早春賦発祥は長野県大町地方

◎安曇野発祥は虚構

  唱歌<早春賦>は、長野県安曇野が発祥とされ、今なお、ネット上や音楽著作物、更にマスメディアによる<早春賦>放映時に「早春賦のふるさと 安曇野」などと流されているが、まさに虚構であり、作詞した吉丸一昌も早春賦誕生も、安曇野とは全く無縁である。
   安曇野市当局は、「安曇野が早春賦の発祥の地」「吉丸一昌氏が安曇野を訪れて作詞した」を証拠立てる資料は存在しない、と長野県観光協会に回答している。

◎大町地方が「発祥の地」である根拠

イ、
東京音楽学校教授・吉丸一昌は、教え子の、当時、大町中学校音楽教師であった島田頴治郎の語る「春遅き大町地方の情景」から詩想を得、作詞したものであること。
ロ、
島田の2年後輩、崎山輝が大町実科高等女学校に赴任、「早春賦は大町地方を題材にした歌」と女生徒に歌唱指導したこと。
ハ、
鹿島岳水による状況証拠の考証(一部推論)によって、歌詞にある“谷の鶯”は稲尾沢道、“氷解け去り葦は角ぐむ”の舞台は木崎湖、“雪の空”は大町地方と、それぞれ特定できること。

Ⅰ<早春賦>三つの疑問

① 寒き地方に住んだ体験のない吉丸に、なぜ、あの写実的な作詞が出来たのか?
② 歌詞2番の“葦”は、船橋榮吉曲では、“いそな”に変わった、意味するものは何か?
③ 早春の歌が、なぜ、秋の11月2日作詞か?

①ついてー島田頴治郎の存在

 恐らく、<早春賦>の詩想・歌詞は、体験したものでなければ浮かばない。吉丸は九州育ちで東京暮らし。早春の時期、歌詞にあるような地方に旅行した記録も見当たらない。
 教え子の島田は、明治44年と翌年の2回、早春の時期を大町で過ごし「春遅き大町地方」を実体験している。<早春賦>作詞の背景に、島田の存在があったことは十分考えられる。
 ちなみに、大町中学校歌(吉丸一昌作詞・島崎赤太郎教授作曲;明治44年6月披露)は、時の鈴木校長の命を受けた島田音楽教師が、母校恩師に作成依頼、この時、吉丸教授は大町に来ることはなく、島田の語る大町地方の地勢・気候、そして大町中学の校風などを参考に作詞された。

②ついてー木崎湖・稲尾沢道の特定

 吉丸一昌は同時期、二つの<早春賦>を作詞した。中田章曲の、歌詞2番にある“葦”は、もう一つの<早春賦>船橋榮吉曲では“いそな”となっている。いそな(磯菜)とは海・湖などの波打ち際に自生する食用植物の総称である。
 二つの<早春賦>歌詞を重ね合わせると、歌詞2番の舞台が見えてくる。
 すなわち、
“氷”が張る“湖”であること
“葦”が生えること
食用植物”が自生すること
 この三つの条件に合致する「みずうみ」とは何処か。

東京への道順

 当時、東京へは、明科駅→塩尻→中央東線で飯田町駅と、長野駅まで歩き信越本線で上野駅の二経路があった。三等運賃で前者は三円三十四銭、後者は、二円八十八銭。当然、島田教師は後者で公務出張した。
 大町から長野へは高府街道(大町街道)がメインであり、大町から美麻村新行集落への道筋は、三日町経由と木崎湖経由がある。木崎湖は山紫水明・風光明媚、当然に木崎湖畔を通り、稲尾沢道から新行へと歩いた。


木崎湖・稲尾沢道の特定

 特定する根拠は次の2点による。
イ、
島田音楽教師の上京は4月と5月、経路の木崎湖では、葦の芽吹きを、続く稲尾沢の森林道では鶯の美声を聞いていた。この体験が1年6か月後の早春賦作詞に生かされることとなる。
ロ、
島田教師は、大町中学端艇部の顧問であった。木崎湖の厚い氷の解け去るを待ちかね葦の芽吹きを間近にみながらヨットを走らせていた。<早春賦>歌詞2番の「氷解け去り葦は角ぐむ」このフレーズは彼の実体験であった。
 周辺図で、歌詞2番を木崎湖と特定すれば、歌詞1番の「鶯の鳴く谷」とは、おのずと新行集落へ通ずる「稲尾沢」の道筋となる。

③ついてーなぜ、秋の11月作詞か

 島田音楽教師は、大正元年11月、年度途中で大町中学を退任している。母校吉丸生徒監の斡旋で、大町に赴任した関係から、事前に上京し、恩師の了解を得る必要があり、それが10月であった。 
 吉丸一昌は9月に「新作唱歌」(第二集)を作詞しているが、10月は作詞一つ、歌材を欲していた。丁度その時期、島田が訪れた。
 島田は、妻との死別・僻地な大町・唱歌が必須でない中学など退任の理由を、そして、春まだ遅い大町地方の情景など、語ったに相違ない。この教え子の語りに、季節に関係なく吉丸の詩想を駆り立てる瞬間があり、ここに<早春賦>*は作詞された。
 吉丸一昌は「新作唱歌」の楽曲の順序について、緒言で「多くは歌材の季節により定め・・・」と記している。
 <早春賦>は春を詠んだ歌、なぜ、「11月2日作」であったのか。この最大の疑問は、島田の存在で明解となる。
 *当初は「待たるゝ春」と題し作詞したが、後に一部手直しをし<早春賦>と改題した。

