NOVEL Darkness 2-3(Second)

ソクトア黒の章2巻の3の弐


 自分に敵う者は居なかった。
 誰もが、尊敬の念を込めて、私を敬った。
 それは、私が強いからだ。
 自分でも女でありながら、ここまで強くなれるだなんて、思ってもいなかった。
 しかも自分は、この学園の校長の孫。
 学内の地位は、自然と高い物になった。
 周囲の期待とは裏腹に、私の気分は冷めていった。
 この学園は、切磋琢磨する故に面白い物だと思っていた自分に、腹が立つ。
 結局は、中学の時と変わらない。
 私は先導者で、皆は、ただ付いていく。
 空手部の主将?つまらない。
 学年1位の成績?つまらない。
 次期生徒会会長候補?つまらない。
 とっても、つまらない、ツマらない、つまんない!ツマラナイ!!!
 外面では、優秀な生徒を演じる私は、内面で非常に退屈していた。
 誰もが、私に媚を売る。
 何なんだろうか?校長の孫だから、そんな怖い訳?
 私に逆らうと、何かあるとでも思っているのだろうか?
 部活動対抗戦では、当然のように私が優勝。
 私を倒そうと頑張る生徒も居たが、目に見えて私の方が、強かった。
 せっかく本気が出せそうな場ですら、私は手加減しながら闘っていた。
 自分が、特別な人間だから?
 馬鹿馬鹿しい。そんな考えは、驕りの第一歩だ。
 このまま一生を迎えるのなんて、馬鹿げている。
 そう思った矢先だった。
 1年の時、あれだけ退屈していた学園生活が、一変した。
 今では、掛け替えの無い時間に、変わりつつある。
 近所に、俊男君が戻ってきた。
 パーズ拳法を極めたと言う話で、凄く興味があった。
 俊男君は、目を輝かせながら、私に面白い話を聞かせてくれた。
 俊男君とは、何度か手合わせをしたが、なる程、強くなった。
 私と、互角に戦えるまで成長するなんて、凄い事だ。
 元々、才能があるのは知っていたが、ここまでとはね。
 そんな俊男君が、学園に入学すると聞いて、私は喜んだ。
 だが、私は予想も付かない相手と出会った。
 その相手が、私以上のお嬢様、恵さんだった。
 何でも、飛び級で入学。更には入学試験は、全問正解の文句無しのトップ。
 入学式で、スピーチを完璧にこなし、先生のスピーチの間違いを全て正して、読
み上げる事まで、やってのけた。
 私は、騒然としていた周りと違って、心が躍っていた。
 やっと本気で渡り合える人で、出会えたと思った。
 こうで無くては、面白くない。
 更に半月後、俊男君を負かせた相手と言うのが、学園に入る事を聞いた。
 私の心は、更に躍った。
 何せ、父からも聞いていた。
 空手大会で、凄い逸材が居たと言う事をだ。
 そうなると、居ても立ってもいられないのが、私だ。
 お爺様と話しているのを聞いて、瞬君に間違いないと思った。
 それで思い切って、話してみると、あの恵さんの兄だと言う。
 それは好都合だった。
 学内で私の元気をくれる人達が、こんなに集まっているだけで、心が躍った。
 私は、この学園で学校生活をしていると、胸を張って言える。
 それは他でも無い、恵さん、瞬君、俊男君のおかげだ。


 場内は騒然としながらも、どこか、何かの期待を含ませるような雰囲気になって
いる。それは、とうとう格闘技の女子の部の決勝が、始まるからだ。
 江里香先輩は結局、準決勝は勝利を収めた。でも、相手もかなりの強さだった。
柔術部の副主将を務めている人で、何でも、ヒート主将のガリウロル滞在中に、お
世話になっている家の娘さんだったらしく、その実力は、ヒート主将も一筋縄いか
ない程の相手だった。確かに雰囲気はあった。だが、江里香先輩は、楽勝とまで行
かなくとも、自分の勝利は揺るがないと信じていたらしい。相手の三角絞めの時に
は、俺ですらヒヤリとしたと言うのに、20秒も耐えた後、踏み付けで相手を蹴り
剥がして、すかさず鳩尾に拳を突き入れた所で、勝負は決した。それでも倒れなか
った相手も凄いが、江里香先輩は、トドメの左ハイキックで見事に倒した。
 余りに華麗な勝ち方に、会場からは拍手が巻き起こったが、江里香先輩は、それ
を当然と言う風に受け止めて、控え室に、休んでいったのである。その後、20分
間の休憩後に、女子の部の決勝戦を行うらしい。
 恵は合気道の達人だ。当然、関節技も狙いに行くし、打撃力も、かなりの物を誇
っている。単純な腕力で凄いと言うのでは無い。相手の勢いを利用したり、相手の
隙を縫ってくるように、打ち込んでくる技術が凄いのだ。それに加えて、強烈な投
げも持っている。難点としては、受身になり易い点だ。恵のスタイルは、余り自分
から攻めるタイプでは無いのだ。
 一方の江里香先輩は、勿論、空手の達人だ。もはや芸術に近い。江里香先輩の凄
い所は、相手の急所を正確に突いてくる点だ。しかも、その速さたるや、俺よりも
速いと思うくらいだ。江里香先輩の打撃は、細かいように見えるが、弱い所を突い
てくるため、一撃必殺に近い。その代わり、急所を外せば、受けられない程の打撃
じゃないのだ。それに関節技への対応が、完璧とは言いにくい。タックルを切った
り、基本的な外し方は知ってる物の、完璧に決められたら、逃れるのは至難の業だ。
 この試合程、面白い試合は中々無いだろう。俺が見た感じ、実力も離れている訳
では無い。全体的な試合の流れは、江里香先輩が攻めて、恵がそれに対応していく。
そんな展開になるだろう。だが、対応力の差で、恐らく恵が少し優位になる。だが、
少しの優位では、安心出来ないくらいの一撃を、江里香先輩は持っている。
「俊男。お前はどう見る?恵と江里香先輩の勝負の行方を。」
 俺は、隣に座る俊男に聞いてみる。
「そうだね。恵さんは、あの動きは合気道をやっているね?僕は、そこまで詳しく
