NOVEL Darkness 2-1(Second)

ソクトア黒の章2巻の1(後半)


 大名行列のような登校だが、俺は、それなりに楽しんでいた。
 俊男が同じ学園だと言うのは、正直嬉しいし、妹と同じ学年と言うのは、少し気
恥ずかしいが、兄貴としては、鼻が高い。それに思ったより良い奴が多そうだ。
 そんな事を思っていると、学園が近づいてきた。良く見ると、校門の所に、誰か
立っている。しかも物凄い身のこなしが良い男だ。歳は60歳くらいだろうか?
 俺達が近づくと、男は、俺の方を見てきた。
「見ない顔だな。お主が、昨日、手続きを済ませた者か?」
 男は、俺の顔をじっくり見る。外部者だとでも、思っているのだろうか?
「校長。私の兄の、天神 瞬ですわ。」
 恵が紹介してくれた。って校長!?この強そうな人が!?
「おおー。そうか。恵お嬢ちゃんの兄貴か!」
 校長は、ウンウン頷くと、肩を叩いてきた。
「良い眼をしておる。お主もこの爽天学園に、夢を追い求めてきたか?」
 校長は、いきなり凄い事を言う。一体、何の事だろう?
「しばらく、わしが、この兄貴を見てるから、お主達は教室に入ってなさい。」
 校長が指示すると、ぞろぞろ出来ていた行列が、どんどん登校を済ませる。恵は、
こちらを見ると、手を振っていたので、俺も振り返してやった。俊男も、笑顔でこ
ちらを見ていた。
「ええーと。校長先生。俺に、何の用でしょうか?」
 俺は、校長に捕まっていたので、一応聞いてみる。
「ふむ。お主、昨日は、手続きしか済ませとらんかったからな。わしが、この学校
の校風を、教えてやろうと思ってな。」
 校長が、首を縦に振りながら勝手に納得していた。校風か。知って置いて、損は
無いかも知れないな。
「お願いします。」
 俺は、校長に頭を下げる。
「ウム。まずこの学園はだな・・・。何事に於いても、一番になる事を目指してお
る。勉学!スポーツ!芸術!何事に於いても頂点を目指す、その心掛けが大事なの
だ!!分かるか!?若い事は、挑戦への第一歩!!!」
 校長は、いきなり熱く語る。・・・す、凄い迫力だ・・・。
「特に、お主は良い!いきなり空手で、一番になった!!」
 校長も、あの大会を見ていたようだ。何だかなぁ・・・。
「爽天学園の爽は、『爽やか』の爽だ!卑怯な手口は一切認めぬ!正当な手口で、
天を目指せい!そして、良く覚えとけい!わしが、この学園の校長の一条(いちじ
ょう) 大二郎(だいじろう)である!」
 校長は、自己紹介を爽やかに答えた。何だか良く分からない迫力が、校長にはあ
るなぁ。一条校長か。覚えて置かなきゃ・・・。
「お主の事は、テレビで見ていた。解説をしてた、わしの倅(せがれ)が、やたら
と気に入ってたぞ。何でも、今時、珍しい正当派空手の極めた男らしいな!」
 そう言えば・・・解説の一条さんが、俺の事をやたら褒めてたって、後で聞いた
な。校長の息子さんだったのか。そう言えば、顔も似てるな。
「天神流空手と言います。その心は『専心』です。どんな技であれ、突き詰めれば
全ての技が必殺技になる。そこまで打ち込め。と言う事らしいです。」
 俺は天神流の心構えの事を話す。一意専心。小手先の技を覚える事よりも、基本
を全て必殺技にせよと言うのが、その心で、基本技一つとっても、気を抜いて修行
する事は許されないと言う、厳しい物だった。
「ふむ。その心は、称賛に値するのぉ。我が一条流の弟子共は、今、流行りの『柔
道』なる物を取り込もうとしておる。強くなるのに、方法はいくらでもあると思う
が、肝心の空手技を極めておらん。お主の心を、伝えて欲しいくらいだ。」
 校長は、一条流空手の道場主でもあるらしい。今でこそ、解説をやっている息子
さんに経営を任せてるらしいが、学園の仕事が終わると、道場で稽古をしていると
言う。弟子達は、この校長の空手だけでは物足りず、締め技や投げ技で、相手との
優劣を競う『柔道』などの練習を、しているのだと言う。
「『柔道』を研究するのは良い事だと思います。でも、空手の事を忘れてと言うの
は、良い方向じゃないと思いますね。天神流では、投げ技や締め技をどう返すか、
と言う研究ならしています。俺の爺さん曰く、腰を重くする事が、第一だと話して
いました。空手を確実に出せる状況を、作り出すのが、良いと言う話です。」
 爺さんは、良く相手の攻略などを考えていた。その術を俺は受け継いでいる。と
言うのも、ここ最近で、新興格闘技なども増えてきて、格闘ブームなどと言う言葉
も流行るくらいになってしまった。しかも、俺達のような古い技を受け継いでる所
の攻略をしながら、新しく立ち上げる物だから、中途半端に受け継いでいる所は、
どんどん廃れていると言う話だ。それだけ、向こうも本気だと言う事だ。それだけ
に、新しい格闘技の研究は、欠かす事は出来ない。そこで出た結論が、常に自分の
ベストを出せる方法を見つけると言う事だった。それを体現出来る体作り。それが、
他の格闘技への対処にも繋がると、爺さんは言っていた。
 と言うだけなら簡単なのだが、体を作るのは、大変だった。腰を重くして、足腰
のバランスを、常に一定に保たなければいけない。そうして生まれる一撃を軽く扱
っては、いけない。何せ天神流は文字通り『一撃必殺』を目指した空手で、必ず倒
すと言う心構えを、まず叩き込まなければならないのだ。それだけに、相手のする
事を全て読んだ上で、一撃を見舞わなければならない。この拳で全てを圧倒する。
それを身に付けるのに、俺は爺さんから、恐ろしい特訓を受けた。最終的に、拳で
剣を叩き割れと言われた時は、どうしようかと思った。
「浮ついた気持ちで、技を出せぬ・・・か。フム。お主が極めていると言っていた
のは、嘘では無さそうだな。お主とは、気が合いそうだな。」
 校長も一空手家として、今の言葉は至上に聞こえたのだろう。確かに今、サキョ
ウで流行っている空手を見て、俺は驚いた。型から入るのは悪い事じゃない。だが、
見る感じ、派手な技ばかり好まれている。踵落としや、回し蹴りなどから始める人
が居るようだ。だが、それは間違いだ。空手の基本は、中段突きだ。中段突きには、
空手の全てが詰まっている。上手に中段を突くためには、背筋を極限まで鍛えなけ
ればいけない。足の運び、腕の位置、突く時の回転力。全てに、筋肉を躍動させ無
ければ、最高の突きは得られない。腕の振りだけで、突く人が多い。しかし、速く
重く突く為には、腕、足、腹筋、そして何より、背筋を鍛えなければいけない。俺
は、爺さんの道場で、必ず薪を、持ってくるのと割る作業を、やらされていた。他
にも腰には、必ず力を付けろと言われて、その関係の体操は、必ずやらされていた。
朝の型を、全てこなす運動の中にも、全ての筋肉を動かす箇所が取り入れられてい
て、毎朝やるには、苦痛な所もある。だが、日々の努力を忘れては、いけないと言
うさんの言葉を信じて、俺は続けている。