Ⅱ大町が発祥の地
◎大町実科高等女学校から広まる

 唱歌<早春賦>の発表は、大正2年2月「新作唱歌」(第三集)によってである。
 その翌々月、東京音楽学校を卒業した崎山輝が大町実科高等女学校(大町北高等学校の前身)に教諭として赴任した。
 崎山音楽教師は、恩師の新作になる「高等女学校程度」と記した早春賦楽譜を“大町地方を題材にした歌”として歌唱指導に用いた(当時、音楽の教科書は無かった)。
 <早春賦>は、校舎のあった白塩町から女生徒によって広がり、やがて大正・昭和へと子や孫に歌い継がれる。なお、当時から、“大町の歌”ではないか、と囁かれていた。

◎決定的根拠“大町の歌よ”

 崎山音楽教師の教え子に北沢文恵がいた。文恵は、結婚して角間姓。授かった長女の真知子に、高女時代に音楽の先生から教わった<早春賦>、この歌は“大町の歌よ”、と言って幼い頃から何度ともなく聞かせていた。
 真知子は、このことをよく覚えており、後に松山玉江ら、そして、私、鹿島岳水にも、平成12年の夏、大町温泉郷の喫茶店「樹里」にて直接話された。
 真知子の話とは
① 私の母が
② 大町高女時代
③ 音楽の先生から
④ "大町の歌"と聞かされていた
①「私の母」とは誰か
鹿島岳水は平成22年6月、山田真知子の娘・ゆかりさん(「俵町の山田ピアノ教室」)に、「真知子の母親とは誰か」を尋ね、「北沢文江」或いは「文恵」で、大町高女卒と知り、その足で大町北高等学校を訪れる。
②「大町高女時代」とは
大町北高等学校同窓会会員名簿に下記の記述あり。
(実科:大町実科高等女学校)
実科 第3回 大正4年3月卒 角間文恵
旧姓 北沢
③「音楽の先生」とは
イ、
「東京音楽学校一覧」(同校発行)145頁:卒業生の覧に下記の記述あり。
甲種師範科 大正2年3月卒業
長野県大町実科高等女学校教諭 崎山輝
ロ、
大町北高等学校刊行「七十年のあゆみ」348頁:大町実科高等女学校大正2年卒、桜井春江の手記「開校の頃の思い出」に下記の記述あり。
明治45年実科になってから2階に教室が出来て、新しく東京から広川先生(家事)、崎山先生(音楽)方がお見えになり……。
 大町北高等学校同窓会旧職員名簿には、何故か、広川教師・崎山教師の記載は無い。しかし、崎山輝の大町実科高等女学校音楽教師であったことは、上記の東京音楽学校資料及び桜井春江の手記により明らかである。
ハ、
崎山教師は、大正2年4月大町実科高女に赴任。大正4年2月に千葉県東金高等女学校に転任(現・東金高等学校同窓会名簿に記述あり)しているので、2年間大町実科高女に在任していた。 一方、北沢文恵は、大町実科高女を大正4年に卒業しているので、崎山教師と文恵とは直接2年間、教師と生徒の間柄にあった。
④“大町の歌”とは
崎山輝は、大町実科高女への赴任に当たり、吉丸教授から「<早春賦>は大町地方を題材にした」と聞かされた。でなければ、崎山教師は、生徒に「大町」と言う筈がない。

◎話の信憑性

山田真知子の話は、以上のように検証の結果、事実に相違なく(疑う余地はなく)、大町が<早春賦>発祥の地であることを裏付ける決定的な根拠となり得るものである。

早春賦安曇野発祥説

1、なぜ、「安曇野説」が定着したか

 「早春賦安曇野説」のルーツは、高橋長一著における僅か一行であるが、一般に知られるようになり、通説となったのは、何回かのNHKの放映と、それを受けて歌碑建立に動いた旧穂高町・現安曇野市のプロパガンダが大きく影響したことに間違いない。ほとんどの音楽著作物は、こぞって「早春賦は安曇野」と書いた。「安曇野」なるネーミングも影響していたであろう。
 <早春賦>の実相に迫るとき、「安曇野発祥説」の検証は不可避である。さいわい、官民のプロパガンダがそれを容易にした。
 結局、作詞した吉丸一昌も早春賦誕生も安曇野とは無縁であり、虚構なるメッセージを後の世に伝えることは音楽文化史上看過し得ない、ことであった。
 しかしながら、、唱歌<早春賦>に対する、長年にわたる旧穂高町・現安曇野市そして関連団体による精力的音楽活動は評価に値すべきであろう。