無いけど、合気道って言うのは、受けが基本だって聞いたし、攻めの江里香先輩、
受けの恵さんって形になるだろうね。今までの試合からすると、試合運びは恵さん
に一日の長があるけど、江里香先輩は、それを引っくり返すだけの打撃を持ってい
る。判断に悩むね。江里香先輩の攻撃は、速いからね。その速さに対応出来るか、
そして、恵さんの無駄の無い動きに、江里香先輩が避けきれるかが鍵になると思う。」
 俊男は、ズバリ俺と一緒の見解だった。さすがに、良く見ている。言ってる事は、
正確だ。問題は最初の激突。そして、関節技に移る時のタイミング、そして江里香
先輩の攻撃が、急所に当たるかどうかだ。
「どちらにせよ、凄い試合になるだろうね。」
「ああ。同感だ。」
 俺は、俊男に同意する。それだけは間違いないだろう。稀に見る才能を持つ2人
だ。試合が、どう転ぶか予想も付かない。
「女子の部もやるのぉ。あの空手部の主将は、去年も凄かったがのぉ。今年は、更
に強い。去年より、生き生きしてるぞ。」
 伊能先輩が、感心しながら見ていた。
「去年は、あれ程じゃ無かったんですか?江里香先輩は。」
「ふむ。何て言うか、覇気が無かった。去年は、それでも、毎回優勝してたがのぉ。
今年は、やる気が違う。お前さんの妹が、影響しとるのかもな。」
 なる程な。相手が居なかったのか。そう言えば、部活の時も、俺や俊男が手合わ
せする時以外は、江里香先輩のやる気が、感じられないように思ったけど、気のせ
いじゃなかったんだな。
「お前さんの妹も凄い奴よのぉ。あのアネゴは、あれでも空手部主将以外に、負け
た事は、無かったんだぞ?それをアッサリ勝つ、あの肝っ玉は本物じゃ。」
 伊能先輩は、本気で感心していた。恵は確かに強い。聞いた話によると、オッズ
は、一気に恵がトップになったと言う。江里香先輩の牙城を崩せるかも知れないと、
皆が思っているのだろう。だが、その差は、僅差だ。
「皆様、お待たせしました!!」
 アナウンスが入る。それと同時に会場が暗くなる。
「これより、部活動対抗戦!女子の部の決勝戦を行います!!」
 アナウンスが叫ぶと同時に、会場から轟音のような歓声が上がる。いや、俺も、
物凄く、叫びたい気分だ。とうとう始まるんだ。
「赤コーナー!!空手部主将!ミス・リーダー、空手部の至高の拳!」
 言いたい放題だな。空手部至高の拳って、なんだよ。
「一条ーーーー江里香ぁーーーーー!!」
 アナウンスが読み上げると、赤コーナーサイドからライトが映し出されて、胴着
姿の江里香先輩が姿を現す。江里香先輩は、たくさんの歓声に応えるように手を振
る。そしてリングまで来ると、一気にジャンプして、リングの中に入った。すげぇ
パフォーマンスだ。
「江里香先輩。ここで見させて戴きますよ。」
 俺は江里香先輩に、声を掛ける。
「良く見てなさいよ。貴方の妹だけど、遠慮は、しないわよ。」
 江里香先輩はニコッと笑う。あれは、闘いを楽しんでいる顔だ。
「青コーナー!!生徒会代表!ミス・フロイライン、最強の優雅ここにあり!」
 ・・・もう訳分からないな。凄い言われ様だ。
「天神ーーーー恵ぃーーーーー!!」
 恵が呼ばれる瞬間、青コーナーから恵が姿を現す。ライトが映し出されると周り
からは、物凄い歓声が上がった。・・・恵の奴、何考えてるんだ。胴着の上から、
ドレスを羽織っていた。周りからは、心酔の声まで聞こえてきた。
「恵様ー!!!優勝ですわー!!」
「恵様に向かって!!敬礼!!」
 何だか会場は、凄い雰囲気になりつつある。いつの間にか、ファンクラブが出来
ていたらしく、黄色い応援を、飛ばしていた。
「ハハッ・・・。アイツらしいわ・・・。」
 俺は、開いた口が塞がらなかった。やる事も盛大だな。アイツは。
「す、凄いねぇ。恵さん。」
 俊男も、呆気に取られている様だ。
 そんな周りの雰囲気は、サラリと受け流しながら、恵も何とドレスのまま、ジャ
ンプしてリングの中に入った。そして簡単に脱げるように、細工していたらしく、
ドレスを一気に脱ぐと、手伝いの生徒に受け渡した。どうやら、打ち合わせを、し
ていたらしい。
「お待たせ致しました。先輩。」
 恵は、いつもながら、余裕の表情で江里香先輩を見る。
「いやぁ、面白い物を見せてもらったわ。」
 江里香先輩は、本気で楽しんでいた。
「おい。恵・・・まぁお前のやる事だから、凄いと思ったけどな。これだけ会場を
沸かせたんだ。それに見合う試合を、するんだぞ。」
「フフッ。兄様。私のモットーは、優雅に常勝です。安心して見てなさい。あ。決
して、応援を忘れないで下さいよ。」
 恵の奴、この期に及んで、何て余裕だ。試合より、俺の応援かよ。心配する必要
は無さそうだな。
「さて、校長!この試合、どう見ますか?」
 お。解説が始まったな。校長の意見は、どうなんだろうなぁ。
「ふむ。江里香は、己の非力を補って、余りあるスピードで急所を突いてくる。こ
れは、いつでも一撃必殺が狙えるのと同じ。一瞬でも怯ませられれば、江里香は容
赦無く畳み掛けてくるからのぉ。一方で、天神 恵は、受けの形ではあるが、その
返したるや、今まで完璧。打撃レベルも高いし、関節技などの完成度もトップレベ
ルじゃ。末恐ろしい一年じゃと思う。よって、先に決定的なチャンスを作った方が、
有利になるのは、間違い無いじゃろうな。」
 ま、俺達と同意見か。って事は、恐らく本人達も分かっている事だろう。それを、
どう裏を掻いて行くのだろうか?その辺も、見所だな。
「ありがとう御座います。では、そろそろ始めさせて戴きます。」
 アナウンスが進行役に目配せする。すると審判が、両者に合図をする。それぞれ
相手を、正面から見合う。こうなると、お互いの事しか見えない。
「それでは、決勝戦、第1ラウンド!!・・・ファイト!!」
 カーーーン!!