「そうだ。お主、目標などは、あるのか?」
 目標?そうだなぁ。色々あるにはあるけど・・・。
「俺は爺さんの教えを守っていく事が、目標です。」
 俺は、これが一番だと答えた。爺さんは、俺にとって師匠であり、親でもあった。
「爺さんは、言っていました。強く正しい男になれと。俺は、それを目指します。」
 俺は、そこは惑い無く言った。それは俺の中では、至上の言葉になっている。
「良い祖父を持ったな。お主の、その言葉を言う時の魂の輝きを、しかと見せても
らったぞ。ますますもって、気に入った!」
 校長は、感銘を受けたらしい。俺の肩を叩きながら、感涙していた。
「あーら。爺様。おはよう御座います。」
 後ろから元気な声が聞こえた。どうやら生徒らしい。しかし、今『爺様』と言わ
なかったか?校長を、その呼び方で呼ぶのは、どうかと思うな。
「江里香(えりか)!校内で、その呼び方は止めるよう言って置いた筈だ。」
 どうやら、校長にとっては、余り得意な人物では無さそうだ。
「堅苦しい事は止めましょうよ。」
 校長の妙な迫力を、素で受け流しているとは、結構、大人物かも知れない。
「ええい。お主の前では、礼儀もあった物では無いな。」
 校長は、溜め息を吐く。どうやら、親しい仲のようだ。
「あら?そこの人が、例の転校生?」
「フム。転校生の、天神 瞬だ。」
 校長から紹介を受けた。俺は、一礼する。
「ああ。もしかして、あのミス・フロイラインのお兄さんね?」
 ミ、ミス・フロイライン?もしかして、恵の事か?アイツ、そんな渾名で呼ばれ
ているとは・・・。有名なんだなぁ。
「変な呼び方は止めんか。全く・・・。近頃の若者は・・・。」
 校長は、この頃、流行っているカタカナ言葉が、嫌いなようだ。古代では良く使
われていた言葉を、現代語に分かり易く直した言葉で、若者が好んで使っている。
「私は、ここの2年の、一条 江里香。宜しくねー。」
 江里香さんか。結構、面白い人だな。それに綺麗だし・・・。口元を吊り上げる
仕草が魅力的だ。髪型は、ツインテールと呼ばれる髪型だが、真横では無く、やや
後ろに結んでいる所が、本当に尻尾みたいだ。目はツリ目だけど、結構大きい。2
年と言う事は、先輩に当たる訳だな。
「江里香先輩ですか。宜しくお願いします。天神 瞬です。」
 俺は、ちょっと見惚れていた事を隠すために、挨拶をする。その仕草を見て、江
里香先輩はクスッと笑う。笑顔も可愛いなぁ・・・。惚れちゃいそうだ。
「天神君ね。こちらこそ宜しくね。」
 江里香先輩が、手を差し出してきたので、握手を交わす。手は、結構柔らかいな。
「すっごーい。天神君って、何か格闘技とか、やってるんじゃない?」
 江里香先輩は、いきなり尋ねてくる。分かるんだろうか?ああ。そうか。握手し
た時に、俺の手を握って、分かったんだな。
「ふむ。健人(たけと)が、この前、話していただろう?あの時の大会の優勝者だ。」
 健人?ああ。もしかして解説の一条さんか。って、随分詳しいな。それに一条っ
て苗字だし・・・。やっぱ江里香先輩は・・・。
「ああ。父様が言っていた・・・そう言えば、名前も一緒ね。ふーん。」
 やっぱり江里香先輩は、校長のお孫さんか。まぁあれだけ、馴れ馴れしければ、
頷けるよな。こんな綺麗な人が、お孫さんだったのかぁ。
「面白いわ。瞬君。貴方、空手部に入りなさいよ。」
 うえ?空手部?しかも何で、江里香先輩が空手部に誘うんだ?
「こう見えても、空手部の主将を、やってるのよ?私。」
 江里香先輩が主将・・・。でも考えてみれば、自然な事かも知れない。一条流の
出で、しかも校長の孫と来れば、人気もあるんだろう。
「ホウ。そうじゃな。そりゃ良いかも知れんな。」
 校長まで、すんなり了承してきた。良いんだろうか?
「転校して来たばかりでも、入れるんですか?」
 俺は、一応聞いてみる。結構、駄目って所もあるからな。
「わしが、校長と理事を兼任しとるしな。問題無いぞ。」
 へぇ・・・。じゃぁ問題無いな。校長のお墨付きと来れば、話は早いだろう。
「決まりね。フフッ。放課後が、楽しみだわ。」
 江里香先輩は、やけに嬉しそうだった。でもあれは、何か、企みのありそうな顔
だった。大丈夫なんだろうか?俺。
 こうして俺の学園生活の最初は、波乱を含んだ挨拶から、始まったのである。


 サキョウ都立爽天学園。
 後から、情報を集めれば集める程、武勇伝は数知れない。
 勉学、スポーツ、芸術どれをとってもトップを目指していると言うのは、間違い
では無いらしく、名門校としては、申し分無い高校らしい。
 俺はと言えば、中学の時は、特別な学校に行ってる訳でも無かったので、ちょっ
と、この雰囲気は慣れるかどうか心配だった。それぞれの分野で、最高と呼ばれる
人材が、結構揃っているらしく、しかも、それぞれが、最高の部活だと言い張って
いるので、学内での、いざこざと言うのは、後を絶たない。しかも校長が、覇を唱
えるのは、向上への第一歩などと言っているらしく、公認なんだそうだ。
 ただ、決まりはあって勉学、スポーツ、芸術、格闘技の4分野に分かれていて、
それぞれ違う分野に干渉しては、いけないと言う事だった。まぁ、確かに、分野が
違うんじゃ、どう覇を競って良いかも、分からないわな・・・。
 で、俺はと言うと、早速空手部に入部と言う事が、知れ渡ってしまい、他の格闘
技関連の部から、目を付けられたらしい。
 俊男辺りが、『残念だね。部活の上じゃ、またしても敵同士と言う事だね。』な
どと言っていたので、いざこざが絶えないんだろうなぁ・・・。ちなみに俊男は、
パーズ拳法部の特待生と言う事らしい。ちなみに恵から聞いたら、俺は、格闘技分
野の特待生として入学したと言う事なので、何処に入っても自由だと言われたのだ
が、今朝の出来事を話したら、恵に嫌な顔をされてしまった。
 何でも空手部は、江里香先輩が居るから、人気はあるのだが、浮ついた気持ちで
入部した奴が多いんだそうだ。俺も、その内の一人にされ兼ねないので、注意して
置くようにと、言われてしまった。そうなりそうな、自分が怖い。
 それはさておき、俺は、俊男と同じクラスで、恵は、隣のクラスだった。でも、
その方が、良かったかも知れない。同じクラスでは、一々比較されるし、何かと目
立ってしまう。余りそう言う雰囲気は、得意では無い。それに、恵のクラスは、ほ
ぼ恵がクラスを手中に収めているとの話で、逆らう者は、皆無だそうだ。我が妹な
がら、恐ろしいなと思った。で、ミス・フロイラインの名は、有名らしく、既に全
校に広まっているようだ。入学早々、スピーチを完璧にこなして、先生のスピーチ
の間違いを宣言したらしく、皆は、その様子に呆気に取られたらしい。しかも、正
論を言っているのは、恵の方で、スピーチの間違いの全てを指摘して、読み直した
と言う事までやってのけたらしい。その先生は、ショックで1週間ほど寝込んだら
