  インターホン越しに、柔らかそうで、営業的な声が返ってくる。 「あー・・・。『急報』を、もらって10日余りですが・・・。」  俺は、何て言ったら良いのか分からないので、とりあえず本当の事を言った。 「少々、お待ち下さい。」  インターホン越しに、また抑揚の無い声が返ってきた。何なんだろうか?すると、 インターホンの付いている扉の、上に設けられているカメラが、こちらを向く。避 ける事も可能だが、意味が無いので、カメラの方を向く。  しばらくすると、お屋敷の扉が勝手に開いた。そこに、横に並んで礼をしている 使用人と、執事の姿があった。相変わらず、悪趣味だと俺は思う。 『お帰りなさいませ。瞬様。』  皆が、ピッタリ声を合わせて俺を迎える。相当練習したんじゃないのか?これ? 「何だかなぁ・・・。ま、しょうがないか・・・。」  俺は、頭が痛くなると思ったが、渋々奥へと進む。 「『急報』から10日。お早いお帰りで、安心しました。瞬様。」  横から、物凄い嫌味が聞こえた。すると、そこには、睦月さんが居た。この人、 苦手なんだよね俺・・・。睦月さんは、使用人の服を着ているが、背は、170近 くあるし、凛々しい顔立ちをしている。目が切れ長で、髪は栗色で三つ編みにして いて、後ろの部分だけ太くしている。手や足も、すらりと長く、モデルと言っても 差し支えは無い。 「大会が終わってから、爺さんの墓参りで、遅れました。済みません。」  俺は、相手にしたら駄目だと思って、事実だけを述べる。 「真様ですね。ご不幸、傷み入ります。」  睦月さんは一礼する。どうも本気で悲しんでる様子は無い。当たり前か。この人 にとって、仕事以外の何者でも無いのだ。こう言う所が、例の大会の優勝者とは違 うんだろうなぁと、心の中で思う。若くて綺麗な人なんだけど、棘があるって言う か・・・。怖いんだよね。 「父は、大丈夫ですか?」  俺は、一応聞いてみた。 「長く無いでしょう。覚悟して下さい。」  睦月さんは、少し残念そうに言った。さっきの爺さんの時とは、大違いだ。これ については、仕事以外の何かもあるのだろう。 「兄様?兄様ですね?」  この声は・・・。恵か!って、あれが恵か!?  背も、でかくなったし、何て綺麗なんだ。何処から何処を見ても、完璧なお嬢様 で、疑う余地が無い。髪はガリウロル人らしく、黒髪で短めにカットしているが、 前髪が長いので、カチューシャをしている。今は、青いスカートに、白いブラウス を着ているが、何を着ても似合うだろう。しかし一番変わったのは眼だ。眼の力が 違う。3年前は、あんなに力の篭った眼をしてなかった。何かあったのだろうか? 「恵か・・・。大きくなったな・・・。それに、綺麗になった。」  俺は、素直に感想を述べる。 「嬉しいお言葉です。ですが今は、一刻も争います。父の部屋へ行きましょう。」  恵は、しっかりとした目付きで俺を促す。昔から、しっかりしていたが、周りま でしっかりするように仕向けるようになったのだろうか?やっぱり恵は変わった。  恵に連れられて、なるべく、音を立てずに父の部屋の前まで来る。それにしても、 無駄にでかい屋敷だ。父の部屋に行くってだけで、時間が掛かるのだから世話も無 い。恵は、父の部屋の前でノックをする。 「恵です。兄も一緒です。」 「・・・入・・・れ。」  微かだが、久しぶりに聞く父の声だった。それにし弱々しい。恵は、一礼すると ドアを開ける。仕草まで、完璧にお嬢様だ。 「失礼致しますわ。」  恵は断りを入れると、俺を父の部屋へと招き入れる。あれが本当に父なのだろう か?本当に危篤だった。あんなに怒っていた父が変わり果てたように痩せている。 俺は、少しでも疑った自分を恥じた。 「・・・痩せましたね。」  俺は、病人に皮肉を言っても仕方ないので、病状を案じた。 「お前は・・・ガッシリしてきたな・・・。」  父は、俺が出て行く前の笑顔を向けてくれた。俺は、それが残念でならなかった。 叱りでもすれば、俺も元気が出たかも知れない。しかし、こう出られると逆に辛い。 「父上・・・は?どうだ?」  父は、爺さんの事を聞いてきた。そうか・・・。知らないのか。 「お変わりなく・・・と言いたい所ですが、亡くなりました。・・・肺ガンだそう です。俺には、素振りすら、見せてくれませんでした。」  俺は、包み隠さず父に話した。恵は、少し悲しい目をしていた。 「そうか・・・。勘当されてても・・・寂しい物だな・・・。」  父は溜め息を吐く。どうやら本当に寂しがってるようだ。最後まで勘当されたま まだったからだろう。俺も、そうなるのかも知れない。 「奇遇だな・・・。私も・・・ガンだ。胃ガンらしい。」  父は少し笑う。自分の事を、皮肉っているのかも知れない。 「・・・私は長くは無い。・・・最後に問う。」  父は、本題に入るようだった。本当に、苦しいのかも知れない。 「・・・お前は、継げるか?」  父は、それだけ問うた。継ぐ。つまり、企業としての天神家をだ。俺は、迷った。 本当は継いでみせると言いたい所だ。だが、それでは最終的に、嘘を吐く事になる。 それで、良いのだろうか? 「・・・フッ。正直者め・・・。」  父は笑った。俺が苦悩しているのを、読んだようだ。 「・・・申し訳ありません。」  俺は、謝ることしか出来なかった。 「嘘を・・・吐かれるより・・・よっぽど良い。」  父は、既に見抜いていたのだ。俺には、継げる筈が無いと言う事をだ。 「で?・・・継いだのだな?」  父は、もう一つ聞いてきた。それは恐らく、こちらの事だろう。 「はい。祖父が死ぬ間際に、継いで参りました。」  俺は、正直に答える。皆まで言う必要は無い。天神流空手の事だ。 「・・・恵。」  父は、恵の方を見る。恵は父の手を握った。 「瞬は・・・正直過ぎて・・・この世界には向かん。・・・お前が継ぐんだ。」  ・・・そうなったか。しかし、恵は、まだ14歳だろ?俺と年子だから間違いな い。そんな恵が、この家を継いで、どうするんだ? 「迷いは、ありません。」  恵は、真っ直ぐな瞳で父を見た。・・・本当に恵なのか?強くなった。本当に強 くなったな。恵は・・・。 「・・・お前達を・・・残して死ぬ・・・この父を・・・許せ。」  父は、声が弱々しくなっていく。俺も、もう片方の手を握ってやる。 「・・・睦月。分かっておるな?」  父は、睦月さんに目配せする。どう言う事なのだろうか? 「厳導様の後は、恵様の指示に従います。間違いは、起こさせません。」  睦月さんは、キッパリと言い放った。そうか。恵が継ぐと言う事で信頼度が下が るかどうかを、試していたのか。 「父上・・・。父上のために、何も出来ない俺を、許して下さい。」  俺は、それを言うのが手一杯だった。この人のために、俺は何をやってきたのだ ろうか?俺は、心配ばかり掛けさせたのかも知れない。その上、『急報』まで延ば してしまうなんて・・・。 「・・・恵を・・・助けて・・・やって・・・くれさえ・・・すれば良い。」  父は、そう言った。最後まで父親なのだろう。恵の事が、心配だったのだ。 「分かりました。恵の助けになれる時は、是非にも。」  俺は、父の眼を真っ直ぐに見る。 「頼・・・ん・・・だ・・・ぞ・・・。」  父は、そう言うと、眼を閉じた。そして若干35と言う歳で、その生涯を閉じた。  俺は、また一つ大事な物を失ったのだ。何をしていたのだろうか?こんな事で、 強く正しくなれるのだろうか?  迷ってる暇は無い。迷ってる暇は無いが、正しく在り続けようと思った。  それが、祖父からの願いでもあるのだから・・・。  それからと言うのは、大変だった。と言うのも、まずは父と祖父の葬式からだっ た。色んな企業からの社長や取締役が献花に来て、てんやわんやだった。しかし、 全て丸く治めたのは、睦月さんのおかげなのかも知れない。性格は、余り良いとは 言えない睦月さんだが、完璧に仕事をこなす。さすがとしか、言いようが無かった。  爺さんの葬式まで、兼ねてくれたのには、驚いた。てっきり嫌われていると思っ ていたからだ。睦月さん曰く、『故人に対しての礼儀は、一緒な筈です。』との事 だ。俺は、睦月さんの事を、誤解していたかも知れないな。  しかし、それより驚きなのは恵だった。恵は来訪者への気遣いは、全く忘れる事 無く、こなしていた。悲しみで床に伏せる事さえ無い。これは、本当に恵なのだろ うか?案ずる内容は、違うかも知れないが、心配だった。  俺はと言えば、俺に似合う喪服が無かったので、黒いスーツを急場で用意しても らうと言う、間抜けな姿を晒す事になった。どうにも慣れないなぁ・・・。  とは言え、葬式は無事済んだ。さすが睦月さんは、ソクトアナンバー2である。 使用人として、全ての仕事をこなしていた。  その後に決まったのが、俺の転校先だった。  何でも俺の成績を見比べて、入るべき学校を決めたのだとか。 「瞬様は、運動関係がバッチリなので、サキョウ都立爽天学園(そうてんがくえん) が宜しいと思うのですが?どう致しましょう?」  どう致しましょうも何も、俺は良く分からないので任せる事にした。その時に、 睦月さんがニヤリと笑ったのを、俺は見ていなかった。爽天学園が、どんな所かと か、余り聞いて無かった気がする。俺としては、早く生活に慣れたかったと言う思 いがあった。それだけに、見逃していたのかも知れない。  聞いていれば、入るのを躊躇していたかも知れない・・・。そりゃそうだ。ここ まで、思いもよらない高校があるとは、思っていなかった。早く慣れれば、良いや 的な考えしか、持ち合わせて居なかったからだ。  一夜明けて、転校手続きも済んだと言われたので、早速、学校へ行く準備をした。 思えば、祖父の所でも、学校に通っていたが、祖父との修行が主な生活だったので、 何かと、慣れない部分もあるかも知れないと思っていた。  俺は、着替えをしていると、ノックが聞こえた。 「瞬様。制服を、お持ちしました。」  使用人の一人かな?