 審判の掛け声と共にゴングが鳴る。すると、両者共に構えを取る。恵は、藤堂流
合気道の構えだ。半身を、見えなくさせる構えで、いつでも足を回転させて、摺り
足で高速移動出来る。威圧感は充分だ。
 一方の江里香先輩は、腰を低く構えて左手を縦に前に突き出して、右手を腰に持
っていく。あの型からなら、正拳から回し蹴りまで、瞬時に繰り出せるだろう。無
駄の無い素晴らしい構えだった。
「凄い・・・。何て緊張感だ。」
 俊男は唸る。分かる気もする。とても女性とは思えない。何て気迫だ。
「さて・・・こうして緊張感を楽しむのも良いけどね。」
 江里香先輩は、型を崩さぬまま、にじり寄る。
「空手は、敵に気負いを見せては駄目だからね!」
 江里香先輩は、腰を更に低くしながら、恵に向かって駆けていく。そして、下段
蹴りから入る。恵は、それを最小限の動きで脛で受け止める。しかし、江里香先輩
は止まらない。中指を、少しせり上げるような拳を作ると、肩を狙いに行く。恵は、
それを捌きに掛かる。すげぇ。何て早さだ。江里香先輩は、このままじゃ埒が明か
ないと思ったのか、地面に手を付いて、恵の鳩尾に突き上げるような蹴りを入れよ
うとする。恵は、それを両肘でガッチリガードする。しかし、その瞬間、反対の足
の踵が、コメカミに向かって飛んでくる。上手い!!
「せい!!」
 恵は上体を反らす事で、躱し切ると、容赦無く踏みつけに来る。それを江里香先
輩は、バック転するような形で避ける。ど、どっちも凄い。何て速さだ。それに、
組み立ても早い。攻撃に移る時の判断速度が、半端じゃ無い。
「やるわねぇ。私の鉞(まさかり)蹴りを躱すなんて、常人じゃないわ。」
 江里香先輩の踵蹴りは、鉞蹴りと言う名前らしい。
「私もヒヤリとしましたわ。勝負は、こうでなくちゃ嘘です。」
 恵は相変わらず構えを変えてない。構えを崩すこと無く攻撃に移行する。それは
理想だ。だが、その理想を恵は実践しているのだ。恵は敵との調和が取れている。
相手は、敵にあって敵にあらず。己を高める事で、敵を作らず、さすれば自然と、
無敗となる。藤堂流合気道の名言に、そう記されていた。
(面白い考え方だな。要するに、自分を高めはすれど、敵を作らないようにすれば
それ即ち、無敗とすると言う考え方か。)
 敵と言う物を作らず、己を高める。それはどんなに理想的だろうか・・・。君子
危うきに近寄らずとも言う。・・・そうか。だから葉月さんが、後継者なんだな。
葉さんは、敵を作ろうとはしない。常に相手の事を考えている。組手をやっていて
も、葉月さんの場合は、敵を倒すと言うより、敵と自分を合わせる。それこそ調和
の世界だ。恵は性格的に、そう言う考え方が出来ない。しかし恵は凡人じゃない。
いつの間にか、敵を自分の流れとして、調和を取るように闘っている。しかも、無
意識にだ。
 それ故に、相手は恵とは、どう闘って良いのか分からないのだ。準決勝の榊 亜
理栖も、恵が構えを見せてからは、攻め込めないでいた。それは威圧感だけじゃな
い。恵が、余りに自然なので、攻め込めずに居たのだ。恐るべきは、その境地に至
った恵だ。
「なる程・・・ね。」
 江里香先輩も、その恐ろしさを体験している。目の前の恵は、何でも無い攻撃で
倒せそうだが、鉄壁なのだ。あの構えで居る間は、江里香先輩の技を、どれも防げ
るのだ。
「只の技術だけでは、葉月や睦月から、称賛は受けられませんからね。」
 恵は、その辺を己に厳しくしたのだ。元々は、体を鍛えるためだが、どうせやる
なら、本格的に真髄まで極める。恵らしい鍛え方だった。
「しょうがないなぁ。奥の手を隠して勝てる程、甘くは無いって事か。」
 江里香先輩は左手を前に持っていくと、右手を腰に持っていって拳を作る。江里
香先輩が、とうとう本気になったな。とうとうアレを出すつもりだ。
「随分と極端な構えですのね。それじゃ正拳突きを出しますと、言ってるような物
ですわ。何を考えてるか、分からないですわ。」
 恵は恐らく初めてだろう。先輩は滅多に、この技を出さない。俺との最初の手合
わせの時しか出してない筈だ。江里香先輩は、その構えのまま闘気を恵に向ける。
「・・・この闘気・・・。」
 恵は何か感じ始めているようだ。江里香先輩の腕が動いた。と思った瞬間だった。
 パァァァァン!!