しいが、間違いを正さなくては、いけないのが天神家としての当然の役目なんだと
か・・・。
 そんなこんなで、先生の間からもミス・フロイラインの名は、畏れられている。
本当に恵は強くなった・・・。兄貴としては、羨ましい限りだよ・・・。
 この学園には、3人のミスが居ると言われている。それぞれ学年は違うらしいが、
その一人は、当然、我が妹の天神 恵だ。ミス・フロイライン。生粋のお嬢様。や
る事が全てに於いて間違いを許さない完璧主義者で、入学試験では、全問正解のト
ップで入学が決まったらしい。体育の授業などでも、非凡で非の打ち所が無いのだ
とか。本当かよ・・・。そして2人目のミスがミス・リーダーこと一条 江里香。
何でも、江里香先輩は、決めた事は、全て実行する行動派で、人を使う事に関して
は、超一流だと言う事だ。爽天学園には、応援団が無い。そこでスポーツ系の主力
で無いメンバーを中心に結束させて、見事に応援部にしてしまったと言うのは有名
だ。上に立つ全ての資質を兼ね備えていると言うのだから、恐ろしい話だ。その人
の部活に行くんだよな。俺・・・。大丈夫なのか?そして3人目が、ミス・アネゴ
こと榊(さかき) 亜理栖(ありす)だ。何でも、名門の榊家の分家で、アズマに
住んでいる本家との仲は深い様だ。学内では、頼れるリーダーらしく、面倒見が凄
く良い事で有名だ。他校と、いざこざがあった時、単身他校に乗り込んで、交渉し
に行った事で有名だ。周りに居た不良達が、一目で逃げ出した程、迫力があったら
しい。本当かよ・・・。
 聞けば聞く程、濃い話が出てくる。こんな学園、聞いた事も無いぜ。
 そして俺は、空手部の前に居る。まぁ元々、空手部に入ろうとしてたし、別に構
わないんだが江里香先輩の話を聞く度に、少し引いてしまう。まぁ迷ってても仕方
無いか。
「天神 瞬。参りました!」
 俺は、空手部の学内道場で、声を掛けてみる。
「お。早速来たね。主将!来ました!」
 近くの部員が気が付いて、江里香先輩を呼んでくれた。すると、奥から、江里香
先輩が近づいてきた。胴着姿も、かなり決まっている。似合うなぁ。
「約束通り来たわね。胴着は、自分の持ってる?」
 江里香先輩は尋ねてきた。そうか。今日いきなりじゃ、俺用の胴着なんて、在る
訳無いか。今日、いきなり入るとは思ってなかったしな。
「はい。いつでも練習出来るように、持ち歩いてますから、大丈夫です。」
 俺は空手部に入れなくても、練習だけは欠かさないように胴着を持ち歩いていた。
まぁ、いつも学校から帰ってきたら、爺さんの道場に行く前に、胴着を着てランニ
ングをやってたせいもあって、日課をこなすために、持ち歩いていたのだ。
「そりゃ助かるわね。じゃあ、待ってるから、着替えなさいね。」
 江里香先輩は、そう言うと、道場の中に入っていく。俺は着替え室に案内されて、
早速、胴着に着替える事にした。と言っても、いつも着ていたので慣れた物だった。
「お?早いじゃない。じゃぁ、こっち来てね。」
 江里香先輩は中央に促す。部員は・・・結構居るんだな。でも、体付きが、格闘
系じゃないのも結構居るな。練習してるのかな?
「じゃぁ、紹介するわね。今日から、皆の仲間の天神 瞬君よ。」
「天神です。宜しくお願いします!」
 俺は早速、皆に一礼する。
「もしかして、空手大会で優勝した、天神君ですかね?」
 ・・・言われると思った。まぁ空手部なら、見て無い奴は居ないよな。
「はい。ですが、ここでは若輩者です。宜しくお願いします!」
 俺は、またしても礼をする。まぁ、本当の事だしな。
「良く出来ました。じゃぁ、皆、体操から入るわよー。」
 江里香先輩は、基本中の基本から始める。体操は、必ずやらなくてはならない。
まず、体を解しておかなければ、怪我をするからだ。さすがに皆、真面目にやって
いる。体操を軽視すると、大怪我に繋がり兼ねない。
「・・・アイツ。本当に強いのかな?」
 後ろから声がする。ヒソヒソ話しているようだ。
「やってみなきゃ、何とも言えねぇけど。あの体付きは、悪くねぇぜ。」
 どうやら先輩のようだが、ヒソヒソ話は、止めてもらいたいなぁ。余り慣れてな
いし、気分が、良い物でも無い。
 やがて、体操が終わる。その後、少し走りこみをして江里香先輩は、皆を集める。
「よーし。じゃぁ空手部名物行くわよ!」
 江里香先輩が言うと、皆、『押忍!』と答えて、俺の方を見る。
「あのー。名物って?」
 俺は、江里香先輩に聞いてみる。何だか、嫌な予感がする。
「新人さんの100人組み手よ。期待してるわよー?」
 サラッと、とんでもない事を言う。100人組み手って・・・。
「ああ。100人組み手って言っても、うちの部員だけだから、大丈夫よ。」
 大丈夫って・・・この部だけでも、20人以上居るじゃないか。
「貴方の実力も量るんだから、真剣にやってね。」
 江里香先輩は、俺の抗議の目など、見なかった事にしているらしい。
「よーし!最初は、俺から行きます!!」
 さっき、ヒソヒソ話してた奴だな。
「宜しくお願いします。」
 俺は、相手に礼をする。すると、相手は、礼をした瞬間、襲い掛かってきた。
「ドリャアアアア!!」
 相手が、真正面から突きを繰り出してきた。しかし俺にとっては、遅い拳にしか
見えなかった。俺は敵の拳を捌くと、返しに中段を突き入れる。すると、相手は、
5メートルくらい吹き飛んだ。
「それまでよ。」
 江里香先輩は、試合を止めた。まぁ当たり前かな。本気で突き入れて無いから、
骨は折れてないと思うんだけど・・・。
「やっぱり、只者じゃあ無いわね。特例よ。アンタ達全員で、掛かると良いわ。」
 皆がざわめく。江里香先輩は、俺がどれ程の実力を秘めているのか、既に悟った
ようだ。しかし全員でって・・・まぁ、手加減出来れば良いけど。
「しょうがねぇ。・・・悪く思うなよ。」
「行くぜ!一年坊!」
 先輩達は本気だ。と言うのも、さっき吹っ飛ばした人が、まだ蹲ってるせいだろ
う。そこまで本気で、入れて無いんだけどなぁ・・・。
「それじゃ、礼!」
 江里香先輩の合図で俺は礼をする。ざっと20人ちょっとか、部員達も、礼をし
てきた。そして、その瞬間に、前の5人程が突っかかってきた。前方に2人、左右
にそれぞれ1人ずつに、上空から1人か。俺は、まず飛び蹴りで、襲い掛かってき
た奴を空中で止めて、顔面に飛び蹴りをもって返す。その後、呆気に撮られた前方
2人を上空からの唐竹割りと、もう一人は中段突きで吹き飛ばす。そして左右の2
人が襲い掛かるのを、捌くと同時に、しゃがんで躱して、一人の足を下段回し蹴り
で、払い飛ばして、もう一人を中段蹴りで吹き飛ばす。あっという間に5人を倒す
と、部員達は、警戒し始める。もしかしたら、倒されるかも知れないと思い始めた
のだろう。元より仕掛けられた時点で、俺は、そのつもりだ。
「ちっ。化け物め!!」