俺の制服を運んでくれたらしい。俺は、パジャマ姿だったの で、これは助かると思った。 「ありがとう。そこに置いておけば、自分で着替えますよ。」  俺は声を掛けておいた。すると、扉が開かれた。 「え?う、うわ!どうして、入ってくるの?」  俺は面食らった。俺の声を無視して、入ってくるとは思わなかった。 「し、失礼しました・・・。しかし私は、瞬様の事を任されておりますので、お着 替えの手伝いを、させて戴きたくて・・・。」  使用人の人は、恥ずかしがりながらも、出て行く様子も無いようだ。 「俺の事を任された?睦月さんからかい?」  あの人は、俺の嫌がりそうな事は、大体分かっているので、わざとじゃないかと 思った。俺とは、どうも相性が悪いんだよね。 「はい。瞬様は、まだお屋敷に慣れないだろうと、気を使ってくれたのです。」  使用人は、顔を真っ赤にしているが、手伝おうとしていた。何だか健気な人だな ぁ。って・・・この人。見た事あるぞ? 「貴女は、まさか・・・。睦月さんの?」 「あ。思い出してくれましたか?瞬様。藤堂 葉月(はづき)です。」  やっぱり葉月さんか。睦月さんの妹の葉月さんだ。俺より、3つほど歳が上だっ た筈だ。葉月さんも成長したんだなぁ・・・。髪はストレートだったが、あんなに 長くなかった筈だ。それに目元もキリッとしている。使用人の服を着ているから、 最初は気付かなかったな。 「葉月さんも、ここの使用人に?」  俺が、家を出て行く前は、俺と恵の、遊び相手でしか無かった筈だ。家が近かっ たので、良く来ていてくれた。ちなみに睦月さんは、俺より12ほど歳が上だから、 葉月さんとは、9つも違うのか。ちなみに、睦月さんは1月生まれで、葉月さんは 8月生まれだから、この名前が付けられたのだとか。 「はい。姉からは、進学を勧められましたが、この道を選びました。」  葉月さんは、柔らかな笑顔で俺に返す。この人の笑顔は、誰かを安心させるため の笑顔だ。心から喜んで欲しいと言う願いが、込められているのかも知れない。 「そうか。葉月さんの事だ。良く考えて決めたんでしょ。なら、宜しく頼みます。」  俺は一礼をする。葉月さんは、人生プランを思い付きで壊すような人じゃない。 「瞬様。使用人に一礼するなんて、止めて下さい。私達だけでしたら構いませんが、 姉さんや恵様が見ておられたら、注意されますよ?」  葉月さんは、この家の事を良く分かっているみたいだ。睦月さんは、まだしも、 恵も、そんなに厳しくなったのか?確かに、変わったとは思うけど・・・。 「いけない。瞬様。お着替えを、済ませましょう。」  葉月さんは注意する。確かに話し込んでる暇は無さそうだ。俺はパジャマを軽く 脱ぐと、用意された制服に素早く袖を通す。サイズは大き目を選んであったせいか、 ピッタリだった。と言うのも、俺は、こう見えても筋肉で、かなり太っているのだ。 通常よりも、多少大きめじゃないと、窮屈なサイズになってしまう。俺は180セ ンチより少し小さいが、体重は、こう見えても100キロに届きそうなのだ。天神 流空手は、極限まで体を鍛えるので、仕方の無い事だ。実はさっき、起きがけに、 天神流の型の練習を30分程、済ませて置いてたりする。日々の努力が重要なんだ。  そんなこんなで無事に着替えられた。葉月さんはと言えば、パジャマを、洗濯籠 に入れて持って行く所だ。良く見ると、他の部屋の洗濯物も入っているみたいだ。 結構な量だろうに、大丈夫なのだろうか? 「凄い量だね・・・。」 「もう慣れました。気になさらないで、恵様と、お食事して下さい。」  葉月さんは、慣れた手付きで、洗濯籠を持っていく。凄い物だ・・・。  感心してばかりは、いられない。俺は階段を下っていく。そして巨大な扉を開け て、天神家のダイニングへと、辿り着く。すると、大きなテーブルがあって、椅子 が2つだけあった。 「おはよう御座います。兄様。」  恵が挨拶をしてきた。その声は実に優雅だ。しかも制服に着替えている。恵の制 服姿は、初めて見たが、中々決まっていた。 「おはよう。恵。」  俺は挨拶をしておく。それにしても、寂しいテーブルだ。これだけ大きいのに、 恵と俺だけしか椅子が無いなんて・・・。食事を運ぶ使用人、食事を下げる使用人、 テーブルに不備があった場合に備えた使用人まで居ると言うのに、俺達二人だけな んだなぁ座っているのは・・・。本当に慣れないぜ。 「その制服。似合ってますわ。」  恵は、俺に話し掛けてくる。優雅に、朝御飯のクロワッサンと半熟の目玉焼きを ナイフとフォークで器用に食べている。俺も食べようとするが、どうにも慣れなく て、時間が掛かってしまう。 「似合ってると言われると、嬉しい物だな。恵も制服を着てるが、どこなんだ?」  俺は、なるべく自然に返そうとするが、まだどこか、ギコちない感じがした。 「あれ?睦月から、聞いてませんか?」  恵は、唇に人差し指を当てる。その仕草一つとっても、恵はお嬢様と言う感じが する。昔も、おっとりしているとは思ったが、ここまで、完璧なお嬢様になってい るとはな・・・。 「そっか。睦月さんは、知っているんだっけか。」  俺は、詳しく聞いてなかった気がする。そう言う所は、ズボラなんだよなぁ。 「ま、すぐに分かりますわ。」  恵と俺は、同時に食事を終える。だが、内容は大違いだ。恵は、食べるのが俺よ り遅いのに、俺と同時なのは、食事のマナーが俺の方が下手だと言う事だ。 「お下げ致します。」  使用人達は、文句一つ言わずに、恵と俺の皿を片付けていく。徹底的に鍛えられ ているのか、手早いのに、正確に片付けていく。  俺は傍目で見ながら、今度はロビーへと出る。相変わらず大きいロビーだ。恵は、 既に出る準備が出来ているようだ。俺もカバンを用意したし、もう出られるな。ロ ビーでは出迎えの従者が待っている。って・・・良く見ると、睦月さんと葉月さん じゃないか。葉月さんは、俺が食事を取っている時に、既に仕事を終わらせたらし い。それで俺の事を待っていたのか。凄いなぁ・・・。 「恵様。いつでも出られます。いかが致しましょう?」  睦月さんは、玄関の扉を開けると、自動車が既にエンジンを吹かせて待っていた。 自動車登校かよ・・・。すげぇな。しかも、あの車のモデルは、アズマ南市の名車 ジャックじゃないか?恐ろしい値段だった筈だ。車庫に自動車が10台程見えた。 どれも、名車と呼ばれる部類の車で、如何に金を掛けてるかが分かる。 「兄様。どの車が、お好みでしょうか?」  恵は、恐ろしい事を聞いてくる。はっきり言って、車で登校すると言う事自体、 頭に無かったのだ。お好みと言われても、全く分からない。 「なぁ。俺の学校って、遠いのか?」 「?別段遠いと言う訳では、ありません。爽天学園なら、車で5分程ですわ。」  恵は、車での距離しか知らないようだ。車で5分と言う事は、歩きでも、15分 程で、着くんじゃないか? 「俺、歩きで、良い気がするんだが?」  どうも車で登校と言うのが、慣れない。 「兄様。貴方は、天神家の嫡男なんですよ?私の兄なら、歩きで登校だなんて、危 険な事は、御止めになった方が、宜しいですわ。」  恵は少し呆れていた。歩きで、登校って危険なのか? 「歩きで行けば、車道を横切る事もありますし、もし変な方が、付いてきたりした ら、どうするんですの?天神家なら、そう言う事も、ありえるのですよ?」  確かに、これ程の名家なら、誘拐しようなんて不届き者も居るかも知れない。 「それも修行の内と思えば、苦でも無いぞ?」  どうにも俺は、行動を修行に当て嵌めたがるのか、車で行くのは、体が鈍ると思 ってしまう。すると、恵は、溜め息を吐く。 「兄様は修行が、お好きですのね。分かりましたわ。・・・睦月。今日から、歩き で行きます。明日から朝は、車の用意はしなくて良いように、言って置きなさい。」  恵は睦月さんに言っておく。すると睦月さんは、敬うように礼をすると、車の運 転手に告げていた。運転手は嫌な顔一つせずに、こちらに礼をして、出迎えの方に 回った。文句が出ても、おかしく無いんだが・・・。  すげぇな。連携と良い完璧だ。それに恵は睦月さんの事を、敬称では呼ばない。 完璧なお嬢様だ。慣れてるなぁ・・・。 「おい。恵まで合わせる必要無いんだぞ?学校は、遠いんじゃないのか?」  俺は、恵の方が心配だった。俺に合わせて、恵まで歩きになるとは、思ってなか ったからだ。恵は、そんな心配をする俺を見て、口を尖らせる。 「兄様が歩きだと言うのに、私だけ車なんて、気分が悪いですわ。それに学校は、 近いですから、ご安心なさって下さい。」  恵は、大丈夫だと言わんばかりに胸を張る。まだ少し、未発達だが、少しは女性 らしいプロポーションになっているので、俺としては、ちょっと気恥ずかしかった。 「兄様?今、何で目を逸らしたんです?」  う・・・。変な所で、恵は鋭い。 「いや、恵も、成長したなぁとか・・・。」  俺が、そう言うと、恵は腰に手を当てて呆れていた。 「朝から何を言ってるんです?全く・・・。」  恵は、少し顔を赤くしながら、スタスタと門の所へと行ってしまう。俺は、置い てかれたら堪らないので、慌てて付いていった。 「悪かったよ。・・・それにしても、恵は大丈夫なのか?俺の学校へ行ってから、 恵の学校に向かうんだろ?時間は、大丈夫なのか?」  俺は謝りつつも、恵の時間の心配をする。恵の事だ。遅刻など、一回もしてない のだろう。几帳面だしな。 「本当に、睦月から何も聞いてないのですね。」  恵は驚いてしまう。驚くような事を言ったか?俺・・・。 「兄様と私は、同じ学校ですわ。兄が歩きで、妹が車だなんて、おかしいでしょう?」  ああー・・・。そうなんだ。確かに同じ学校なら、恵だけ車でってのは・・・。 あ?同じ学校?って事は・・・。 「爽天学園って、中等部でもあるのか?」  俺が確か1年で・・・。恵は、中学3年だよな?年子だし、間違い無い筈だ。 