第15期 #26

落ちる

 落ちることが怖かった。ジェットコースターなんて乗ったことはないし、乗ろうとも思わない。テレビでそういう映像が流れると、千佳はすぐに目を逸らしてしまう。
 エレベーターの下りですらお腹がざわざわとするようで落ち着かず、ゆるやかな反動とともに止まってからようやく、千佳はゆっくりと息を吸い込むことができた。
 降りると明美が待っていた。弁当を買って、ふたりでビルの外に出た。
 抜けるような空の青さに目を奪われる。ときおり肌を撫でる冷たい風が心地いい。晴れている日はいつも、明美と一緒に外でお昼を食べることになっていたけれど、千佳には少し抵抗があった。外に出るには、エレベーターで一階まで降りなければいけないからだ。事務所はビルの十三階にあるから、階段を使うのはたいへんだし、たかだかエレベーターのためにそこまでするのもばかばかしい。そんなに本気で嫌なわけじゃない、と言い聞かせて、千佳はいつもエレベーターの前に立つ。
 明美にそんな話をしたことはない。家族にも、誰にも。相談するほどのことではないのだ。
 明美が弁当の包みを開いた。甘酢の匂いが風に乗って千佳の鼻まで届く。

 五時半の鐘が鳴ると、すぐに会社を出た。途中スーパーに寄ってから、一人暮らしのマンションに帰り、夕飯の準備をする。カジキの甘酢あんかけはわりとおいしく出来た。

 食器を水につけて、台所の窓から外を見た。雲のない濃い藍色の空の中に、月が映える。いくつか星も見える。深い空。目が離せなかった。力が抜けてしまうような気がして、千佳はあわてて食器のたまったシンクに視線を戻し、水をひと流しした。
 上着を羽織り、明かりを消して、部屋を出た。千佳はマンションの屋上に向かった。ただ自然と体が動いていた。
 屋上に立って、空を見上げた。冷たい風が頬を撫でる。吸い込まれるような空の深さに、体中がざわめくようだった。それが落ち着くと、すっと力が抜けていった。
 落ちる。
 そう思った瞬間、千佳の足は床を離れていた。空に吸い込まれる。マンションが小さくなっていき、灯りが遠ざかる。空に落ちていく。
 怖くはなかった。何もかもから解き放たれたような心地よさがあった。ずっと感じていた違和感はなかった。そうだ、これが落ちるということなのだ、本当の、落ちるということ。
 ああ、洗い物を済ませておけばよかった。
 風にはためく上着を両手でおさえながら、千佳は空に落ちていく。


Copyright © 2003 川島ケイ / 編集: 短編