 皆は、果敢に攻めてきた。そうじゃなきゃ面白くない。俺は、両手を腰に持って
いくと、四方から来る攻めを全て一撃で吹き飛ばす。正中線四連突きを、横に改良
した天神流の『四海(しかい)』だ。そして、後ろから襲い掛かってくるのを察知
したので、回し蹴りで1人、その回転で、肘を打つ事で2人目を倒すと、そのまま、
次の敵に回し蹴りを変化させて、斜めから切り込むように入れる。その隙に腕を掴
まれる。1人が左腕、1人が右腕だ。そして、足を掴んでる奴が1人。なる程。俺
の動きを封じようと言う訳か。だが、まだ甘い。
「オラアアアア!!」
 動きが封じられたと思ったのか、俺に正拳を叩き込んでくる奴が居た。しかし、
俺は、それを敢えて腹に受けた。すると叩き込んだ相手が、拳を傷める。瞬間的に
体を硬化させる天神流受け技『鋼筋(こうきん)』だ。それを見ると同時に、俺は、
腕を取っている2人の襟を掴んで、強引に中央で、ぶつけさせると、足に捕まって
る一人を、蹴りを打つ事で、剥がした。その剥がした相手を、残りの敵にぶつける
事で、全員を倒してのけたのである。我ながら、やりすぎてしまったかも知れない。
「それまでね。話は聞いてたけど、やるわねぇ。瞬君。」
 江里香先輩は、男子部員を全て倒した俺に、拍手を送る。
「ま、女子部員も居るんだけど、貴方相手じゃ、無理ね。」
 江里香先輩は、女子の方を向くが、やろうとする奴が居なかった。男子部員の手
当てに回す。まぁ女子を殴る趣味は無いし、丁度良かったかも知れない。
「じゃ、最後に私とね。主将が相手しない訳には、行かないしね。」
 え?江里香先輩と・・・?冗談だろ。
「先輩。俺は・・・。」
「女だからって理由なら、聞かないわよ?こう見えても、主将なんだからね。」
 江里香先輩は本気だ。それに今まで突っかかってきた部員達とは違う・・・。闘
気のような物を感じる。あそこまで身に着けているって事は、かなり本気でやって
きた証拠だ。なら、俺も、応えない訳には行かないな。俺は構える。
「そう。それで良いわ。」
「失礼します。」
 俺は一礼をする。江里香先輩も、一礼をすると構えだした。隙が無い。
「ハイィィィィィ!」
 江里香先輩は、鋭い中段蹴りを放ってきた。俺は、それを右に躱す。それを見越
したのか、先輩は蹴りが戻る前に、もう片方の足で蹴りを放つ。速い!
「・・・ふぅ。」
 俺は間一髪、肘でガードする。こりゃ江里香先輩は、本気で強い。相当やってき
たのだろう。俺は、甘く見てたのかも知れない。
「受け切るなんて、見事ね。さすが空手大会優勝者。」
 江里香先輩は、ニヤッと笑うと腰に右手を当てて、残る左手で正中線に構える。
さっきとは違って、攻撃が主の構えだ。
「さーて・・・本気で行くわ。」
 江里香先輩は、そう言うと、下段蹴りを繰り出してくる。俺は手で、それを払い
のけると、人差し指と中指で、突き出すような形の拳を作る。それで江里香先輩の
腹を突く。しかし江里香先輩は、身を捻って避けると、顔面への回し蹴りを放って
くる。俺は、それを手の甲でガードしようとしたが、蹴りが突然変化して、中段蹴
りになる。これも速い!俺は、腹に力を入れると、受け技『鋼筋』で蹴りを受けた。
「うわっと!!」
 俺は先輩の蹴りで、50センチ程、後ろに下がらされた。『鋼筋』を見抜いた先
輩が、俺の腹に足を付けたと思うと、一気に力を解放させて、蹴りに行ったのだろ
う。溜めて放った蹴りは、並の威力では無い。
「凄いや。先輩。変化も早ければ、威力も段違いだ。」
 俺は、先輩の実力を認める。本物だ。女性だからって甘く見てたら、倒されてし
まう。それくらい先輩は強かった。良く見ると、腕は細く見えるが、結構引き締ま
っている。足もそうだ。こりゃ舐められない。
「そう言う瞬君だって、対応力が段違いよ。蹴りで、こっちの足が痺れるなんて、
思いもよらなかった物。追い討ち、掛けられなかったじゃないの。」
 江里香先輩は、俺が吹き飛ばされたら、追い討ちをかけようと思っていたらしい。
しかし、思ったより下がらなかったのと、俺の『鋼筋』で蹴った足が、痺れてしま
ったらしい。追い討ちを掛けるには、厳しいと判断したのだろう。
 江里香先輩は、威力もさる事ながら、とにかく攻めが速い。女性ゆえの身軽さと
言うのもあるのだろうが、技のキレが抜群なので、油断してると、食らってしまう
だろう。筋力が無くても相手にダメージを与える方法を、熟知しているようだ。
「先輩に、相応しい構えを、見せなきゃならないな。」
 俺は、どっしり腰を落として、右手を下からアゴに当てて、左手を水平にする。
「それ、テレビの時に見せた『十字の構え』ね。」
 江里香先輩は、嬉しそうな顔をする。この構えは、相手が本物だと認めた時に出
す構えだ。江里香先輩は、本気で強いからな。手加減出来そうも無い。
「良い物を見せてあげるわ。」
 江里香先輩は、左手を前に持っていくと、右手を腰に持っていって、拳を作る。
空手の基本の構えだが、あそこまで極端に構えると、中段突きを出しますと、言っ
ているような物だ。何より江里香先輩の闘気が、それを物語っている。
「素直だけど、良い構えですね。よっし・・・。」
 俺は『十字の構え』のまま、江里香先輩に近寄る。すると江里香先輩の右手が、
唸るように飛んできた。俺は、それを間一髪で左手で受け止めた。
「やるわねー。私の『隼突き(はやぶさつき)』を防御するなんて。」
 江里香先輩は技名を言う。確かに、その名前に相応しい程、素早い突きだった。
まさか空気の音が鳴る程の突きを、打って来るとは思わなかった。
「江里香先輩だって驚きですよ。まさか空気を切る程の突きを、打って来るとは思
いませんでしたよ。本当に凄いや。」
 俺は掛け値無しに、ビックリした。今の突きは、余程の修練を積まない限り、打
てる物じゃない。それも、基本を全て反復する事でしか、打てない突きだろう。
「驚くのは、速いわよ!」
 江里香先輩は足を踏ん張らせると、右に左にと、連続して『隼突き』を繰り出し
てきた。俺は、それを限界まで速くした左手で、防御する。何発かは防御し切れな
くて食らってしまった。こめかみの辺りにも、一回ヒットする。
 俺は、このままでは、いけないと思って、防御した瞬間に反撃する。俺の正拳は、
先輩の腹を狙う。しかし先輩は、体を捻って避けた。しかし、胴着に少し掠っただ
けで、先輩の胴着は焦げてしまった。
「あーら・・・。さすがねぇ・・・。掠っただけで、この威力だなんてね。」
 先輩は、少し冷や汗を流す。
「俺だって、技を見せないと駄目ですしね。」
 そうは言っても、やっぱり先輩相手に、本気の技なんて俺には打ち込めない。で
も、先輩の実力は、本物だ。どうすれば・・・。
「瞬君。対決なんだから、男も女も無いわよ!」
 先輩は、俺の心を見抜いたように言ってくる。だが、俺は、そんな先輩を殴るな
んて出来ないな。仕方が無い。あの技で行こう!