「爽天学園は、れっきとした私立の高校ですわ。名門ですのよ?」  は?どう言う事だ?いや、名門ですのよ?じゃ無くてさ・・・。 「私は、飛び級で、この9月の頭に入学したんです。兄様とは、同じ学年ですわね。」 「な、な、何ぃぃぃぃぃぃぃ!?」  俺は、本気で驚いた。恵は飛び級だったのか!?昔から、出来る子だったけど、 まさか、そこまでだったとは・・・。兄の面目、丸潰れだなぁ・・・。 「大きな声は、止めてください。只でさえ目を付けられてますのよ?私。」  そりゃそうだ。名家の天神家で、更に飛び級の天才とあれば、目立たない方がお かしい。と言う事は、兄の俺も・・・。目立つよな。しかも空手大会とかで、優勝 しちゃったしな。俺・・・。まぁそこは、後悔して無いんだけど。 「そうか・・・。睦月さんに、聞いておけば良かった・・・。」  俺は本気で後悔した。まぁ聞いた所で、『決まった事ですから』の一言で、返さ れるんだろうが、気持ちに余裕は出来る。 「あ。あそこに居るのは、恵様ですわ!」 「あれ?隣の男の方は、でしょう?」 「さぁ?恵様が、車で登校しない事と、関係あるのかしら?」  後ろから、何やら囁きが聞こえてくる。ううー。何だか、最初から物凄く目立っ ている予感。多少の覚悟は、してたけどなぁ・・・。  良く見ると、既に後ろに、行列が出来ていた。何と誰も恵の前を通ろうとしない のだ。恵は、後ろを少し振り向くと、少し笑って髪を揺らせる。身に染みこんだ仕 草なのかも知れない。その動作をするだけで、後ろから歓声が聞こえる。俺はと言 えば、心無しか、男性陣の視線が突き刺さってる感じがして、良い気はしなかった。 「たまには、歩きも良いものでわね。」  恵は、事も無げに話す。コイツ・・・。何気に、良い性格してやがる。 「俺には、真綿で首を締められる様な視線を、感じるのだが?」  俺は、目を細くしながら、溜め息を吐く。 「あら。気になさってたの?さっきから、平然としてるように見えたのですが?」  恵は、俺が文句一つ言わずに居る事で、平然としてるように見えたのか。 「皆さん。おはよう御座います。」  恵は突然、天使のような微笑を浮かべて、後ろを振り向く。すると、皆、行儀良 く礼をする。どこの女王様だ。 「恵様のご機嫌が、宜しくて何よりです!」  何だか、ファンクラブまでありそうな勢いだ。いや、実際あるんだろうなぁ。 「今日は、皆様に、この方を紹介致しますね。」  ゲゲゲゲゲ。いきなりかよ! 「私の兄の、天神 瞬ですわ。皆とは、学友になる筈なので宜しくお願いしますね。」  恵は優雅に俺を紹介する。すると皆は、納得したような顔をする。何だか、馬鹿 にされたような気もする・・・。 「兄様?一言、申し上げては?」  恵は、俺に話を振る。本当に、良い性格してるな・・・。 「恵の兄の天神 瞬です。今日から、宜しく頼む。」  俺は真面目な顔で一礼をする。すると、皆からは、ちょっとした拍手が起こった。 さっきの妙な視線が、どっと減った。その代わり、好奇の視線が増えた気がした。 「天神 瞬?ああ。そうか!あの天神家の人だったのか!」  一際、元気な声が聞こえた。何だか、聞き覚えのある声だ。 「あれ?君は・・・。」  近寄ってきた人物には、覚えがあった。 「準決勝では、お世話になったね。」  そう言うと、肩を抑えた。ああ!そうか! 「俊男(としお)!君も、爽天学園だったのか?」  俺は、周りを気にせずに、しゃべってしまう。間違いない。全ソクトア空手大会 で、準決勝で闘ったパーズ拳法の免許皆伝の島山(しまやま) 俊男だ。 「あら。知り合いでしたの?」  恵は、興味津々で尋ねてきた。 「ああ。ほら。大会で、俺と準決勝で当たったパーズ拳法の!」  俺は、嬉しくなってしゃべった。すると周りから、ざわめきが起きた。空手大会 を見ていた奴が、多かったらしい。 「そうだ。天神 瞬だ。優勝者だよ。ほら。テレビでやってた・・・。」 「へぇ。見かけによらないって言うけど・・・。」  何だか、失礼な事を言ってる奴も居たが、一気に知れ渡ったようだ。恵の兄で、 空手大会の優勝者ともなれば、そうなるかな・・・。 「ああ。あの粗野な方の前に、闘っていらした拳法家さんね。」  恵は、思い出したらしい。 「島山 俊男と言います。こりゃ楽しくなりそうだね。」  俊男は、嬉しそうだった。何だか憎めない奴だ。 「瞬の妹で、天神 恵と申しますわ。」  恵は、俊男にちゃんとした挨拶をする。うーーん。優雅だ。  登校一日目から、ここまで目立つなんて・・・前途多難とは、この事だ。  大名行列のような登校だが、俺は、それなりに楽しんでいた。  俊男が同じ学園だと言うのは、正直嬉しいし、妹と同じ学年と言うのは、少し気 恥ずかしいが、兄貴としては、鼻が高い。それに思ったより良い奴が多そうだ。  そんな事を思っていると、学園が近づいてきた。良く見ると、校門の所に、誰か 立っている。しかも物凄い身のこなしが良い男だ。歳は60歳くらいだろうか?  俺達が近づくと、男は、俺の方を見てきた。 「見ない顔だな。お主が、昨日、手続きを済ませた者か?」  男は、俺の顔をじっくり見る。外部者だとでも、思っているのだろうか? 「校長。私の兄の、天神 瞬ですわ。」  恵が紹介してくれた。って校長!?この強そうな人が!? 「おおー。そうか。恵お嬢ちゃんの兄貴か!」  校長は、ウンウン頷くと、肩を叩いてきた。 「良い眼をしておる。お主もこの爽天学園に、夢を追い求めてきたか?」  校長は、いきなり凄い事を言う。一体、何の事だろう? 「しばらく、わしが、この兄貴を見てるから、お主達は教室に入ってなさい。」  校長が指示すると、ぞろぞろ出来ていた行列が、どんどん登校を済ませる。恵は、 こちらを見ると、手を振っていたので、俺も振り返してやった。俊男も、笑顔でこ ちらを見ていた。 「ええーと。校長先生。俺に、何の用でしょうか?」  俺は、校長に捕まっていたので、一応聞いてみる。 「ふむ。お主、昨日は、手続きしか済ませとらんかったからな。わしが、この学校 の校風を、教えてやろうと思ってな。」  校長が、首を縦に振りながら勝手に納得していた。校風か。知って置いて、損は 無いかも知れないな。 「お願いします。」  俺は、校長に頭を下げる。 「ウム。まずこの学園はだな・・・。何事に於いても、一番になる事を目指してお る。勉学!スポーツ!芸術!何事に於いても頂点を目指す、その心掛けが大事なの だ!!分かるか!?若い事は、挑戦への第一歩!!!」  校長は、いきなり熱く語る。・・・す、凄い迫力だ・・・。 「特に、お主は良い!いきなり空手で、一番になった!!」  校長も、あの大会を見ていたようだ。何だかなぁ・・・。 「爽天学園の爽は、『爽やか』の爽だ!卑怯な手口は一切認めぬ!正当な手口で、 天を目指せい!そして、良く覚えとけい!わしが、この学園の校長の一条(いちじ ょう) 大二郎(だいじろう)である!」  校長は、自己紹介を爽やかに答えた。何だか良く分からない迫力が、校長にはあ るなぁ。一条校長か。覚えて置かなきゃ・・・。 「お主の事は、テレビで見ていた。解説をしてた、わしの倅(せがれ)が、やたら と気に入ってたぞ。何でも、今時、珍しい正当派空手の極めた男らしいな!」  そう言えば・・・解説の一条さんが、俺の事をやたら褒めてたって、後で聞いた な。校長の息子さんだったのか。そう言えば、顔も似てるな。 「天神流空手と言います。その心は『専心』です。どんな技であれ、突き詰めれば 全ての技が必殺技になる。そこまで打ち込め。と言う事らしいです。」  俺は天神流の心構えの事を話す。一意専心。小手先の技を覚える事よりも、基本 を全て必殺技にせよと言うのが、その心で、基本技一つとっても、気を抜いて修行 する事は許されないと言う、厳しい物だった。 「ふむ。その心は、称賛に値するのぉ。我が一条流の弟子共は、今、流行りの『柔 道』なる物を取り込もうとしておる。強くなるのに、方法はいくらでもあると思う が、肝心の空手技を極めておらん。お主の心を、伝えて欲しいくらいだ。」  校長は、一条流空手の道場主でもあるらしい。今でこそ、解説をやっている息子 さんに経営を任せてるらしいが、学園の仕事が終わると、道場で稽古をしていると 言う。弟子達は、この校長の空手だけでは物足りず、締め技や投げ技で、相手との 優劣を競う『柔道』などの練習を、しているのだと言う。 「『柔道』を研究するのは良い事だと思います。でも、空手の事を忘れてと言うの は、良い方向じゃないと思いますね。天神流では、投げ技や締め技をどう返すか、 と言う研究ならしています。俺の爺さん曰く、腰を重くする事が、第一だと話して いました。空手を確実に出せる状況を、作り出すのが、良いと言う話です。」  爺さんは、良く相手の攻略などを考えていた。その術を俺は受け継いでいる。と 言うのも、ここ最近で、新興格闘技なども増えてきて、格闘ブームなどと言う言葉 も流行るくらいになってしまった。しかも、俺達のような古い技を受け継いでる所 の攻略をしながら、新しく立ち上げる物だから、中途半端に受け継いでいる所は、 どんどん廃れていると言う話だ。それだけ、向こうも本気だと言う事だ。それだけ に、新しい格闘技の研究は、欠かす事は出来ない。そこで出た結論が、常に自分の ベストを出せる方法を見つけると言う事だった。それを体現出来る体作り。それが、 他の格闘技への対処にも繋がると、爺さんは言っていた。  と言うだけなら簡単なのだが、体を作るのは、大変だった。腰を重くして、足腰 のバランスを、常に一定に保たなければいけない。そうして生まれる一撃を軽く扱 っては、いけない。何せ天神流は文字通り『一撃必殺』を目指した空手で、必ず倒 すと言う心構えを、まず叩き込まなければならないのだ。それだけに、相手のする 事を全て読んだ上で、一撃を見舞わなければならない。この拳で全てを圧倒する。 それを身に付けるのに、俺は爺さんから、恐ろしい特訓を受けた。