 何かが弾ける様な音がする。その瞬間、恵は2メートル程、後ろにずらされた。
「・・・初見で避けたのは、貴方と瞬君くらいよ。」
 江里香先輩は、悔しそうな顔をする。当然だ。あれは、初見で避けられるような
技じゃない。俺ですら、江里香先輩の闘気を先読みして、何とかガードしたんだ。
「つぅっ!・・・驚きましたわ。こんな切り札を持っていたなんて。」
 恵は手の甲を押さえる。手の甲は、少し腫れていた。なる程。手の甲でガードし
たのか。
「私の隼突きは、音速と自負してるんだけどね。」
 そうだ。江里香先輩の必殺技とも言うべき隼突きは、音速の域に達している。弾
ける様な音は、空気を突き破った音だ。あれをガードするなんて大した物だ。
「道理で・・・。貴方が、正確に鳩尾を狙ってくると読まなきゃ、倒されて居た所
です。音速を手に入れた拳とは、恐れ入りました。」
 なる程。恵は、江里香先輩の考えを見破ったのだ。江里香先輩は得てして、急所
を狙う癖がある。それは長所でもあるが、弱点でもある。
「なる程・・・。さすが恵さんね。来る所を予測してたって訳ね。」
 そう言うと、江里香先輩は、再び隼突きの構えに移行する。
「貴女は、何発耐えられるかしら?今度は、単発じゃ済まさないわ。」
 そう。江里香先輩の隼突きは、恐らく連続で8発繰り出せる筈だ。俺の時も、8
連続で来た。それに耐えられるのか?それだけじゃない。飽くまで8発と言うのは、
1回の隼突きの連続に対してだ。再び態勢を整えれば、また飛んでくる事だろう。
「江里香先輩。一つ教えて置きますわ。天神家の辞書には、諦めるなんて言葉は、
存在しないのですのよ?」
 恵は、この期に及んで江里香先輩を挑発している。大した度胸だ・・・。
「瞬君と手合わせしてるから知ってるわよ。でもこの状況、どう打開するのかしら?」
 江里香先輩は隼突きに自信を持っている。そりゃそうだ。俺だって、ガード出来
なかった技だ。何発か貰ったのを耐えて、やり過ごしたのだ。
「見せて頂戴よ!!」
 江里香先輩は隼突きの構えから駆け出す。恵は、深呼吸しながら構えを崩さずに
居た。恵は、完全に受け止める気だ。江里香先輩が、隼突きを繰り出した。
 パァン!!パパパパパパパァン!!
 凄い音が鳴る。連続で、空気を突き破る音だ。手元が、まるで見えない。こんな
の、どう対処するって言うんだ!・・・恵は持ち前の読みで、何発か防いだ。だが、
案の定、防ぎ切れなかった。
「クゥッ!!!」
 恵は、脇腹を押さえる。脇腹と、肩口に食らった様だ。いくら急所では無いとは
言え、あの速さの打撃だ。相当なダメージの筈だ。
「フゥ・・・。6発も防ぐなんて、凄いわね。」
 江里香先輩は、余裕そうに恵を見る。だが実は、江里香先輩も苦しいのだ。音速
を生み出す拳だ。8発打ったら、少し休まないと次が打てないのだ。
「さすがですわ。でも油断なさらない事です。私は、まだ倒れて無いんですからね。」
 恵は再び構える。我慢出来るダメージだと踏んだのだろう。
「恵・・・。」
 俺は、このままで良いのか?と思った。このままでは、恵は大怪我してしまうか
も知れない。かと言って、止めると恵に恨まれそうだ。
「兄様、見てて下さいよ。兄様が修練してた3年間、私も、兄様を追いかけていた
んです・・・。その成果を、お見せします。」
 恵の目は死んでなかった。あれは、何かをやる気だ。
「恵・・・無理するなとは言わない。俺に、修行の成果を見せてみろ!!」
 俺は叫ぶ。恵は本気だ。本気の妹に対して、俺が応えない訳には行かない。
「それでこそ兄様です。」
 恵は、本当に嬉しそうな笑みを浮かべる。あんな笑い方が出来たんだな・・・。
「んもう。妬けちゃうわねぇ。瞬君たら、主将の応援もするものよ?」
 江里香先輩は、溜め息を吐く。・・・こう言うの、板挟みと言うのだろうか?
「ふふっ。兄様から、応援を戴いたからには、見せてあげますわ。」
「瞬くぅん?後で、覚えてなさいよぉ?」
 ううう・・・。怖いよぉ・・・。江里香先輩たら、意外とマジで怒ってるよぉ。
どうすれば良かったんだよぉ・・・。
「江里香先輩も、ファイトですよぉ・・・。」
「気持ちが篭ってない!!全く・・・。」
 江里香先輩は、俺の事を、ジト目で睨み付けながら、恵の方を向く。
「次で、終わりにしてあげるわ。」
 江里香先輩は隼突きの構えをした。目がマジだ。決める気満々だ。それに対して、
恵は、何を思ったのか構えを解く。何をする気だ?何を見せる気なんだ?