「ハアアアアアアアアアアアア!!」
 俺は、左手を顎の前に持って行くと、右手で、拳を作って腰に当てる。そして、
その拳に、俺の闘気を込める。拳が震える程の闘気だ。
「とうとう良い技を見せるつもりね。そうこなくっちゃ!」
 江里香先輩は、嬉しそうだ。しかし、この拳を当てる訳には行かない。
「先輩!多少の痛みは、覚悟してくれ!!デアアアアアアア!!」
 俺は宣言しておくと、拳を、物凄い勢いで前に突き出す。その瞬間、空気が震え
た。そして、その拳圧が、江里香先輩に襲い掛かる。
「な、何これ!?わわっ!」
 先輩は、思いもよらぬ攻撃にビックリしたのか、拳圧が当たると、吹き飛ばされ
てしまった。しまった・・・やり過ぎたかな?
「主将!」
 女子部員が、江里香先輩に近寄る。
「先輩!済みません!」
 俺も、我に返って、先輩の所に近寄る。
「何、謝ってるのよ。良い技だったじゃない。」
 先輩は、案外ケロッとしていた。やっぱり鍛えてるんだな。でも、ちょっと足に
来ていたらしい。立ち上がれないみたいだ。
「私の負けよ。瞬君たら、私が吹き飛ぶくらいで済むように、手加減するんだもん。
それで、こんな吹き飛ばされたんじゃ、文句も言えないわよ。」
 先輩は、分かっていた。俺が本気を出したら、こんな物じゃ済まないと言う事に
だ。俺の拳は、剣すら打ち砕く拳だ。
「済みません・・・。俺、やっぱり、先輩を本気で殴るなんて出来なくて・・・。」
 俺は何より、この先輩が気に入っている。そんな相手に、思いっ切り拳を当てる
なんて、出来そうも無い。
「良いのよ。瞬君の実力も分かったし。これからも、宜しく頼むわよ。」
 先輩は、そう言うと、毅然と立ち上がった。やっぱり先輩は、こうやって毅然と
している方が、似合うなぁ。
「分かりました!宜しくお願いします!」
 俺は、改めて礼をして挨拶をした。それにしても、いきなり部員を倒してしまう
なんて良いのかな?主将にも勝っちまったし・・・。まぁ、何とかなるかな?
 俺は、好い加減な事を思いながらも、これからの事を考えるのだった。


 帰り道。恵は、生徒会に出入りしているらしく、空手部との帰りの時間と、ほぼ
一緒だった。校門で、恵が待っていたので、一緒に帰る事にした。
 で、今日の出来事を話したら、恵は呆れていた。空手部員を、のした挙句、主将
まで倒してしまうんだから、呆れられるのも当然か。でもやり方が、ミス・リーダ
ーらしい、とんでもないやり方だと、呆れていた。
 俺の所業は、勿論の事、江里香先輩に、呆れていたのだろう。これが続いたら、
どうなる事かしらね?と釘を刺す辺り、恵らしいと思った。それにしても、恵は嫌
味を言うのが、上手くなったなぁ。それにしっかりしてるし・・・。
 俺にとっては、初日と言う事もあって、クタクタになっちまったぜ。さすがに、
色々な事があり過ぎた。どうにも、慣れない出来事もあったしな。
 そんなこんなで、何事も無く天神家に帰ってくる。すると、門の前に、葉月さん
が立っていた。そして恭しく、礼をする。
「おかえりなさいませ。瞬様に恵様。」
 葉月さんは、挨拶をしてくる。
「へぇ・・・。私より、兄様の方が先ですのね。」
 恵は、意外そうな顔をしていた。
「も、申し訳ありません。瞬様の使用人だと言われたので・・・迷ったのですが。」
 葉月さんは、敢えて俺を先に呼んだらしい。自然だったのに、故意だったのか。
「正しいわ。でも、一応ここの主は私だと言う事は、忘れては、なりませんわよ?」
「重々身に染みております。恵様程、主として、似合うお方は居ません。」
 葉月さんは、使用人として完璧な答えを言う。睦月さんの妹だと言う事もあって、
その辺は、鍛えられているのだろうか?
「おい。恵。余り気にするのも、どうかと思うぞ?」
 俺は口出しする。でもお門違いかも知れないな。
「兄様は、帝王学を習っていないから、分からないのです。こう言う細かい事から、
注意しないと、全てが、だらしなくなってしまいますのよ?」
 恵は呆れて、反論してきた。帝王学・・・か。そうだよな。恵は習ってきてるん
だよな。俺がほったらかしにしてきた所を、全部、恵は、こなしてきたんだよな。
「・・・済まんな。恵。俺は、その辺りの事を放り出して、家を出たんだった。恵
に言う資格は、無いのかも知れないな。」
 俺は真摯に謝る。何せ、ここの跡継ぎは、俺になるはずだった。それを恵に変え
させたのは親父じゃない。親父の期待を裏切った、俺なのだ。
「もう・・・。私は、心構えを言っただけです。兄様は、兄様の信じる道を行った
のですから、気にされると、こちらが困ります。」
 ・・・恵は優しいな。ここで、お小言の一つでも言っても、普通だと言うのに、
俺が気にしてる事に対して、気を使ってくれている。
「ありがとう。恵。俺、やっぱり、帰ってきて良かったよ。」
 俺は、恵に再会出来た事を、素直に喜ぶ事にした。恵は強くなった。しかも、し
っかり者になった。俺も、負けていられない。
「そう言われると、光栄です。待っていた甲斐が、あったと言う物です。」
 恵は、サラリと俺の礼を返す。相変わらず、完璧に返してくるな。
「恵様。お待ちしておりました。」
 玄関まで来ると、睦月さんが出迎えてくれた。恵は、当然のように、カバンを睦
月さんに渡す。俺は、自分で持っていこうと思ったが、葉月さんが、カバンを渡す
ように合図を送ったので、渡す事にした。これも仕事の内なんだろう。そして、恵
と軽く挨拶をすると、それぞれの部屋へと戻る。恵は睦月さんが、俺には、葉月さ
んが、御付きの使用人として、付いている。
「ねぇ。葉月さん。恵は、強くなったな。俺には、出来すぎた妹だよ。」
 俺は、葉月さんに恵の正直な感想を言う。俺が出て行く前は、しっかりはしてい
たが、あそこまで強い目を、していなかった。
「瞬様。それは表面しか見てらっしゃらないですよ。恵様は、確かに、お強くなり
ました。でも、優しさは、全然変わってません。今日のお小言だって、私が、姉さ
んの前で、同じ事を言ったら、注意されると気を使っての事なんですよ?」
 葉月さんは、意外な事を言う。でも確かに、言う通りかも知れない。恵は、煩く
言うが、優しい響きを忘れない。優雅さの中にも、必ず親しみを感じるのだ。
「そうだね。葉月さんの言う通りだ。これからは、ちゃんと見てやら無いと、怒ら
れてしまうかも知れないな。」
 俺は、恵の事を、まだ他人としか見れて無い部分がある。3年も離れて暮らして
いたのだ。仕方の無い事だ。
「良かった。瞬様は、お変わりないようで・・・。」
 葉月さんは、フフッと笑う。時々、葉月さんは、少女のように透き通った笑顔を
返してくるから、俺としては、目のやり場に困る。
「人間、そう簡単には変われない。でも、爺さんと約束した事は、忘れないつもり
だよ。」
 俺は、爺さんと約束をした。強く正しい人になれと。
「その事を話す時の瞬様は・・・少し怖いです。」
 葉月さんは、困ったような目をしていた。・・・怖い?何でだろう?