最終的に、拳で 剣を叩き割れと言われた時は、どうしようかと思った。 「浮ついた気持ちで、技を出せぬ・・・か。フム。お主が極めていると言っていた のは、嘘では無さそうだな。お主とは、気が合いそうだな。」  校長も一空手家として、今の言葉は至上に聞こえたのだろう。確かに今、サキョ ウで流行っている空手を見て、俺は驚いた。型から入るのは悪い事じゃない。だが、 見る感じ、派手な技ばかり好まれている。踵落としや、回し蹴りなどから始める人 が居るようだ。だが、それは間違いだ。空手の基本は、中段突きだ。中段突きには、 空手の全てが詰まっている。上手に中段を突くためには、背筋を極限まで鍛えなけ ればいけない。足の運び、腕の位置、突く時の回転力。全てに、筋肉を躍動させ無 ければ、最高の突きは得られない。腕の振りだけで、突く人が多い。しかし、速く 重く突く為には、腕、足、腹筋、そして何より、背筋を鍛えなければいけない。俺 は、爺さんの道場で、必ず薪を、持ってくるのと割る作業を、やらされていた。他 にも腰には、必ず力を付けろと言われて、その関係の体操は、必ずやらされていた。 朝の型を、全てこなす運動の中にも、全ての筋肉を動かす箇所が取り入れられてい て、毎朝やるには、苦痛な所もある。だが、日々の努力を忘れては、いけないと言 うさんの言葉を信じて、俺は続けている。 「そうだ。お主、目標などは、あるのか?」  目標?そうだなぁ。色々あるにはあるけど・・・。 「俺は爺さんの教えを守っていく事が、目標です。」  俺は、これが一番だと答えた。爺さんは、俺にとって師匠であり、親でもあった。 「爺さんは、言っていました。強く正しい男になれと。俺は、それを目指します。」  俺は、そこは惑い無く言った。それは俺の中では、至上の言葉になっている。 「良い祖父を持ったな。お主の、その言葉を言う時の魂の輝きを、しかと見せても らったぞ。ますますもって、気に入った!」  校長は、感銘を受けたらしい。俺の肩を叩きながら、感涙していた。 「あーら。爺様。おはよう御座います。」  後ろから元気な声が聞こえた。どうやら生徒らしい。しかし、今『爺様』と言わ なかったか?校長を、その呼び方で呼ぶのは、どうかと思うな。 「江里香(えりか)!校内で、その呼び方は止めるよう言って置いた筈だ。」  どうやら、校長にとっては、余り得意な人物では無さそうだ。 「堅苦しい事は止めましょうよ。」  校長の妙な迫力を、素で受け流しているとは、結構、大人物かも知れない。 「ええい。お主の前では、礼儀もあった物では無いな。」  校長は、溜め息を吐く。どうやら、親しい仲のようだ。 「あら?そこの人が、例の転校生?」 「フム。転校生の、天神 瞬だ。」  校長から紹介を受けた。俺は、一礼する。 「ああ。もしかして、あのミス・フロイラインのお兄さんね?」  ミ、ミス・フロイライン?もしかして、恵の事か?アイツ、そんな渾名で呼ばれ ているとは・・・。有名なんだなぁ。 「変な呼び方は止めんか。全く・・・。近頃の若者は・・・。」  校長は、この頃、流行っているカタカナ言葉が、嫌いなようだ。古代では良く使 われていた言葉を、現代語に分かり易く直した言葉で、若者が好んで使っている。 「私は、ここの2年の、一条 江里香。宜しくねー。」  江里香さんか。結構、面白い人だな。それに綺麗だし・・・。口元を吊り上げる 仕草が魅力的だ。髪型は、ツインテールと呼ばれる髪型だが、真横では無く、やや 後ろに結んでいる所が、本当に尻尾みたいだ。目はツリ目だけど、結構大きい。2 年と言う事は、先輩に当たる訳だな。 「江里香先輩ですか。宜しくお願いします。天神 瞬です。」  俺は、ちょっと見惚れていた事を隠すために、挨拶をする。その仕草を見て、江 里香先輩はクスッと笑う。笑顔も可愛いなぁ・・・。惚れちゃいそうだ。 「天神君ね。こちらこそ宜しくね。」  江里香先輩が、手を差し出してきたので、握手を交わす。手は、結構柔らかいな。 「すっごーい。天神君って、何か格闘技とか、やってるんじゃない?」  江里香先輩は、いきなり尋ねてくる。分かるんだろうか?ああ。そうか。握手し た時に、俺の手を握って、分かったんだな。 「ふむ。健人(たけと)が、この前、話していただろう?あの時の大会の優勝者だ。」  健人?ああ。もしかして解説の一条さんか。って、随分詳しいな。それに一条っ て苗字だし・・・。やっぱ江里香先輩は・・・。 「ああ。父様が言っていた・・・そう言えば、名前も一緒ね。ふーん。」  やっぱり江里香先輩は、校長のお孫さんか。まぁあれだけ、馴れ馴れしければ、 頷けるよな。こんな綺麗な人が、お孫さんだったのかぁ。 「面白いわ。瞬君。貴方、空手部に入りなさいよ。」  うえ?空手部?しかも何で、江里香先輩が空手部に誘うんだ? 「こう見えても、空手部の主将を、やってるのよ?私。」  江里香先輩が主将・・・。でも考えてみれば、自然な事かも知れない。一条流の 出で、しかも校長の孫と来れば、人気もあるんだろう。 「ホウ。そうじゃな。そりゃ良いかも知れんな。」  校長まで、すんなり了承してきた。良いんだろうか? 「転校して来たばかりでも、入れるんですか?」  俺は、一応聞いてみる。結構、駄目って所もあるからな。 「わしが、校長と理事を兼任しとるしな。問題無いぞ。」  へぇ・・・。じゃぁ問題無いな。校長のお墨付きと来れば、話は早いだろう。 「決まりね。フフッ。放課後が、楽しみだわ。」  江里香先輩は、やけに嬉しそうだった。でもあれは、何か、企みのありそうな顔 だった。大丈夫なんだろうか?俺。  こうして俺の学園生活の最初は、波乱を含んだ挨拶から、始まったのである。  サキョウ都立爽天学園。  後から、情報を集めれば集める程、武勇伝は数知れない。  勉学、スポーツ、芸術どれをとってもトップを目指していると言うのは、間違い では無いらしく、名門校としては、申し分無い高校らしい。  俺はと言えば、中学の時は、特別な学校に行ってる訳でも無かったので、ちょっ と、この雰囲気は慣れるかどうか心配だった。それぞれの分野で、最高と呼ばれる 人材が、結構揃っているらしく、しかも、それぞれが、最高の部活だと言い張って いるので、学内での、いざこざと言うのは、後を絶たない。しかも校長が、覇を唱 えるのは、向上への第一歩などと言っているらしく、公認なんだそうだ。  ただ、決まりはあって勉学、スポーツ、芸術、格闘技の4分野に分かれていて、 それぞれ違う分野に干渉しては、いけないと言う事だった。まぁ、確かに、分野が 違うんじゃ、どう覇を競って良いかも、分からないわな・・・。  で、俺はと言うと、早速空手部に入部と言う事が、知れ渡ってしまい、他の格闘 技関連の部から、目を付けられたらしい。  俊男辺りが、『残念だね。部活の上じゃ、またしても敵同士と言う事だね。』な どと言っていたので、いざこざが絶えないんだろうなぁ・・・。ちなみに俊男は、 パーズ拳法部の特待生と言う事らしい。ちなみに恵から聞いたら、俺は、格闘技分 野の特待生として入学したと言う事なので、何処に入っても自由だと言われたのだ が、今朝の出来事を話したら、恵に嫌な顔をされてしまった。  何でも空手部は、江里香先輩が居るから、人気はあるのだが、浮ついた気持ちで 入部した奴が多いんだそうだ。俺も、その内の一人にされ兼ねないので、注意して 置くようにと、言われてしまった。そうなりそうな、自分が怖い。  それはさておき、俺は、俊男と同じクラスで、恵は、隣のクラスだった。でも、 その方が、良かったかも知れない。同じクラスでは、一々比較されるし、何かと目 立ってしまう。余りそう言う雰囲気は、得意では無い。それに、恵のクラスは、ほ ぼ恵がクラスを手中に収めているとの話で、逆らう者は、皆無だそうだ。我が妹な がら、恐ろしいなと思った。で、ミス・フロイラインの名は、有名らしく、既に全 校に広まっているようだ。入学早々、スピーチを完璧にこなして、先生のスピーチ の間違いを宣言したらしく、皆は、その様子に呆気に取られたらしい。しかも、正 論を言っているのは、恵の方で、スピーチの間違いの全てを指摘して、読み直した と言う事までやってのけたらしい。その先生は、ショックで1週間ほど寝込んだら しいが、間違いを正さなくては、いけないのが天神家としての当然の役目なんだと か・・・。  そんなこんなで、先生の間からもミス・フロイラインの名は、畏れられている。 本当に恵は強くなった・・・。兄貴としては、羨ましい限りだよ・・・。  この学園には、3人のミスが居ると言われている。それぞれ学年は違うらしいが、 その一人は、当然、我が妹の天神 恵だ。ミス・フロイライン。生粋のお嬢様。や る事が全てに於いて間違いを許さない完璧主義者で、入学試験では、全問正解のト ップで入学が決まったらしい。体育の授業などでも、非凡で非の打ち所が無いのだ とか。本当かよ・・・。そして2人目のミスがミス・リーダーこと一条 江里香。 何でも、江里香先輩は、決めた事は、全て実行する行動派で、人を使う事に関して は、超一流だと言う事だ。爽天学園には、応援団が無い。そこでスポーツ系の主力 で無いメンバーを中心に結束させて、見事に応援部にしてしまったと言うのは有名 だ。上に立つ全ての資質を兼ね備えていると言うのだから、恐ろしい話だ。その人 の部活に行くんだよな。俺・・・。大丈夫なのか?そして3人目が、ミス・アネゴ こと榊(さかき) 亜理栖(ありす)だ。何でも、名門の榊家の分家で、アズマに 住んでいる本家との仲は深い様だ。学内では、頼れるリーダーらしく、面倒見が凄 く良い事で有名だ。他校と、いざこざがあった時、単身他校に乗り込んで、交渉し に行った事で有名だ。周りに居た不良達が、一目で逃げ出した程、迫力があったら しい。本当かよ・・・。  聞けば聞く程、濃い話が出てくる。こんな学園、聞いた事も無いぜ。  