「・・・冗談じゃないようね。何を考えてるか、分からないけど、決めるわ。」
 江里香先輩は距離を詰める。恵は、まるで普段の歩く時のような自然な状態にな
る。江里香先輩は、射程距離を確認したのか、隼突きを繰り出した。
 パン!!
 その瞬間だった。江里香先輩は、2発目を打つ事無く終わった。恵は、江里香先
輩の隼突きを、完全に見切って、腕を取ったのである。そして江里香先輩が、腕を
引っ込める前に、全力で投げ飛ばしたのだ。江里香先輩は、目が点になる。無理も
無い。何が起きたのか、掴めてないのかも知れない。
「すげぇ・・・。」
 俺は感嘆の声を出した。恵は、己を殺して、全てを今の投げに繋がるように仕向
けたのだ。それだけでは無い。俺も、初めて気が付いたのだが、江里香先輩の隼突
きの特徴に、気が付いて、今の行動に出たのだ。
「恵の奴、隼突きを、完全に見切りやがった。技の特性までもだ。」
「どういう事?」
 横で、俊男が聞いてくる。俊男も、ある程度予測を付けているようだが、完全に
は、分かっていないようだった。
「江里香先輩の隼突きは、あの構えじゃ無ければ、音速は出せないって事だ。」
 そう。江里香先輩が、音速に達する拳を出すには、あの構えがあってこそなのだ。
あの構えは何気に、全ての四肢を使う構えだ。故に全ての四肢を加速させる事で、
音速を体現していたんだ。それが、腕を取って態勢を崩させる事で、2発目を封じ
たのだ。音速で無い2発目なら、避けきれると判断したのだろう。
「なるほど。四肢を加速させる構えって事だね。発想も凄いけど・・・それを2回
目で見切るなんて・・・。凄いんだな。恵さんは。」
 俊男も感心している。いや、当たり前だ。こんな芸当を思い付いても、実戦に移
せる奴が、どこにいる?恵は頭で理解した事を、実践したのだ。
「まさか・・・見破られるなんて・・・。」
 江里香先輩は、苦しげな声を出す。と言うのも、恵は投げ飛ばしただけでは無い。
完全に腕を絡めて、腕固めに入ったのだ。逃すまいと、絞め上げている。
「だって、変でした物。必ず構えていましたし、走り出してまで、構えを崩さない
なんて、何かあると思いましたわ。」
 恵は、何処にあんな力が残っていたのか、江里香先輩の表情が歪むまで、絞め上
げていた。いや、あれが関節技の怖さだろう。一度決めたら、離さない覚悟で絞め
上げているのだ。
「離しませんわ。降参なさい?」
 恵は、江里香先輩に降参するように求める。
「残念ね。私の辞書にも、諦めるなんて言葉無いのよ。」
 江里香先輩は、無理に笑顔を作ってみせる。
「何が貴女を、そこまでさせてるのかしら?痛いだけですわよ?」
 恵は無情なまでに絞め上げている。江里香先輩が、降参と言うまで、離しはしな
いだろう。一気に形勢逆転である。
「恵さんと一緒の理由なら、どうかしら?」
 江里香先輩は恵に言う。どう言う事なんだろう?それに、恵の顔付きまで変わっ
た。アイツ、腕を折る気か?
「そう言う事なら、容赦出来ませんわね。」
 恵は、絞め上げようとする。しかし、その動きは止まった。
「今度は、私が教えてあげるわ。空手の真髄をね!!」
 何と江里香先輩は、拳を握ると、歯を食いしばりながら恵を持ち上げる。恵がい
くら、そんなに体重が無いからって・・・あの状態で、立ち上がるなんて・・・。
「でええええええええい!!」
 江里香先輩は、その腕を恵ごと叩きつけようとする。恵は、ギリギリまで離さな
いで、地面に付いた瞬間、江里香先輩の足首を掴む。
「ハッ!!」
 恵は、アキレス腱固めに移行しようとする。それを江里香先輩は、物凄い鋭い蹴
りで剥がした。凄い・・・。
「本当に驚きましたわ。まさか、脱臼してまで、外すなんて・・・。」
 恵が江里香先輩を驚愕の目で見ていた。って脱臼!?うわ・・・。江里香先輩た
ら、腕があらぬ方向に曲がっているぞ。会場からは、悲鳴が起こる。
「騒ぐ必要は無いわ!!ハァァァァ・・・セイ!!!」
 江里香先輩は、腕をしならせるように振ると、遠心力で脱臼を一気に治してしま
う。あれは相当な速さが無いと出来ない。さすがは先輩だ。治してしまった。
「空手部主将・・・やるのぉ。」
 伊能先輩までもが、唸る。この試合は、只の試合じゃない。
「凄い物を見せて戴いたわ。でも、痛くない筈が無い。この試合は、その左腕は、
使えませんわね。」
 恵は冷徹な事実を言う。そうなのだ。アレをやった所で、痛みが引くわけじゃな
い。ある程度、抑える事は出来るが、闘える様な状態じゃないだろう。
「ご名答よ。だから、こっちも技を使わせてもらうわ。」
 江里香先輩は、突然左腕を下げたままでステップし始める。・・・こんな動き、
初めて見たぞ。そのステップたるや、まるで、浮いて歩いているかのような、素早
いステップに、変わりつつあった。
「あんな動き、初めて見たぞ。」
 俺にすら、見せてない構えだ。いや、あれを構えと言うのだろうか?