「俺って、そんな変な顔してるかい?」
 ちょっと気になった。強く正しい人になりたいと願う時の俺・・・。どんな顔を
しているのだろう。想像出来ない。
「凄く良い顔をされています。眩しいくらいです。・・・でも、遠くに行っちゃう
ような・・・そんな顔を、しています。」
 葉月さんは、正直に答えた。そうか・・・。確かに俺の夢は尊い。故に突拍子も
無い所に、視点を合わせてるかも知れない。それが、葉月さんにとっては、怖いの
だろう。俺自身、気が付かなかった事だ。
「そっか。気を付けるよ。」
 気が付かない所で、そう思われると言うのも、斬新な情報だ。
「いえ。瞬様の人生の目標なら、尊くて当たり前です。自身を大事にして下さい。」
 葉月さんは、一礼をする。あの程度で、俺に対して言い過ぎたと思っているとは
ね。俺は、何も気にして無いって言うのに・・・。
「大した目標じゃないよ。それより・・・夕飯まで、どれくらいだい?」
 俺は、時計に眼をやる。今は、夕方の5時半過ぎだ。
「1時間程、時間があります。」
 葉月さんは、即座に答える。なる程。6時半か。ちょっと早いかも知れないが、
天神家なら、ありえる時間だ。
「確か、庭に道場があったよね。使って良いのかい?」
 俺は、胴着を手に持つ。やっぱり体を動かしてないと、落ち着かないのだ。
「ここは、恵様だけでは無く、瞬様の家でもあります。大丈夫ですよ。」
 葉月さんは、嬉しい事を言ってくる。まだ他人行儀な俺を、ここの家の家人とし
て認める。その発言に、どれだけ救われる事だろう。
 俺は、礼を言うと、道場の方へと向かう。すると、既に人の気配がした。
「タッ!!」
 その掛け声は、恵だった。恵は、胴着に着替えて練習をしていた。
「・・・あら。兄様。稽古ですか?」
 恵は、実戦練習をしていたらしく、汗を拭いていた。その相手を務めていたのは、
睦月さんだった。意外な取り合わせだが、結構、似合っていた。
「ああ。やっぱ天神流伝承者としては、稽古は忘れずにしないとな。」
 俺は胴着に身を包む。やはり、しっくりくる。
「へぇ。兄様って・・・意外と、筋肉質ですのね。」
 恵は、胴着を着ても、まだ狭そうにしている筋肉を見て、そう思ったらしい。ま
ぁ俺は、同学年の中では鍛えている方だろう。
「恵は、何をやってるんだい?もしかして空手?」
 恵も、空手をやるのかと思ったが、違っていた。
「合気(あいき)をやっています。」
 恵は、使用人を掛かってこさせる。しかし、全て往なしてしまう。何て自然で、
何て早いんだ。恵は、ああ見えて、凄い実力の持ち主だったのか。あれは、合気道
を本格的にやっている動きだ。
「凄い物だな・・・。」
 俺は、ビックリする事だらけだと思った。恵は、いつの間にか、合気道の達人に
なっている。睦月さんが、主に鋭い攻撃を放っている。しかし、流れるように優雅
に往なしている。攻撃を自分の力を加えて相手に返す。何と、理想的な合気だろう。
 睦月さんだって、藤堂流合気道での相当な使い手の筈だ。恵に教えたのも、恐ら
く睦月さんだろう。葉月さんも、相当な実力な筈だが・・・。睦月さんは、わざと
取らせているのかも知れないが、結構鋭い動きだ。なのに恵は、素晴らしい動きで
返している。理想的な合気が、そこに存在していた。
「俺も、負けてられないな。」
 俺は、天神流の型を次々と、こなしていく。そして、型を全て終えると、念入り
に体を動かしていく。いつもやってる事の延長だ。
「兄様は、いつも、そんな事をやってらしたの?」
 恵は尋ねてきた。何かやってるだろうか?俺。
「さすがは、天神流空手ですね。」
 睦月さんも感心している。今は、親指で逆立ち懸垂をしている所だ。特に変わっ
た事をやっているつもりは無い。向こうでは、いつもやってた事だ。
「よし。準備運動は、バッチリだ。」
 俺は、多少汗を掻き始めたので、正拳を突き出す練習に、蹴りを放つ練習を始め
た。こう言うのは、道場のような所で、やるに限る。
「さすが瞬様。継承者に選ばれるだけ、ありますわね。」
 睦月さんは、冷や汗を掻いていた。
「ええ。兄様の動き、本人は、当然のようにやっているけど、音が違うわね。」
 恵が、分析をしていた。本人では分からない物だ。拳を振る時に、空気を切り裂
くのは、当然の事だと思っている。江里香先輩もやっていたが、拳や蹴りを、何年
も動かしていれば、必然的に、空気が切り裂く音が聞こえる物だ。
「勉強になりましたわ。今度、お相手します。兄様。」
 恵は、ニッコリ笑う。恵が相手?・・・どうも、さっきの鋭い技を見てると、や
られそうな感じがするな。そう思う程、無駄が無い動きだった。
「瞬様。そろそろ夕飯のお時間です。」
 道場の入り口で待っていてくれたのか、葉月さんが、普段着を用意して待ってい
てくれた。こう言う何気無い事が、俺にとっては嬉しかった。
 しかし恵が、体を動かす格闘技をしているとは、思わなかったな。これは思わぬ
収穫だったな。


 食事を終えると、軽く談話し始める。今の話題は、今まで3年間を、どう過ごし
てきたかと言う事だ。俺はと言えば、この3年間は、修行人生だった。来る日も来
る日も、爺さんと修行三昧。最初の1年間は、結構泣かされた物だ。でも、強くな
りたいと思った。企業家としての力では無い。いざと言う時、何かを守れる力を身
に付けたいと思った。爺さんに話すと、爺さんは師匠になる事を快諾してくれた。
 俺は、そのおかげで、この体を作れたと思っているし、目的意識も、ハッキリし
ていたので、付いてくれたんだと思う。理想を語るのは、今の世の中には、合わな
いかも知れないけど、大事にしたいと思った。
「兄様らしい。その上、お爺様の、強く正しくと言う願いを守ってらっしゃるのだ
から、義理堅い事ですわね。」
 恵は笑ってはいたが、馬鹿にしたような感じでは無かった。それは、俺が真剣に
話したからだろう。睦月さんも、ヤレヤレと言った目付きで見ていたし、葉月さん
も少し困った顔をしていたが、俺らしいと思ったのか、ニコニコ笑っていた。
「恵は、この3年間どうだった?」
 俺は尋ねてみる。すると、恵は、中空を見つめて、少し溜め息を吐く。
「天神としての、全てを教わった3年間でしたね。父は、その名の通り厳しかった
けど、愛情で接してくれたと、私は思っております。」
 恵は迷い無く言った。そうだな。俺は、その愛情に溺れたくないから、父から逃
げた。父の愛情は、俺達を育てる事に集中していた。その点について、疑った事は
一度も無い。だが、俺は父の夢を追わず、爺さんの夢を背負った。
「そう言えば、俺の手紙は届いてたか?」
 俺は尋ねてみる。
「?・・・兄様、手紙など、お出しになったのですか?」
 恵は、怪訝そうな顔をする。どう言う事だ?