そして俺は、空手部の前に居る。まぁ元々、空手部に入ろうとしてたし、別に構 わないんだが江里香先輩の話を聞く度に、少し引いてしまう。まぁ迷ってても仕方 無いか。 「天神 瞬。参りました!」  俺は、空手部の学内道場で、声を掛けてみる。 「お。早速来たね。主将!来ました!」  近くの部員が気が付いて、江里香先輩を呼んでくれた。すると、奥から、江里香 先輩が近づいてきた。胴着姿も、かなり決まっている。似合うなぁ。 「約束通り来たわね。胴着は、自分の持ってる?」  江里香先輩は尋ねてきた。そうか。今日いきなりじゃ、俺用の胴着なんて、在る 訳無いか。今日、いきなり入るとは思ってなかったしな。 「はい。いつでも練習出来るように、持ち歩いてますから、大丈夫です。」  俺は空手部に入れなくても、練習だけは欠かさないように胴着を持ち歩いていた。 まぁ、いつも学校から帰ってきたら、爺さんの道場に行く前に、胴着を着てランニ ングをやってたせいもあって、日課をこなすために、持ち歩いていたのだ。 「そりゃ助かるわね。じゃあ、待ってるから、着替えなさいね。」  江里香先輩は、そう言うと、道場の中に入っていく。俺は着替え室に案内されて、 早速、胴着に着替える事にした。と言っても、いつも着ていたので慣れた物だった。 「お?早いじゃない。じゃぁ、こっち来てね。」  江里香先輩は中央に促す。部員は・・・結構居るんだな。でも、体付きが、格闘 系じゃないのも結構居るな。練習してるのかな? 「じゃぁ、紹介するわね。今日から、皆の仲間の天神 瞬君よ。」 「天神です。宜しくお願いします!」  俺は早速、皆に一礼する。 「もしかして、空手大会で優勝した、天神君ですかね?」  ・・・言われると思った。まぁ空手部なら、見て無い奴は居ないよな。 「はい。ですが、ここでは若輩者です。宜しくお願いします!」  俺は、またしても礼をする。まぁ、本当の事だしな。 「良く出来ました。じゃぁ、皆、体操から入るわよー。」  江里香先輩は、基本中の基本から始める。体操は、必ずやらなくてはならない。 まず、体を解しておかなければ、怪我をするからだ。さすがに皆、真面目にやって いる。体操を軽視すると、大怪我に繋がり兼ねない。 「・・・アイツ。本当に強いのかな?」  後ろから声がする。ヒソヒソ話しているようだ。 「やってみなきゃ、何とも言えねぇけど。あの体付きは、悪くねぇぜ。」  どうやら先輩のようだが、ヒソヒソ話は、止めてもらいたいなぁ。余り慣れてな いし、気分が、良い物でも無い。  やがて、体操が終わる。その後、少し走りこみをして江里香先輩は、皆を集める。 「よーし。じゃぁ空手部名物行くわよ!」  江里香先輩が言うと、皆、『押忍!』と答えて、俺の方を見る。 「あのー。名物って?」  俺は、江里香先輩に聞いてみる。何だか、嫌な予感がする。 「新人さんの100人組み手よ。期待してるわよー?」  サラッと、とんでもない事を言う。100人組み手って・・・。 「ああ。100人組み手って言っても、うちの部員だけだから、大丈夫よ。」  大丈夫って・・・この部だけでも、20人以上居るじゃないか。 「貴方の実力も量るんだから、真剣にやってね。」  江里香先輩は、俺の抗議の目など、見なかった事にしているらしい。 「よーし!最初は、俺から行きます!!」  さっき、ヒソヒソ話してた奴だな。 「宜しくお願いします。」  俺は、相手に礼をする。すると、相手は、礼をした瞬間、襲い掛かってきた。 「ドリャアアアア!!」  相手が、真正面から突きを繰り出してきた。しかし俺にとっては、遅い拳にしか 見えなかった。俺は敵の拳を捌くと、返しに中段を突き入れる。すると、相手は、 5メートルくらい吹き飛んだ。 「それまでよ。」  江里香先輩は、試合を止めた。まぁ当たり前かな。本気で突き入れて無いから、 骨は折れてないと思うんだけど・・・。 「やっぱり、只者じゃあ無いわね。特例よ。アンタ達全員で、掛かると良いわ。」  皆がざわめく。江里香先輩は、俺がどれ程の実力を秘めているのか、既に悟った ようだ。しかし全員でって・・・まぁ、手加減出来れば良いけど。 「しょうがねぇ。・・・悪く思うなよ。」 「行くぜ!一年坊!」  先輩達は本気だ。と言うのも、さっき吹っ飛ばした人が、まだ蹲ってるせいだろ う。そこまで本気で、入れて無いんだけどなぁ・・・。 「それじゃ、礼!」  江里香先輩の合図で俺は礼をする。ざっと20人ちょっとか、部員達も、礼をし てきた。そして、その瞬間に、前の5人程が突っかかってきた。前方に2人、左右 にそれぞれ1人ずつに、上空から1人か。俺は、まず飛び蹴りで、襲い掛かってき た奴を空中で止めて、顔面に飛び蹴りをもって返す。その後、呆気に撮られた前方 2人を上空からの唐竹割りと、もう一人は中段突きで吹き飛ばす。そして左右の2 人が襲い掛かるのを、捌くと同時に、しゃがんで躱して、一人の足を下段回し蹴り で、払い飛ばして、もう一人を中段蹴りで吹き飛ばす。あっという間に5人を倒す と、部員達は、警戒し始める。もしかしたら、倒されるかも知れないと思い始めた のだろう。元より仕掛けられた時点で、俺は、そのつもりだ。 「ちっ。化け物め!!」  皆は、果敢に攻めてきた。そうじゃなきゃ面白くない。俺は、両手を腰に持って いくと、四方から来る攻めを全て一撃で吹き飛ばす。正中線四連突きを、横に改良 した天神流の『四海(しかい)』だ。そして、後ろから襲い掛かってくるのを察知 したので、回し蹴りで1人、その回転で、肘を打つ事で2人目を倒すと、そのまま、 次の敵に回し蹴りを変化させて、斜めから切り込むように入れる。その隙に腕を掴 まれる。1人が左腕、1人が右腕だ。そして、足を掴んでる奴が1人。なる程。俺 の動きを封じようと言う訳か。だが、まだ甘い。 「オラアアアア!!」  動きが封じられたと思ったのか、俺に正拳を叩き込んでくる奴が居た。しかし、 俺は、それを敢えて腹に受けた。すると叩き込んだ相手が、拳を傷める。瞬間的に 体を硬化させる天神流受け技『鋼筋(こうきん)』だ。それを見ると同時に、俺は、 腕を取っている2人の襟を掴んで、強引に中央で、ぶつけさせると、足に捕まって る一人を、蹴りを打つ事で、剥がした。その剥がした相手を、残りの敵にぶつける 事で、全員を倒してのけたのである。我ながら、やりすぎてしまったかも知れない。 「それまでね。話は聞いてたけど、やるわねぇ。瞬君。」  江里香先輩は、男子部員を全て倒した俺に、拍手を送る。 「ま、女子部員も居るんだけど、貴方相手じゃ、無理ね。」  江里香先輩は、女子の方を向くが、やろうとする奴が居なかった。男子部員の手 当てに回す。まぁ女子を殴る趣味は無いし、丁度良かったかも知れない。 「じゃ、最後に私とね。主将が相手しない訳には、行かないしね。」  え?江里香先輩と・・・?冗談だろ。 「先輩。俺は・・・。」 「女だからって理由なら、聞かないわよ?こう見えても、主将なんだからね。」  江里香先輩は本気だ。それに今まで突っかかってきた部員達とは違う・・・。闘 気のような物を感じる。あそこまで身に着けているって事は、かなり本気でやって きた証拠だ。なら、俺も、応えない訳には行かないな。俺は構える。 「そう。それで良いわ。」 「失礼します。」  俺は一礼をする。江里香先輩も、一礼をすると構えだした。隙が無い。 「ハイィィィィィ!」  江里香先輩は、鋭い中段蹴りを放ってきた。俺は、それを右に躱す。それを見越 したのか、先輩は蹴りが戻る前に、もう片方の足で蹴りを放つ。速い! 「・・・ふぅ。」  俺は間一髪、肘でガードする。こりゃ江里香先輩は、本気で強い。相当やってき たのだろう。俺は、甘く見てたのかも知れない。 「受け切るなんて、見事ね。さすが空手大会優勝者。」  江里香先輩は、ニヤッと笑うと腰に右手を当てて、残る左手で正中線に構える。 さっきとは違って、攻撃が主の構えだ。 「さーて・・・本気で行くわ。」  江里香先輩は、そう言うと、下段蹴りを繰り出してくる。俺は手で、それを払い のけると、人差し指と中指で、突き出すような形の拳を作る。それで江里香先輩の 腹を突く。しかし江里香先輩は、身を捻って避けると、顔面への回し蹴りを放って くる。俺は、それを手の甲でガードしようとしたが、蹴りが突然変化して、中段蹴 りになる。これも速い!俺は、腹に力を入れると、受け技『鋼筋』で蹴りを受けた。 「うわっと!!」  俺は先輩の蹴りで、50センチ程、後ろに下がらされた。『鋼筋』を見抜いた先 輩が、俺の腹に足を付けたと思うと、一気に力を解放させて、蹴りに行ったのだろ う。溜めて放った蹴りは、並の威力では無い。 「凄いや。先輩。変化も早ければ、威力も段違いだ。」  俺は、先輩の実力を認める。本物だ。女性だからって甘く見てたら、倒されてし まう。それくらい先輩は強かった。良く見ると、腕は細く見えるが、結構引き締ま っている。足もそうだ。こりゃ舐められない。 「そう言う瞬君だって、対応力が段違いよ。蹴りで、こっちの足が痺れるなんて、 思いもよらなかった物。追い討ち、掛けられなかったじゃないの。」  江里香先輩は、俺が吹き飛ばされたら、追い討ちをかけようと思っていたらしい。 しかし、思ったより下がらなかったのと、俺の『鋼筋』で蹴った足が、痺れてしま ったらしい。追い討ちを掛けるには、厳しいと判断したのだろう。  江里香先輩は、威力もさる事ながら、とにかく攻めが速い。女性ゆえの身軽さと 言うのもあるのだろうが、技のキレが抜群なので、油断してると、食らってしまう だろう。筋力が無くても相手にダメージを与える方法を、熟知しているようだ。 「先輩に、相応しい構えを、見せなきゃならないな。」  俺は、どっしり腰を落として、右手を下からアゴに当てて、左手を水平にする。 「それ、テレビの時に見せた『十字の構え』ね。」  江里香先輩は、嬉しそうな顔をする。この構えは、相手が本物だと認めた時に出 す構えだ。