「なる程・・・。空手の技じゃ、無いのですわね。」
 恵は一瞬で見切った。凄いな・・・。でも、あんな空手は見た事が無い。
「空手じゃないと言われれば、その通りでしょうね。でも、これは、私が空手を進
化させるために、自分で編み出した技。そう簡単には、敗れないわ!」
 江里香先輩は、相当に自信がある様だ。初めて見る形だ。
「良いでしょう。貴方の挑戦、受けて見せます!」
 恵は、再び合気の構えに戻る。安定感のある構えだ。
「この闘い方は、誰にも見せてないから、恵さんが最初ね。」
 江里香先輩は、凄まじく軽やかなステップを踏みながら、恵に近づいていく。ま
るで踊っているかのようだ。そして江里香先輩は遠心力を付けながら蹴りを放つ。
 バシィ!!
 ・・・え?何が起こったんだ?江里香先輩の蹴りを、恵はガードした筈だ。それ
に江里香先輩は、顔に向かって蹴っていたはずだ。・・・なのに恵は、鳩尾を押さ
えている。どう言う事なんだ?
 江里香先輩は、機を逃すまいと恵が鳩尾を押さえてる間に、追撃する。恵は脇腹
に、もう一発食らってしまったが、他は、何とかガードして後ろに下がる。
「驚きましたわ・・・。まさか、何を食らったのか分からないなんて出来事が、あ
るなんて、想像もしてませんでしたわ。それが、進化した空手ですか?」
 食らった恵ですら、何が起きたのか分からなかったらしい。
「空手じゃないわ。『拳舞(けんぶ)』よ。」
 江里香先輩は名付ける。なるほど。拳舞か。確かに、あの動きからは、舞を想像
させる動きだ。しかし、あの打撃には謎が残る。
「次で仕留めるわ。」
 江里香先輩は、ステップを早める。
 カーーーン!!
 と、不意にゴングが鳴った。そうか。1ラウンドが終了したのか。
「・・・残念ね。」
 江里香先輩は、それだけ言い残して、コーナーに戻っていく。恵も凛とした表情
のまま、コーナーに戻っていった。しかしコーナーに座ると、すぐ様、手当てやマ
ッサージなどに、時間を費やす。余程、ダメージが残っている証拠だ。
「おい。恵。次のラウンド行けるのか?」
 俺は恵に声を掛ける。
「大丈夫です。何となくですが・・・見切りましたから。」
 恵は、見切ったと言った。しかし、自信があるのだろうか?いや、無くても、恵
なら言い切る事だろう。何となくと言う事は、確率は、五分五分くらいなのだろう。
 それを聞くと、今度は、江里香先輩の方に行く。
「あーら。妹さんの応援は、もう良いのかしら?」
 うぐ。先輩、怒ってるなぁ。だが、そんな嫌味には、負けていられない。
「先輩。腕は、大丈夫なんですか?」
 俺は、それが気がかりだった。あの治し方でも、痛みは引かないのだ。動かない
のを、そのままにしておけば、重症にも繋がる。
「心配してくれてるの?有難く気持ちは戴くわ。」
 江里香先輩は、胸にそっと手を当てる。
「でも、大丈夫。今、冷やしてくれたし、応急処置も受けたから、無理しなければ、
使えるわよ。さすがに、隼突きは出来ないけどね。」
 江里香先輩は、左腕をコキコキ鳴らしながら動かす。大丈夫そうだ。
「次のラウンドは、最初から飛ばすわよ。」
 江里香先輩は、燃えるような瞳をしていた。あんな生き生きした先輩を見るのも、
久し振りだ。余程、恵との対決は、嬉しいらしい。
 そして、セコンドアウトになった。これで、後は見守るだけだ。
「瞬君。妹さん、凄い目で睨んでたよ?」
 俊男が教えてくれた。予想は付いていたが、改めて教えられると、こっちも尻込
みしてしまう。確かに恵は、拗ねたような顔をして睨んでいた。
「ガッハッハ。モテる男は辛いのぉ。羨ましいぞぉ?」
 伊能先輩が、俺の頭を撫でながら豪快に笑う。
「俺としては、複雑ですよ・・・。」
 前途多難だよなぁ。俺・・・。こう言うの、贅沢な悩みって言うのだろうか?
 カーーーーン!!
 とうとう2ラウンドだ。これで決着が着く。
「体も軽いし、一気に行くわ!!」
 江里香先輩は、またしてもリングの周りで、軽やかに舞いだした。凄い足捌きだ。
そして舞ったまま、恵に近づいていく。恵はチラッと江里香先輩の方を向く。
「江里香先輩。合気の真髄を、お教え差し上げます。」
 恵は、余裕タップリだった。どこから、あんな余裕が生まれるんだ?
「そう言うからには、防げるんでしょうね。見せてもらうわ!」
 江里香先輩は恵に襲いかかる。今度は、さっきが左回し蹴りだったのに対し、右
回し蹴りを見せる。左と右で変えただけか?恵は、難なく避ける。そして、恵は、
何故か肩口を防御する。何と江里香先輩の右足が、恵の肩口を狙っていた。それを
分かっていたと言うのか!?
 ゴッ!!
