第6期 #7

天網昇降機

 私がこれを造りえた最大の要因は、資金でも知識でもなく、私の中から、それこそ腹の底からふつふつと沸き上がる何かであったに違いない。もちろんサリンやマスタードガスのように、強力な殺傷力があるわけではないが、兇悪さという一点においては充分に比肩しうる。その開発過程で最も私の頭を悩ませたのが濃度である。これは毒薬などと違い、気流の影響次第で効果に大きなばらつきが出る。濃縮効果と散布者自身の被災とが表裏一体の関係にあるのだ。適正な濃度を決定するため、ここ数日は不眠不休で生理現象すら我慢して追い込みをかけた。その成果を試す日が遂にやって来たのだ。私はこの計画を完璧に遂行するために、奴の行動を丹念に調べ上げた。その結果、ジンクスを異常に気にする男である事が判った。出社の際は、十一時ちょうどに送迎車を右足から降り、正面玄関のドアも右足でまたぎ、三基あるうちの、高層階専用である右端のエレベーターにしか乗らない。
 あの日の妻の言葉が私には死刑宣告のように聞こえた。しかし、受験生をふたりも抱えたわが家の状況では、私が涙をのむより選択肢はなく、禁断症状と闘う辛い毎日を想像したら憂うつになった。きっと奴にとっての三万円など、はした金に違いない。己のしくじりを末の者になすりつけて平然としている男を、断じて許す事はできない。
 
 私はエントランスの各階テナント案内を見上げながら、コートの襟を立て腕時計を見た。まもなく十一時になる。
 表で車のドアが閉まる音がして、ガラス越しに奴が姿を現した。私は悠然とエレベーターに乗り込み、右手中指で[開]ボタンを押したまま、息を止めて奴を待った。
 奴がせり出した腹を左右に揺さぶりながら、ドアから右足を一歩中へと踏み入れた。タイミングを合わせるためにボタンから指を離す。
 続いて二歩。
 そして三歩。その瞬間、私はすかさず[開]を連打すると、扉が開ききる直前に最上階ボタンを押し込んで脱出し、うつむき加減で早足に出口を目指す。喜び勇んで駆け込もうとする奴と、予定通りの位置ですれちがい、私はその時点で計画の完遂を確信した。
 私が表に出る寸前に、吊り上げられる鉄の棺の中から絶叫が漏れ聞こえた。振り向くとランプが明滅していて、奴が十階までのランデブーに出掛けた事を告げている。
 表通りに出た私は、掌中の給与明細を破り捨て、吸い殻を蹴っ飛ばすとズボンの尻をたたき残留ガスを払った。



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