江里香先輩は、本気で強いからな。手加減出来そうも無い。 「良い物を見せてあげるわ。」  江里香先輩は、左手を前に持っていくと、右手を腰に持っていって、拳を作る。 空手の基本の構えだが、あそこまで極端に構えると、中段突きを出しますと、言っ ているような物だ。何より江里香先輩の闘気が、それを物語っている。 「素直だけど、良い構えですね。よっし・・・。」  俺は『十字の構え』のまま、江里香先輩に近寄る。すると江里香先輩の右手が、 唸るように飛んできた。俺は、それを間一髪で左手で受け止めた。 「やるわねー。私の『隼突き(はやぶさつき)』を防御するなんて。」  江里香先輩は技名を言う。確かに、その名前に相応しい程、素早い突きだった。 まさか空気の音が鳴る程の突きを、打って来るとは思わなかった。 「江里香先輩だって驚きですよ。まさか空気を切る程の突きを、打って来るとは思 いませんでしたよ。本当に凄いや。」  俺は掛け値無しに、ビックリした。今の突きは、余程の修練を積まない限り、打 てる物じゃない。それも、基本を全て反復する事でしか、打てない突きだろう。 「驚くのは、速いわよ!」  江里香先輩は足を踏ん張らせると、右に左にと、連続して『隼突き』を繰り出し てきた。俺は、それを限界まで速くした左手で、防御する。何発かは防御し切れな くて食らってしまった。こめかみの辺りにも、一回ヒットする。  俺は、このままでは、いけないと思って、防御した瞬間に反撃する。俺の正拳は、 先輩の腹を狙う。しかし先輩は、体を捻って避けた。しかし、胴着に少し掠っただ けで、先輩の胴着は焦げてしまった。 「あーら・・・。さすがねぇ・・・。掠っただけで、この威力だなんてね。」  先輩は、少し冷や汗を流す。 「俺だって、技を見せないと駄目ですしね。」  そうは言っても、やっぱり先輩相手に、本気の技なんて俺には打ち込めない。で も、先輩の実力は、本物だ。どうすれば・・・。 「瞬君。対決なんだから、男も女も無いわよ!」  先輩は、俺の心を見抜いたように言ってくる。だが、俺は、そんな先輩を殴るな んて出来ないな。仕方が無い。あの技で行こう! 「ハアアアアアアアアアアアア!!」  俺は、左手を顎の前に持って行くと、右手で、拳を作って腰に当てる。そして、 その拳に、俺の闘気を込める。拳が震える程の闘気だ。 「とうとう良い技を見せるつもりね。そうこなくっちゃ!」  江里香先輩は、嬉しそうだ。しかし、この拳を当てる訳には行かない。 「先輩!多少の痛みは、覚悟してくれ!!デアアアアアアア!!」  俺は宣言しておくと、拳を、物凄い勢いで前に突き出す。その瞬間、空気が震え た。そして、その拳圧が、江里香先輩に襲い掛かる。 「な、何これ!?わわっ!」  先輩は、思いもよらぬ攻撃にビックリしたのか、拳圧が当たると、吹き飛ばされ てしまった。しまった・・・やり過ぎたかな? 「主将!」  女子部員が、江里香先輩に近寄る。 「先輩!済みません!」  俺も、我に返って、先輩の所に近寄る。 「何、謝ってるのよ。良い技だったじゃない。」  先輩は、案外ケロッとしていた。やっぱり鍛えてるんだな。でも、ちょっと足に 来ていたらしい。立ち上がれないみたいだ。 「私の負けよ。瞬君たら、私が吹き飛ぶくらいで済むように、手加減するんだもん。 それで、こんな吹き飛ばされたんじゃ、文句も言えないわよ。」  先輩は、分かっていた。俺が本気を出したら、こんな物じゃ済まないと言う事に だ。俺の拳は、剣すら打ち砕く拳だ。 「済みません・・・。俺、やっぱり、先輩を本気で殴るなんて出来なくて・・・。」  俺は何より、この先輩が気に入っている。そんな相手に、思いっ切り拳を当てる なんて、出来そうも無い。 「良いのよ。瞬君の実力も分かったし。これからも、宜しく頼むわよ。」  先輩は、そう言うと、毅然と立ち上がった。やっぱり先輩は、こうやって毅然と している方が、似合うなぁ。 「分かりました!宜しくお願いします!」  俺は、改めて礼をして挨拶をした。それにしても、いきなり部員を倒してしまう なんて良いのかな?主将にも勝っちまったし・・・。まぁ、何とかなるかな?  俺は、好い加減な事を思いながらも、これからの事を考えるのだった。  帰り道。恵は、生徒会に出入りしているらしく、空手部との帰りの時間と、ほぼ 一緒だった。校門で、恵が待っていたので、一緒に帰る事にした。  で、今日の出来事を話したら、恵は呆れていた。空手部員を、のした挙句、主将 まで倒してしまうんだから、呆れられるのも当然か。でもやり方が、ミス・リーダ ーらしい、とんでもないやり方だと、呆れていた。  俺の所業は、勿論の事、江里香先輩に、呆れていたのだろう。これが続いたら、 どうなる事かしらね?と釘を刺す辺り、恵らしいと思った。それにしても、恵は嫌 味を言うのが、上手くなったなぁ。それにしっかりしてるし・・・。  俺にとっては、初日と言う事もあって、クタクタになっちまったぜ。さすがに、 色々な事があり過ぎた。どうにも、慣れない出来事もあったしな。  そんなこんなで、何事も無く天神家に帰ってくる。すると、門の前に、葉月さん が立っていた。そして恭しく、礼をする。 「おかえりなさいませ。瞬様に恵様。」  葉月さんは、挨拶をしてくる。 「へぇ・・・。私より、兄様の方が先ですのね。」  恵は、意外そうな顔をしていた。 「も、申し訳ありません。瞬様の使用人だと言われたので・・・迷ったのですが。」  葉月さんは、敢えて俺を先に呼んだらしい。自然だったのに、故意だったのか。 「正しいわ。でも、一応ここの主は私だと言う事は、忘れては、なりませんわよ?」 「重々身に染みております。恵様程、主として、似合うお方は居ません。」  葉月さんは、使用人として完璧な答えを言う。睦月さんの妹だと言う事もあって、 その辺は、鍛えられているのだろうか? 「おい。恵。余り気にするのも、どうかと思うぞ?」  俺は口出しする。でもお門違いかも知れないな。 「兄様は、帝王学を習っていないから、分からないのです。こう言う細かい事から、 注意しないと、全てが、だらしなくなってしまいますのよ?」  恵は呆れて、反論してきた。帝王学・・・か。そうだよな。恵は習ってきてるん だよな。俺がほったらかしにしてきた所を、全部、恵は、こなしてきたんだよな。 「・・・済まんな。恵。俺は、その辺りの事を放り出して、家を出たんだった。恵 に言う資格は、無いのかも知れないな。」  俺は真摯に謝る。何せ、ここの跡継ぎは、俺になるはずだった。それを恵に変え させたのは親父じゃない。親父の期待を裏切った、俺なのだ。 「もう・・・。私は、心構えを言っただけです。兄様は、兄様の信じる道を行った のですから、気にされると、こちらが困ります。」  ・・・恵は優しいな。ここで、お小言の一つでも言っても、普通だと言うのに、 俺が気にしてる事に対して、気を使ってくれている。 「ありがとう。恵。俺、やっぱり、帰ってきて良かったよ。」  俺は、恵に再会出来た事を、素直に喜ぶ事にした。恵は強くなった。しかも、し っかり者になった。俺も、負けていられない。 「そう言われると、光栄です。待っていた甲斐が、あったと言う物です。」  恵は、サラリと俺の礼を返す。相変わらず、完璧に返してくるな。 「恵様。お待ちしておりました。」  玄関まで来ると、睦月さんが出迎えてくれた。恵は、当然のように、カバンを睦 月さんに渡す。俺は、自分で持っていこうと思ったが、葉月さんが、カバンを渡す ように合図を送ったので、渡す事にした。これも仕事の内なんだろう。そして、恵 と軽く挨拶をすると、それぞれの部屋へと戻る。恵は睦月さんが、俺には、葉月さ んが、御付きの使用人として、付いている。 「ねぇ。葉月さん。恵は、強くなったな。俺には、出来すぎた妹だよ。」  俺は、葉月さんに恵の正直な感想を言う。俺が出て行く前は、しっかりはしてい たが、あそこまで強い目を、していなかった。 「瞬様。それは表面しか見てらっしゃらないですよ。恵様は、確かに、お強くなり ました。でも、優しさは、全然変わってません。今日のお小言だって、私が、姉さ んの前で、同じ事を言ったら、注意されると気を使っての事なんですよ?」  葉月さんは、意外な事を言う。でも確かに、言う通りかも知れない。恵は、煩く 言うが、優しい響きを忘れない。優雅さの中にも、必ず親しみを感じるのだ。 「そうだね。葉月さんの言う通りだ。これからは、ちゃんと見てやら無いと、怒ら れてしまうかも知れないな。」  俺は、恵の事を、まだ他人としか見れて無い部分がある。3年も離れて暮らして いたのだ。仕方の無い事だ。 「良かった。瞬様は、お変わりないようで・・・。」  葉月さんは、フフッと笑う。時々、葉月さんは、少女のように透き通った笑顔を 返してくるから、俺としては、目のやり場に困る。 「人間、そう簡単には変われない。でも、爺さんと約束した事は、忘れないつもり だよ。」  俺は、爺さんと約束をした。強く正しい人になれと。 「その事を話す時の瞬様は・・・少し怖いです。」  葉月さんは、困ったような目をしていた。・・・怖い?何でだろう? 「俺って、そんな変な顔してるかい?」  ちょっと気になった。強く正しい人になりたいと願う時の俺・・・。どんな顔を しているのだろう。想像出来ない。 「凄く良い顔をされています。眩しいくらいです。・・・でも、遠くに行っちゃう ような・・・そんな顔を、しています。」  葉月さんは、正直に答えた。そうか・・・。確かに俺の夢は尊い。故に突拍子も 無い所に、視点を合わせてるかも知れない。それが、葉月さんにとっては、怖いの だろう。俺自身、気が付かなかった事だ。 「そっか。気を付けるよ。」  気が付かない所で、そう思われると言うのも、斬新な情報だ。 「いえ。瞬様の人生の目標なら、尊くて当たり前です。自身を大事にして下さい。」  葉月さんは、一礼をする。