 しかし、倒れたのは、恵の方だった。何と、江里香先輩の左足が、戻ってきたの
だ。あれは、踵で蹴ったな。まともに蹴りが入った。恵は、手を口に当てると、そ
こには、血がこびり付いていた。
「返しを忘れるとは、不覚でしたわ・・・。でも、これで完全に見切った。この血
の返礼は、倍にして返してあげます。」
 恵は深呼吸をする。かなり冷静だな。いつもなら、激怒している所だ。
「凄い自信ね。もう褒めるしかないわ。でも、ハッタリなら、次で決まるわよ。」
 江里香先輩は、再びステップを踏む。横に縦にと舞う姿は、正に『拳舞』。江里
香先輩らしい技だと思った。そして、恵が様子を見ているのを確認すると、一気に
距離を詰める。そして、右の胴回し蹴りを放つ。ミドルキックだな。それを恵は、
自ら進んで前に出て受け止める。・・・と思ったら、受け止める姿勢すら見せない。
しかも、全然違う所をガードする。・・・と思ったら、しっかりガードしていた。
自分の太腿を狙ったローキックをだ。そして、次の瞬間には、顔面を守るように手
を持っていく。しかし、それは当てずっぽう等では無かった。何とそこには、いつ
の間にか江里香先輩の右肘が、迫っていたのだ。それを読んでいたのだ。そして、
すぐ様、手首を掴むと、江里香先輩の、次の攻撃で用意してあった、左ミドルキッ
クの方向に合わせて、体を動かして捻りあげる。
 すると江里香先輩は、堪らず宙を舞う。そして、綺麗に投げられてしまった。恵
は、その隙を逃さず、左手で江里香先輩の右腕を絡め取って、身動き出来なくする
と、右手で掌底を作って、江里香先輩の顎にモロに入れた。江里香先輩は今、脳が
揺られているに違いない。恵は、もう一発入れようとするが、動きが止まる。
「恵!!」
 俺は、恵がやり過ぎないか心配すると、恵は、何かに納得したような表情を見せ
て、左手を使った戒めを解く。そして審判の方を一瞥する。それに審判が気が付く
と、江里香先輩のダウンを確認する。そして審判は、手を交差に上げた。
 カンカンカンカン!!
 終了のゴングだ。それを聞くと、恵は、力が抜けたように尻餅を付く。
「う・・・ん・・・?」
 江里香先輩は、朦朧とした表情のまま目を開ける。
「勝者!!天神 恵!!!」
 審判が宣言して恵の手を上げさせると、物凄い歓声が沸いた。
「うー・・・。」
 江里香先輩は、段々意識が戻ってきたようだ。俺は心配になって近づくと、恵が
制止する。恵は、何とか江里香先輩の所にしゃがみこむと、江里香先輩の手と固い
握手をする。そして、そのまま、江里香先輩の様子を覗き込んだ。
「・・・あー・・・。負けたのね。私。」
 江里香先輩は、理解したようだ。周りの様子を確認しながら周りを見渡す。
「江里香先輩。本当に、良い勝負でした。」
「ん。ありがと。正直、悔しいけど・・・楽しかったわ!」
 江里香先輩は、屈託の無い笑みを浮かべると、恵の手を握り返す。そして、立ち
上がると、恵の手を上げさせて勝利者を祝う。すると歓声は、より一層高まる。
「恵様!!!おめでとう御座いますーーー!!」
 2階席から葉月さんの声がする。本当に嬉しいんだろう。あんなに嬉しそうな葉
月さんも珍しい。そして、葉月さんは、携帯電話を取り出して連絡していた。あれ
は、恐らく睦月さんに報告しているんだろう。なんだかんだ言って、皆、心配して
たんだな。俺も負けられないなぁ。
「恵さん。」
「何でしょう?」
「・・・私、今日は負けたけど、諦めた訳じゃないから、気を付けてね。」
 江里香先輩が、恵に何か言うと、恵は珍しく、優しい笑顔をしていた。
「いつでも挑戦を受けますわ。私も、本気ですからね。」
 恵は江里香先輩と見合う。どうやら、互いにライバルと認めた様だ。
 それが何のライバルなのか、俺には見当が付かなかった。
 こうして、女子の部は閉幕したのであった。


 私は・・・生まれつき、周りとは違っていた。
 これも運命だとでも言うのだろうか?
 親を恨む・・・恨んでも恨み切れない。
 私は、何でこんなに苦しまなきゃならないのだろうか?
 でも、この苦しみは、特別だという証だろうか?
 だと言うのなら、甘んじて受けても良い。
 最初から周りと違うなら・・・周りが、羨むような生き方をしてやる。
 もう周りと同格なんて、真っ平だ。
 私は選ばれて、生を受けたんだ。
 元々そう言う生まれなら、その生き方を貫いてやろうじゃないか。
 この苦しみは、その代償。
 でも本当は、気が付いている。
 これは、苦しみじゃないのだと。
 これは、強烈な誘惑なのだ。
 拒むから苦しくなる・・・拒まなければ快楽をくれる。
 だが、それは、私が許さない。
 快楽に身を委ねるなど、愚か者がする事だ。
 選ばれた私は、そんな生き方をする筈が無い。
 でも時々、箍が外れる。
 凄く気持ち良い・・・良過ぎるよ。何なんだ。この快感は?
 でも溺れられない。
 溺れたら・・・私は、人ではなくなる。ヒトじゃ無くなるんだ!!
 こんな生を受けた証に、十字架をくれた親。
 私は、いつしか心を殺す事にした。
 快楽も感じないようにすれば、私はヒトで居られる。
 父親は、私の強靭な精神を見て喜んでいた。
 ・・・狂っている。
 娘が苦しみながらも、克服していくのを見て楽しむ。
 自分から、助けようともしない。
 誰のせいで、こうなったと思っているのか。
 『今度こそ完璧だ!!』
 父親は、そればっかりだった。
 母親は私を産んだ時に、ショックで失踪したそうだ。
 無責任だ。
 ショックで逃げるくらいなら、私も連れて行って欲しかった。
 無限と思える程の苦しみを背負いながら、生きる私の身にもなって欲しい。
 それからと言う物、私は、完璧であり続けた。
 世間的には『病弱』として見られているので、病気がちだと思われている。
 それ以外の事は、全て完璧にこなした。
 私は物心がつく頃には、言葉を覚えながらも、しゃべらないヒトになっていた。
 覚えてないと思われれば、役に立つ人形程度に思われる。
 無口だと思われれば、反抗しない従順な娘と思われる。
 面倒臭いので、私は、そう思われる事にしようと思っていた。
 永遠に、それが続いていくと思った頃、突然、それは変わった。
 私には、もう1人家族が居たのだと父が言った。
 正直うんざりだった。
 父は己の野望しか考えない男だったから、どうせ同じような奴だろうと踏んだ。
 しかし、予想は裏切られた。
 何なのだ?コイツは・・・。
 屈託の無い笑顔に、己を隠そうともしない。
 何でコイツは、こんなに気持ち良く笑うんだ?