「ああ。1年に3回は出したぞ?届いてないのか?」
 届いてなかっただって?そんな馬鹿な。
「・・・睦月。どう言う事です?」
 恵は、睦月さんを見る。この家の事について、一番知ってるのは睦月さんだ。だ
から、睦月さんに尋ねたのだろう。
「・・・申し訳ありません。・・・厳導様の、御意向でした。」
 睦月さんは素直に謝る。そして、使用人に目配せすると、数個の封筒を持ってこ
させた。そこには『父と妹へ』と書かれた俺の文字があった。間違いなく、俺が書
いた手紙だった。
「父の意向と言いましたね。何故、父は、こんな事をしたのです?」
 恵は、明らかに怒っていた。俺だって、不思議に思う。
「厳導様は、恵様に天神を継いでもらうべく、命を削って鍛えておられました。こ
の手紙で、恵様が瞬様の元に行ってしまわないか、ご心配だったのでは?と推測し
ます。」
 睦月さんは、予想を交えて言う。現実に父は、恵に命を削って、天神家に相応し
い教育を施していたのだろう。それにしても・・・。
「私の意志も、甘く見られたのですね。なら言っておきます。二度と、このような
嘘が無いように、誓ってもらえるかしら?」
 恵は、睦月さんの顔を睨み付ける。あれは、本気の目だ。
「私の今の主人は、恵様です。この身に誓いましょう。」
 睦月さんは、迷い無く言った。そうか。その時の主人は、父だったのだ。逆らう
事も、ままならなかったのだろう。
「宜しい。信用しましょう。」
 恵は、惑い無く言った。強くなった物だ。
「それにしても、忙しかったんだな。恵。」
 手紙を出すのも、憚られる程だったとは・・・。
「今と、余り変わらぬスケジュールですよ。」
 恵はサラリと言うが、今だって、稽古の前にヴァイオリンの習い事をしていた。
あんな事を、毎日やってるのか・・・。恵は。
「兄様こそ、一日のほとんどを修行に費やしてるのですから、似たような物ですわ。」
 そう言われれば、そうかもしれない。日課になってしまったので、今でも修行は
続けている。手を抜くと、忘れそうだと言うのもあった。
「俺のは、日課になってるからな。身に染み付いちまってるよ。・・・そうだ。睦
月さんや葉月さんは、どうだったのかな?この3年間は。」
 俺は、睦月さんや葉月さんの方を見る。
「私は、使用人として、厳導様並びに、恵様を補佐する毎日でした。」
 睦月さんは、教科書通りと言った答えを返してくる。
「睦月は、使用人としてのスキルを、極めたいとお考えのようです。」
 恵が、睦月さんの考えを代言する。
「へぇ。でも睦月さんなら、もう極めてる感じするなぁ。」
 俺は、睦月さんくらい出来た使用人は、中々居ないと思っていた。
「まだです・・・。私は、あのナイアに勝っていません。」
 睦月さんらしからぬ、悔しい声を出す。ナイアって誰だ?
「ああ。ご奉仕メイド大会の事ね。睦月も、気にするのねぇ。」
 恵は朗らかに笑う。ご奉仕メイド大会か・・・。この事に関しては、睦月さんは
目の色を違わせている。余程、悔しいんだろう。
「あのナイアに10年も、屈辱を味あわされています。今年こそは・・・!!」
 睦月さんは、大会の優勝を心から望んでいる。まぁ、目標があるのは良い事かも
知れない。それにしても、そのナイアって人。睦月さんに勝つくらいだから、相当
の腕の持ち主なのだろう。想像も付かない。
「燃えてるなぁ・・・。今度、その大会、見に行っても良いかな?」
 俺は、純粋に興味があった。どんな事をやるのだろうか?それに、睦月さんをも
超える相手と言うのが、何処まで出来るのかをだ。
「瞬様も来られるのでしたら、尚更負けられません。今年こそは!!」
 睦月さん、いつになく闘魂モードだ。
「私は、3年前から拝見してますけど・・・あのナイアを超えるのは、相当の事で
すわよ?睦月。分かってらっしゃるわね?」
 恵は挑発する。多分、さっきの手紙を隠してた事への礼だろう。何とも、抜け目
が無いと言うか・・・。我が妹ながら、恐ろしいな。
「恵様。日々の鍛錬を倍に増やしたのは、伊達や酔狂ではありません。」
 睦月さんは、今年は、昔の仕事量を倍に増やしたのだと言う。凄い根性だ。
「そうでしたわね。でも睦月?ナイアの事ばかり気にしていられるのかしら?」
 恵は、ニヤニヤしていた。今度は何だろう?
「いいえ。油断しているつもりはありません。何せ、血を分けた姉妹ですから。」
 睦月さんは、葉月さんの方を見る。
「わ、私は・・・。」
 葉月さんは、オロオロしている。って事は、葉月さんもご奉仕メイド大会に出場
するんだ。意外だったな。
「そうね。3年前に、ここに使用人として、睦月を追いかけてきて、2年前に大会
に出場。その時こそ、入賞を逃したけど。去年は、3位だったのには、私も驚きま
したわ。」
 恵は、しみじみと、その時の事を思い返す。へぇ。葉月さんも凄いんだなぁ。3
位って事は、睦月さんの次じゃないか。
「葉月さんは、何で、うちの使用人になろうと思ったの?」
 俺は、尋ねてみた。
「お屋敷で、姉さんが1人で頑張ってる姿を見て・・・憧れたからです。」
 葉月さんは、臆面も無く言った。良いなぁ。純粋に、尊敬してるんだろうなぁ。
「まぁ葉月が入る前辺りは、丁度忙しいのもありましたね。でも葉月が、私の後を
追いかけて、お屋敷の使用人になると言われた時は、さすがに驚きました。」
 睦月さんは、葉月さんは、きっと違う道を歩むと思っていたのだと言う。確かに
葉月さんは、少し引っ込み思案な所がある。キビキビとした使用人の仕事は、出来
ないと思ったのだろう。
「私は・・・先頭に立って、お屋敷を守っている姉さんを見て、憧れた物です。」
 葉月さんは、ニッコリ笑う。参るなぁ。あんな笑顔で言われるなんて、睦月さん
も幸せ者だなぁ。
「葉月。持ち上げ過ぎですよ。それに私は、厳導様に仕えられて幸せでしたから。」
 睦月さんは、本当に父の事を愛してくれていた。父は、恵が生まれた後に、すぐ
に1人になった。母は、とっくに他界している。父は、その事を一度も、俺達に話
してくれなかった。何故、母が居ないのか疑問に思う時もあった。でも、この睦月
さんが代わりに、何でもやってくれた気がする。俺が睦月さんに、まだ頭が上がら
ないのは、ほとんど母親代わりだからだ。
「睦月は、籍を入れれば良かったのよ。」
 恵は、ズバリと物を言う。
「恵様のお気持ちは有難いですが、私は、厳導様のお側に仕える事が幸せでしたか
ら・・・。最期まで看取れて、幸せでした。そして、恵様。貴女にお仕え出来るの
は、厳導様にお仕えするのに匹敵する幸せだと思ってます。」
 睦月さんは、父と関係を持ったりもしてたのだろう。本当に、母親代わりだった。
しかし睦月さんが望んだのは、母としての喜びではなかった。いつまでも側に仕え
て、世話をする。それが出来ると言う事が、睦月さんにとっての幸せだったのだ。
「睦月さんは・・・仕事に誇りを持っているって感じる。さすがだよ。」
 俺は、嘘偽りの無い気持ちを言う。
「皆様、褒め過ぎですよ。仕事に忠実なのは、どの世界でも一緒です。」