あの程度で、俺に対して言い過ぎたと思っているとは ね。俺は、何も気にして無いって言うのに・・・。 「大した目標じゃないよ。それより・・・夕飯まで、どれくらいだい?」  俺は、時計に眼をやる。今は、夕方の5時半過ぎだ。 「1時間程、時間があります。」  葉月さんは、即座に答える。なる程。6時半か。ちょっと早いかも知れないが、 天神家なら、ありえる時間だ。 「確か、庭に道場があったよね。使って良いのかい?」  俺は、胴着を手に持つ。やっぱり体を動かしてないと、落ち着かないのだ。 「ここは、恵様だけでは無く、瞬様の家でもあります。大丈夫ですよ。」  葉月さんは、嬉しい事を言ってくる。まだ他人行儀な俺を、ここの家の家人とし て認める。その発言に、どれだけ救われる事だろう。  俺は、礼を言うと、道場の方へと向かう。すると、既に人の気配がした。 「タッ!!」  その掛け声は、恵だった。恵は、胴着に着替えて練習をしていた。 「・・・あら。兄様。稽古ですか?」  恵は、実戦練習をしていたらしく、汗を拭いていた。その相手を務めていたのは、 睦月さんだった。意外な取り合わせだが、結構、似合っていた。 「ああ。やっぱ天神流伝承者としては、稽古は忘れずにしないとな。」  俺は胴着に身を包む。やはり、しっくりくる。 「へぇ。兄様って・・・意外と、筋肉質ですのね。」  恵は、胴着を着ても、まだ狭そうにしている筋肉を見て、そう思ったらしい。ま ぁ俺は、同学年の中では鍛えている方だろう。 「恵は、何をやってるんだい?もしかして空手?」  恵も、空手をやるのかと思ったが、違っていた。 「合気(あいき)をやっています。」  恵は、使用人を掛かってこさせる。しかし、全て往なしてしまう。何て自然で、 何て早いんだ。恵は、ああ見えて、凄い実力の持ち主だったのか。あれは、合気道 を本格的にやっている動きだ。 「凄い物だな・・・。」  俺は、ビックリする事だらけだと思った。恵は、いつの間にか、合気道の達人に なっている。睦月さんが、主に鋭い攻撃を放っている。しかし、流れるように優雅 に往なしている。攻撃を自分の力を加えて相手に返す。何と、理想的な合気だろう。  睦月さんだって、藤堂流合気道での相当な使い手の筈だ。恵に教えたのも、恐ら く睦月さんだろう。葉月さんも、相当な実力な筈だが・・・。睦月さんは、わざと 取らせているのかも知れないが、結構鋭い動きだ。なのに恵は、素晴らしい動きで 返している。理想的な合気が、そこに存在していた。 「俺も、負けてられないな。」  俺は、天神流の型を次々と、こなしていく。そして、型を全て終えると、念入り に体を動かしていく。いつもやってる事の延長だ。 「兄様は、いつも、そんな事をやってらしたの?」  恵は尋ねてきた。何かやってるだろうか?俺。 「さすがは、天神流空手ですね。」  睦月さんも感心している。今は、親指で逆立ち懸垂をしている所だ。特に変わっ た事をやっているつもりは無い。向こうでは、いつもやってた事だ。 「よし。準備運動は、バッチリだ。」  俺は、多少汗を掻き始めたので、正拳を突き出す練習に、蹴りを放つ練習を始め た。こう言うのは、道場のような所で、やるに限る。 「さすが瞬様。継承者に選ばれるだけ、ありますわね。」  睦月さんは、冷や汗を掻いていた。 「ええ。兄様の動き、本人は、当然のようにやっているけど、音が違うわね。」  恵が、分析をしていた。本人では分からない物だ。拳を振る時に、空気を切り裂 くのは、当然の事だと思っている。江里香先輩もやっていたが、拳や蹴りを、何年 も動かしていれば、必然的に、空気が切り裂く音が聞こえる物だ。 「勉強になりましたわ。今度、お相手します。兄様。」  恵は、ニッコリ笑う。恵が相手?・・・どうも、さっきの鋭い技を見てると、や られそうな感じがするな。そう思う程、無駄が無い動きだった。 「瞬様。そろそろ夕飯のお時間です。」  道場の入り口で待っていてくれたのか、葉月さんが、普段着を用意して待ってい てくれた。こう言う何気無い事が、俺にとっては嬉しかった。  しかし恵が、体を動かす格闘技をしているとは、思わなかったな。これは思わぬ 収穫だったな。  食事を終えると、軽く談話し始める。今の話題は、今まで3年間を、どう過ごし てきたかと言う事だ。俺はと言えば、この3年間は、修行人生だった。来る日も来 る日も、爺さんと修行三昧。最初の1年間は、結構泣かされた物だ。でも、強くな りたいと思った。企業家としての力では無い。いざと言う時、何かを守れる力を身 に付けたいと思った。爺さんに話すと、爺さんは師匠になる事を快諾してくれた。  俺は、そのおかげで、この体を作れたと思っているし、目的意識も、ハッキリし ていたので、付いてくれたんだと思う。理想を語るのは、今の世の中には、合わな いかも知れないけど、大事にしたいと思った。 「兄様らしい。その上、お爺様の、強く正しくと言う願いを守ってらっしゃるのだ から、義理堅い事ですわね。」  恵は笑ってはいたが、馬鹿にしたような感じでは無かった。それは、俺が真剣に 話したからだろう。睦月さんも、ヤレヤレと言った目付きで見ていたし、葉月さん も少し困った顔をしていたが、俺らしいと思ったのか、ニコニコ笑っていた。 「恵は、この3年間どうだった?」  俺は尋ねてみる。すると、恵は、中空を見つめて、少し溜め息を吐く。 「天神としての、全てを教わった3年間でしたね。父は、その名の通り厳しかった けど、愛情で接してくれたと、私は思っております。」  恵は迷い無く言った。そうだな。俺は、その愛情に溺れたくないから、父から逃 げた。父の愛情は、俺達を育てる事に集中していた。その点について、疑った事は 一度も無い。だが、俺は父の夢を追わず、爺さんの夢を背負った。 「そう言えば、俺の手紙は届いてたか?」  俺は尋ねてみる。 「?・・・兄様、手紙など、お出しになったのですか?」  恵は、怪訝そうな顔をする。どう言う事だ? 「ああ。1年に3回は出したぞ?届いてないのか?」  届いてなかっただって?そんな馬鹿な。 「・・・睦月。どう言う事です?」  恵は、睦月さんを見る。この家の事について、一番知ってるのは睦月さんだ。だ から、睦月さんに尋ねたのだろう。 「・・・申し訳ありません。・・・厳導様の、御意向でした。」  睦月さんは素直に謝る。そして、使用人に目配せすると、数個の封筒を持ってこ させた。そこには『父と妹へ』と書かれた俺の文字があった。間違いなく、俺が書 いた手紙だった。 「父の意向と言いましたね。何故、父は、こんな事をしたのです?」  恵は、明らかに怒っていた。俺だって、不思議に思う。 「厳導様は、恵様に天神を継いでもらうべく、命を削って鍛えておられました。こ の手紙で、恵様が瞬様の元に行ってしまわないか、ご心配だったのでは?と推測し ます。」  睦月さんは、予想を交えて言う。現実に父は、恵に命を削って、天神家に相応し い教育を施していたのだろう。それにしても・・・。 「私の意志も、甘く見られたのですね。なら言っておきます。二度と、このような 嘘が無いように、誓ってもらえるかしら?」  恵は、睦月さんの顔を睨み付ける。あれは、本気の目だ。 「私の今の主人は、恵様です。この身に誓いましょう。」  睦月さんは、迷い無く言った。そうか。その時の主人は、父だったのだ。逆らう 事も、ままならなかったのだろう。 「宜しい。信用しましょう。」  恵は、惑い無く言った。強くなった物だ。 「それにしても、忙しかったんだな。恵。」  手紙を出すのも、憚られる程だったとは・・・。 「今と、余り変わらぬスケジュールですよ。」  恵はサラリと言うが、今だって、稽古の前にヴァイオリンの習い事をしていた。 あんな事を、毎日やってるのか・・・。恵は。 「兄様こそ、一日のほとんどを修行に費やしてるのですから、似たような物ですわ。」  そう言われれば、そうかもしれない。日課になってしまったので、今でも修行は 続けている。手を抜くと、忘れそうだと言うのもあった。 「俺のは、日課になってるからな。身に染み付いちまってるよ。・・・そうだ。睦 月さんや葉月さんは、どうだったのかな?この3年間は。」  俺は、睦月さんや葉月さんの方を見る。 「私は、使用人として、厳導様並びに、恵様を補佐する毎日でした。」  睦月さんは、教科書通りと言った答えを返してくる。 「睦月は、使用人としてのスキルを、極めたいとお考えのようです。」  恵が、睦月さんの考えを代言する。 「へぇ。でも睦月さんなら、もう極めてる感じするなぁ。」  俺は、睦月さんくらい出来た使用人は、中々居ないと思っていた。 「まだです・・・。私は、あのナイアに勝っていません。」  睦月さんらしからぬ、悔しい声を出す。ナイアって誰だ? 「ああ。ご奉仕メイド大会の事ね。睦月も、気にするのねぇ。」  恵は朗らかに笑う。ご奉仕メイド大会か・・・。この事に関しては、睦月さんは 目の色を違わせている。余程、悔しいんだろう。 「あのナイアに10年も、屈辱を味あわされています。今年こそは・・・!!」  睦月さんは、大会の優勝を心から望んでいる。まぁ、目標があるのは良い事かも 知れない。それにしても、そのナイアって人。睦月さんに勝つくらいだから、相当 の腕の持ち主なのだろう。想像も付かない。 「燃えてるなぁ・・・。今度、その大会、見に行っても良いかな?」  俺は、純粋に興味があった。どんな事をやるのだろうか?それに、睦月さんをも 超える相手と言うのが、何処まで出来るのかをだ。 「瞬様も来られるのでしたら、尚更負けられません。今年こそは!!」  睦月さん、いつになく闘魂モードだ。 「私は、3年前から拝見してますけど・・・あのナイアを超えるのは、相当の事で すわよ?睦月。分かってらっしゃるわね?」  恵は挑発する。多分、さっきの手紙を隠してた事への礼だろう。何とも、抜け目 が無いと言うか・・・。