 何でコイツは、私の事を常に心配してるんだ?
 何で・・・この人は、私の心を、躍らせるんだろうか?
 それは衝撃だった。
 そして意識した瞬間、心が蘇った。
 殺していた筈の心が、解放されたんだ。
 でも、それは苦しみの始まりでもあった。
 また、我慢しなきゃいけない・・・しないと私は・・・。
 でも、それでも良い!この人の側に、居たいんだ。
 私が元気な時は、本当に嬉しそうな顔をする。
 その顔を見る度に、箍が外れた時よりも、心が喜びで満たされる。
 父があんなに最低な男だったのに・・・この人は、別次元だった。
 その生き物は、兄だと言った。
 兄は、この家は大きいけど退屈だと言った。・・・何て正直な。
 夢は、皆を守る事だと言った。・・・何て真っ直ぐな。
 使用人にすら、気を使っていた。・・・何て心が広いんだ。
 私は、たちまち兄の虜になった。
 兄は、自分が年上だから、この家を継ぐ物だと思っている。
 しかし私は知っている。・・・父は、私に継がせるつもりなのだ。
 それに私は、この家の正体を知っている。
 兄に、この醜い部分を、知って欲しくない。
 それから、病弱だと偽りながらも、私は我慢し続けた。
 兄は私を病弱だから、守ってあげなければいけないとでも思っているのだろう。
 甘える事が出来たし、私は、それでも良かった。幸せだった。
 ・・・だと言うのに・・・あの男は・・・そんなささやかな・・・幸せも・・・
壊した。壊したのだ!信じられない!私の生きる支えを!よくもよくもよくも!!
 確かに兄は、昔から力を手に入れたいと言っていた。
 守るためには、どうしても力が必要なんだと語っていた。
 だから、祖父と呼ばれる所に、修行に行くのだという。
 しばらく帰って来れないと言うのは、私にも分かっていた。
 でも、兄の夢を語る顔が忘れられなくて・・・私は、送り出そうと決めた。
 祖父を恨みはしたが、兄の夢なら、仕方が無いと思った。
 だが、真相を知ったのは、3年後だった。
 私を後継者にしたいらしい。
 そのためには、兄が邪魔だったらしい。
 最高の状態で継がせるには、思春期に兄が居るのはマイナスだったらしい。
 下らない。下らなすぎる。下らないったら、ありゃしない!!
 そんな世継ぎのために、離した?
 あの男の事だ。私が兄の事を想って、微笑んでるのを観察したのだろう。
 私が兄の事を想って、頬を赤面させているのを発見したのだろう。
 あの男が、祖父に電話して、兄の夢を話したのだと言う。
 そして手配や兄を送り出す準備などを、さっさと用意したのだと言う。
 笑わせてくれるわ。・・・何が世継ぎか。
 兄の顔を見るだけで、幸せだったのに、幸せを奪わなきゃ気が済まないのか。
 許せない。本当に許せない。あの男を、許す訳には行かない!!
 ・・・
 その夜、私は初めて、箍を我慢せずに、快楽に身を委ねた。
 そして、気が付くと、赤い池の真ん中に立っていた。
 そして、いつの間にか地面に誰かが倒れていた。周りからは血の匂いがした。
 どうやら誰かが、血を流して倒れていたらしい。
 父だ。『あの男だ』。父だ。『憎い』。
 私は、この手で父を・・・。
 だが父は、生きていた。生命力は高い方だったらしい。
 その父が、喜んでいた。
 『お前は、完成品だ!』
 ・・・私は、トドメを刺そうかと思ったが、我慢した。
 それは、使用人が見ていたからだ。
 使用人は、父をベッドに運ぶ。上手い物だった。
 だが、私は知っている。
 もう父は、助かりはしない。
 父の体は・・・特殊だから、ヒトの治療など受け付けない。
 使用人も、それが分かっているらしく、冷めた目で見ていた。
 使用人は、父を尊敬して居たが、私の受けた仕打ちも知っていた。
 だから全てを知った上で、最期を看取ると言った。
 私は、有難いと思った。
 それからは、すぐに冷静になれたので、我慢出来た。
 その冷静さで、私は、手紙を送る事にした。
 父も兄には、最期ぐらい会っておきたいと思ったらしく、兄との面会を求めた。
 私は、渋々了解した。兄に、あんな父を見せたくなかった。
 だが、それ以上に、また兄に会えるのが楽しみでしょうがなかった。
 でも、完璧な妹で、あり続けたかった。
 兄が誇れる妹になりたかった。だから、ついお小言が出てしまう。
 久し振りに会った兄は、より純真になって、帰ってきた。
 私には、もう兄しか見えない。
 家族としてで無く、男性として好きだった。
 なら、決まりだ。
 完璧な女性として、兄に好いてもらうんだ。
 そんな事を思い描いていたある日。
 私は・・・父が使っていた机に、当主として座った。
 そして、父の品を引き継ぐ。
 そこで見つけた・・・。
 私は、そこで、開けてはならなかった物を開けた。
 見ては、ならない物を見た。
 そして・・・私は歓喜した。



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