 睦月さんは、照れ隠しに咳払いをする。
「私も、仕事に誇りを持てるように頑張りますね。」
 葉月さんは、首を斜めにしてニッコリ笑う。本当に、可愛い笑い方をする人だ。
「葉月は、もう仕事に誇りを持つべきです。料理や清掃などは、まだ私の方が上で
すが、世話をする事と、ベッドメイクなどは、私を凌ぐ力を持っている筈です。」
 睦月さんは、さすが良く見ている。葉月さんの事は、既に実力で認めているよう
だ。細かな所のチェックは、睦月さんの方が上だな。
「そうね。伊達に、去年3位を取っていないと言う事ですわね。今年も出るんでし
ょ?出るからには、2人共、優勝を狙う気概で、出るのですよ?」
 恵は、大会の事について話す。そうか。睦月さんも葉月さんも、出場するのか。
こりゃ、応援にも力が入るってものだ。
「無論、その気です。・・・葉月。大会で、もし力を出さなかったりしたら、怒り
ますよ?私をも、追い抜く覚悟で出場なさい。」
 睦月さんは、本気の目をしていた。葉月さんは、少しビクッとしていたが、首を
少し縦に頷かせると、睦月さんの目を見る。
「私も、藤堂の女です。出るからには、力を尽くします。」
 葉月さんは、キッパリと言った。あの葉月さんが、ここまで言うとは・・・。
「それでこそ我が妹の葉月です。藤堂の教えは『悔いを残すな』ですからね。そう
こなくては、面白くありません。」
 そう言えば2人とも、藤堂流合気道の武道家だったんだよな。まぁ、そんな風に
見える事は、ほとんどないが・・・。
「麗しき姉妹愛ですわ。私達も、こうありたいですね。兄様。」
 恵は恐ろしい事を言う。俺も、恵と本気で何か争えとでも言うのだろうか?言っ
ちゃ悪いが、頭が上がるとは思えない。
「俺は、恵と争いたい訳じゃないぞ。」
 俺は、正直に答える。冗談じゃないよ。
「ま、そうですわね。せいぜい手合わせで、我慢して置きますか。」
 恵は、冗談か本気か分からないような笑顔をする。おっそろしいなぁ・・・。
「恵様。そろそろお時間です。」
 睦月さんが合図をすると、時計に目をやる。
「もうですか。兄様と話をしてると、あっと言う間ですね。」
 恵は嬉しい事を言ってくる。それにしても・・・今日は、色々聞けて有意義だっ
たな。何せこれから、ここで生活をするんだ。それなりに知っておかなきゃな。
「では、私は、日課をこなす時間ですので、失礼しますね。」
 恵は、行儀良く挨拶すると使用人に後片付けを、命令して、自分の部屋へと帰っ
ていく。確かに、そろそろ勉強などにも、手を付けなきゃならない時間だ。俺も部
屋へと帰るか。
「瞬様。部屋へと、お戻りですか?」
「ああ。葉月さんは?」
 葉月さんは、俺の御付の使用人だといっても、限度があるし、そろそろ、それぞ
れの部屋に帰っていくのかな?
「瞬様の部屋へと、ご同行します。」
 ・・・甘かった。葉月さんも意外と、仕事熱心と言うか律儀と言うか・・・。
 無下に帰すのも何なんで、とりあえず俺の部屋まで行く。相変わらず、でかい屋
敷なので、俺の部屋に行くまでに、5分も掛かる。何部屋あるんだ。この家は。
 俺は、自分の部屋の前の扉に、手を掛けて葉月さんの方を向く。
「葉月さん。後は、俺1人で大丈夫だよ。」
 俺だって、子供では無いのだ。部屋まで来れば大丈夫だ。何故か葉月さんは、俺
の部屋の前で、足を止めているしね。
「なら私は、ここで待機しています。何か御用の時は、お呼び下さい。」
 お呼び下さいって、葉月さんは、ここで待つ気かよ。
「葉月さん。俺は大丈夫だよ。葉月さんの部屋に、帰った方が良いよ。」
 俺は、葉月さんの気持ちは嬉しいが、甘える訳にも行かないと思っていた。
「ご心配要りません。私の部屋は、瞬様の部屋の隣です。」
 葉月さんは、隣の部屋を指差す。・・・ってマジですか・・・。
「また何で、そんな近いの?」
「何かあった時に、すぐに行ける様に、御付の使用人は、隣を利用する物なのです
よ。瞬様。姉さんも、恵様のお隣を、利用していらっしゃいます。」
 葉月さんは教えた。なる程。徹底してる物だ。って事は、父が生きてた頃は、睦
月さんは、父の隣の部屋に居たって事か。
「分かった。じゃぁ何かあったら呼ぶから、部屋に戻ってくれ。」
「分かりました。何か御用の時は、部屋の左隅にある、呼び鈴の紐を引いて下さい。
私の部屋に、通じるようになっています。」
 葉月さんが、説明する。確かに左隅の所に、紐のような物がある。これは、呼び
鈴のための紐だったのか。何だか、万全の用意だな。
 葉月さんは、一礼すると部屋へと帰っていった。まぁさすがに、葉月さんと二人
きりじゃ、俺だって落ち着かない。葉月さんも、来年の8月で19歳だ。プロポー
ションは、言うまでも無く良いし、かなりの美人だ。そんな葉月さんと、常に一緒
に居るなんて、贅沢も良い所だ。
 それはともかく、勉学に励むと思った所で、主にやる事は、無いんだよな。まだ
入りたてなので、復習する内容も、そんな難しい所では無い。
 俺は何と無しに、窓の方を見る。外はもう暗い。夜は、このお屋敷が広いと言う
事もあって、ネオンなども無縁なので、結構不気味だ。しかも、このお屋敷は、広
い敷地の庭があるせいで、何か出てきても、不思議じゃあない。まぁ俺の場合は、
それすらも修行の内だと思っている所もあって、余り怖いとは感じないけどな。
 ・・・?何だあれ?何か光っている所があるな。あの辺は庭だったはずだ。それ
に光は、何かを探してるようにも見える。ウロウロしていた。誰か居るのだろうか?
 すると俺に気が付いたのか、ユラユラと近づいてくる。何だ?この光は。
(・・・輝く魂の持ち主。やっと、見つけたぞ。)
 何だ?何かが話し掛けてきた。だがそれは、話し声と言うより、頭に直接語り掛
けてくるような感じがした。
(素体の資質も、素晴らしい。・・・試させてもらうぞ。)
 光は、こっちに向かってきた。襲い掛かってくる?いや、そんな感じも無い。し
かし、何か俺にしようとしている感じがする。幻でも、見てるんだろうか?
「・・・何だ?・・・俺に用でもあるのか?」
 俺は、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、話し掛けてみる。
(フッ。器を見るだけだ。大した手間でも無い。)
 光は、呼応するかの如く、話し掛けてきて、俺の脳に向かってくる。それを俺は、
中段の構えで迎え撃って、光に対して、中段突きを見舞う。
 しかし当たる気配も無い。いや、そもそも実体が無いから、何もしようが無い。
(恐れる事は無い。お前と私は、似ているようだしな。)
 光は、俺の脳に入り込んだ。
 そして、俺は、気を失ってしまった。
 この唐突な出来事こそが・・・俺の中で、何かが始まる事件となった。
 この光が、害を成すものか否か・・・。
 この時は、まだ何も知らなかった・・・。



ソクトア黒の章2巻の2前半へ

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