我が妹ながら、恐ろしいな。 「恵様。日々の鍛錬を倍に増やしたのは、伊達や酔狂ではありません。」  睦月さんは、今年は、昔の仕事量を倍に増やしたのだと言う。凄い根性だ。 「そうでしたわね。でも睦月?ナイアの事ばかり気にしていられるのかしら?」  恵は、ニヤニヤしていた。今度は何だろう? 「いいえ。油断しているつもりはありません。何せ、血を分けた姉妹ですから。」  睦月さんは、葉月さんの方を見る。 「わ、私は・・・。」  葉月さんは、オロオロしている。って事は、葉月さんもご奉仕メイド大会に出場 するんだ。意外だったな。 「そうね。3年前に、ここに使用人として、睦月を追いかけてきて、2年前に大会 に出場。その時こそ、入賞を逃したけど。去年は、3位だったのには、私も驚きま したわ。」  恵は、しみじみと、その時の事を思い返す。へぇ。葉月さんも凄いんだなぁ。3 位って事は、睦月さんの次じゃないか。 「葉月さんは、何で、うちの使用人になろうと思ったの?」  俺は、尋ねてみた。 「お屋敷で、姉さんが1人で頑張ってる姿を見て・・・憧れたからです。」  葉月さんは、臆面も無く言った。良いなぁ。純粋に、尊敬してるんだろうなぁ。 「まぁ葉月が入る前辺りは、丁度忙しいのもありましたね。でも葉月が、私の後を 追いかけて、お屋敷の使用人になると言われた時は、さすがに驚きました。」  睦月さんは、葉月さんは、きっと違う道を歩むと思っていたのだと言う。確かに 葉月さんは、少し引っ込み思案な所がある。キビキビとした使用人の仕事は、出来 ないと思ったのだろう。 「私は・・・先頭に立って、お屋敷を守っている姉さんを見て、憧れた物です。」  葉月さんは、ニッコリ笑う。参るなぁ。あんな笑顔で言われるなんて、睦月さん も幸せ者だなぁ。 「葉月。持ち上げ過ぎですよ。それに私は、厳導様に仕えられて幸せでしたから。」  睦月さんは、本当に父の事を愛してくれていた。父は、恵が生まれた後に、すぐ に1人になった。母は、とっくに他界している。父は、その事を一度も、俺達に話 してくれなかった。何故、母が居ないのか疑問に思う時もあった。でも、この睦月 さんが代わりに、何でもやってくれた気がする。俺が睦月さんに、まだ頭が上がら ないのは、ほとんど母親代わりだからだ。 「睦月は、籍を入れれば良かったのよ。」  恵は、ズバリと物を言う。 「恵様のお気持ちは有難いですが、私は、厳導様のお側に仕える事が幸せでしたか ら・・・。最期まで看取れて、幸せでした。そして、恵様。貴女にお仕え出来るの は、厳導様にお仕えするのに匹敵する幸せだと思ってます。」  睦月さんは、父と関係を持ったりもしてたのだろう。本当に、母親代わりだった。 しかし睦月さんが望んだのは、母としての喜びではなかった。いつまでも側に仕え て、世話をする。それが出来ると言う事が、睦月さんにとっての幸せだったのだ。 「睦月さんは・・・仕事に誇りを持っているって感じる。さすがだよ。」  俺は、嘘偽りの無い気持ちを言う。 「皆様、褒め過ぎですよ。仕事に忠実なのは、どの世界でも一緒です。」  睦月さんは、照れ隠しに咳払いをする。 「私も、仕事に誇りを持てるように頑張りますね。」  葉月さんは、首を斜めにしてニッコリ笑う。本当に、可愛い笑い方をする人だ。 「葉月は、もう仕事に誇りを持つべきです。料理や清掃などは、まだ私の方が上で すが、世話をする事と、ベッドメイクなどは、私を凌ぐ力を持っている筈です。」  睦月さんは、さすが良く見ている。葉月さんの事は、既に実力で認めているよう だ。細かな所のチェックは、睦月さんの方が上だな。 「そうね。伊達に、去年3位を取っていないと言う事ですわね。今年も出るんでし ょ?出るからには、2人共、優勝を狙う気概で、出るのですよ?」  恵は、大会の事について話す。そうか。睦月さんも葉月さんも、出場するのか。 こりゃ、応援にも力が入るってものだ。 「無論、その気です。・・・葉月。大会で、もし力を出さなかったりしたら、怒り ますよ?私をも、追い抜く覚悟で出場なさい。」  睦月さんは、本気の目をしていた。葉月さんは、少しビクッとしていたが、首を 少し縦に頷かせると、睦月さんの目を見る。 「私も、藤堂の女です。出るからには、力を尽くします。」  葉月さんは、キッパリと言った。あの葉月さんが、ここまで言うとは・・・。 「それでこそ我が妹の葉月です。藤堂の教えは『悔いを残すな』ですからね。そう こなくては、面白くありません。」  そう言えば2人とも、藤堂流合気道の武道家だったんだよな。まぁ、そんな風に 見える事は、ほとんどないが・・・。 「麗しき姉妹愛ですわ。私達も、こうありたいですね。兄様。」  恵は恐ろしい事を言う。俺も、恵と本気で何か争えとでも言うのだろうか?言っ ちゃ悪いが、頭が上がるとは思えない。 「俺は、恵と争いたい訳じゃないぞ。」  俺は、正直に答える。冗談じゃないよ。 「ま、そうですわね。せいぜい手合わせで、我慢して置きますか。」  恵は、冗談か本気か分からないような笑顔をする。おっそろしいなぁ・・・。 「恵様。そろそろお時間です。」  睦月さんが合図をすると、時計に目をやる。 「もうですか。兄様と話をしてると、あっと言う間ですね。」  恵は嬉しい事を言ってくる。それにしても・・・今日は、色々聞けて有意義だっ たな。何せこれから、ここで生活をするんだ。それなりに知っておかなきゃな。 「では、私は、日課をこなす時間ですので、失礼しますね。」  恵は、行儀良く挨拶すると使用人に後片付けを、命令して、自分の部屋へと帰っ ていく。確かに、そろそろ勉強などにも、手を付けなきゃならない時間だ。俺も部 屋へと帰るか。 「瞬様。部屋へと、お戻りですか?」 「ああ。葉月さんは?」  葉月さんは、俺の御付の使用人だといっても、限度があるし、そろそろ、それぞ れの部屋に帰っていくのかな? 「瞬様の部屋へと、ご同行します。」  ・・・甘かった。葉月さんも意外と、仕事熱心と言うか律儀と言うか・・・。  無下に帰すのも何なんで、とりあえず俺の部屋まで行く。相変わらず、でかい屋 敷なので、俺の部屋に行くまでに、5分も掛かる。何部屋あるんだ。この家は。  俺は、自分の部屋の前の扉に、手を掛けて葉月さんの方を向く。 「葉月さん。後は、俺1人で大丈夫だよ。」  俺だって、子供では無いのだ。部屋まで来れば大丈夫だ。何故か葉月さんは、俺 の部屋の前で、足を止めているしね。 「なら私は、ここで待機しています。何か御用の時は、お呼び下さい。」  お呼び下さいって、葉月さんは、ここで待つ気かよ。 「葉月さん。俺は大丈夫だよ。葉月さんの部屋に、帰った方が良いよ。」  俺は、葉月さんの気持ちは嬉しいが、甘える訳にも行かないと思っていた。 「ご心配要りません。私の部屋は、瞬様の部屋の隣です。」  葉月さんは、隣の部屋を指差す。・・・ってマジですか・・・。 「また何で、そんな近いの?」 「何かあった時に、すぐに行ける様に、御付の使用人は、隣を利用する物なのです よ。瞬様。姉さんも、恵様のお隣を、利用していらっしゃいます。」  葉月さんは教えた。なる程。徹底してる物だ。って事は、父が生きてた頃は、睦 月さんは、父の隣の部屋に居たって事か。 「分かった。じゃぁ何かあったら呼ぶから、部屋に戻ってくれ。」 「分かりました。何か御用の時は、部屋の左隅にある、呼び鈴の紐を引いて下さい。 私の部屋に、通じるようになっています。」  葉月さんが、説明する。確かに左隅の所に、紐のような物がある。これは、呼び 鈴のための紐だったのか。何だか、万全の用意だな。  葉月さんは、一礼すると部屋へと帰っていった。まぁさすがに、葉月さんと二人 きりじゃ、俺だって落ち着かない。葉月さんも、来年の8月で19歳だ。プロポー ションは、言うまでも無く良いし、かなりの美人だ。そんな葉月さんと、常に一緒 に居るなんて、贅沢も良い所だ。  それはともかく、勉学に励むと思った所で、主にやる事は、無いんだよな。まだ 入りたてなので、復習する内容も、そんな難しい所では無い。  俺は何と無しに、窓の方を見る。外はもう暗い。夜は、このお屋敷が広いと言う 事もあって、ネオンなども無縁なので、結構不気味だ。しかも、このお屋敷は、広 い敷地の庭があるせいで、何か出てきても、不思議じゃあない。まぁ俺の場合は、 それすらも修行の内だと思っている所もあって、余り怖いとは感じないけどな。  ・・・?何だあれ?何か光っている所があるな。あの辺は庭だったはずだ。それ に光は、何かを探してるようにも見える。ウロウロしていた。誰か居るのだろうか?  すると俺に気が付いたのか、ユラユラと近づいてくる。何だ?この光は。 (・・・輝く魂の持ち主。やっと、見つけたぞ。)  何だ?何かが話し掛けてきた。だがそれは、話し声と言うより、頭に直接語り掛 けてくるような感じがした。 (素体の資質も、素晴らしい。・・・試させてもらうぞ。)  光は、こっちに向かってきた。襲い掛かってくる?いや、そんな感じも無い。し かし、何か俺にしようとしている感じがする。幻でも、見てるんだろうか? 「・・・何だ?・・・俺に用でもあるのか?」  俺は、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、話し掛けてみる。 (フッ。器を見るだけだ。大した手間でも無い。)  光は、呼応するかの如く、話し掛けてきて、俺の脳に向かってくる。それを俺は、 中段の構えで迎え撃って、光に対して、中段突きを見舞う。  しかし当たる気配も無い。いや、そもそも実体が無いから、何もしようが無い。 (恐れる事は無い。お前と私は、似ているようだしな。)  光は、俺の脳に入り込んだ。  そして、俺は、気を失ってしまった。  この唐突な出来事こそが・・・俺の中で、何かが始まる事件となった。  この光が、害を成すものか否か・・・。  この時は、まだ何も知らなかった・・・。