2、鶯の鳴く谷は何処か

 平成4年11月13日、JR穂高駅前広場に建つ「早春賦のふるさと 穂高町」なる看板が目に入った。
 歌詞にある、鶯の鳴く谷は何処か、氷が張り葦が芽吹く場所は? 作詞した吉丸一昌は穂高へ来たのか?
 その足で穂高町役場観光係を訪ねる。担当者は私の質問にシドロモドロ。「歌碑」建碑に関わった西川先生から電話して回答するとのこと。結局その先生からも電話はなかった(翌年、看板は撤去されていた)。

3、ルーツ

 昭和55 年、九州臼杵市では、同市出身の国文学者「吉丸一昌」を顕彰する動きが起こり、公民館前に早春賦歌碑が建立された。その時の記念誌に、元図書館長の高橋長一が「…一昌がこよなく愛した安曇野の風景…この安曇野にくらす農民への理解と美しいこの地の風景を織り交ぜて、作った」と記した。そもそも「安曇野発祥説」のルーツはここに始まる。
 更に、数度に及ぶNHKの名曲アルバム「早春賦」において、「吉丸一昌はたびたび安曇野を訪れた」と断定的表現での放映が「早春賦発祥は安曇野」との誤った認識を醸成させる基因ともなった。

4、建碑の経緯

その後NHKが「名曲アルバム」を企画、歌碑のある臼杵市へ問い合わせた。高橋さんは「臼杵には雪は無いよ。『早春賦』の舞台は安曇野だよ」と返事し、昭和58年の春、NHKテレビで、安曇野を背景にした『早春賦』が流れた。 「穂高の風景が映って、『安曇野はたいしたものだ』と話題になり、町は歌碑を建てようーと動き出した」 (以上、信濃毎日新聞社編集局編「唄のふるさと」の「春こがれる安曇野『早春賦』」より引用)。 この放映が直接的きっかけとなり、西川久寿男が主導し昭和59年春、穂高川右岸の堤防に歌碑が建った。
吉丸一昌の長男昌武氏の「『早春賦発祥地は穂高あたりでしょうかね』が誘い水となって安曇野穂高に<早春賦>の歌碑が建てられ」との記述(吉丸昌昭著「吉丸一昌」)があるが、前掲「信濃毎日新聞社編集局編」の冒頭部分で「僕は戦後、三郷村一市場に疎開し、十年間、歯科医をしていた。それなのに、早春賦の舞台が安曇野だとは、つゆ知らず東京に帰ってしまった」と述べている。 なお、昌武氏の「父の思い出」(平成5年、早春賦音符碑建立記念誌)にも、また、NHK「名曲アルバム」作成のディレクターの談(平成26年8月9日市民タイムス)にも上記の“誘い水となって”の記述はない。
長田暁二著「世界と日本の愛唱歌・抒情歌事典」(ヤマハミュージックメディア出版)における「早春賦」欄に次のような記事がある。
  • 吉丸一昌が、一時居を構えた信州南安曇野…。
  • 吉丸は、夏期講習会講師としてしばしば信州に招かれています。
  • 「早春賦」の歌の発表も長野市が最初に行われたと伝えられ、そのゆかりで、
    ……穂高川堤に歌碑が建立されています。
著名な音楽文化研究家である長田氏の、理解し難い記述である。

5、通説に

 旧穂高町そして安曇野市は自らの媒体を用い、
  • 早春賦の発祥地が安曇野
  • 早春賦作詞者吉丸一昌は安曇野を訪れて作詞した などと、行政主導で、世間に喧伝・流布を続けた。
  • さらに、例年の「早春賦まつり」の開催など
  • また、「安曇野」という語感の良さも加わり…
    結果、世間はそれが真実と信じ、「早春賦安曇野発祥」が通説ともなった。

6、「早春賦まつり」チラシ

 例年4月、穂高で開催される「早春賦まつり」に配布されたチラシ説明文に、
  • 吉丸一昌先生が信濃教育会の夏期講習会に講師として来県した折に歌唱指導用として作詞。
  • 安曇野と吉丸先生とのご縁は、先生が近隣の大町市の高校校歌を作詞され、その披露を兼ねて招かれた時に安曇野に足をのばされたのが始まり。
 との文面があり、「早春賦まつり」を主導する「早春賦愛唱会」代表のN女史と平成20年9月9日、穂高会館にて初めて面会した。
 文面の根拠・事実を尋ねたところ、代表は全く答えられなかった。 事実無根の「作り話」であるから当然である。このチラシはその後配布されていない。

7、安曇野市「早春賦安曇野発祥」は根拠なし、と認める

【長野県観光協会への回答】
長野県公式観光ウエブサイト「早春賦まつり」紹介文に次の記事があった。
早春賦の作詞者吉丸一昌はこの安曇野の水郷の地を訪れた際、春を待つ人々の心情を詩いました
この文面につき、平成23年4月、長野県観光協会は安曇野市に問い合わせしたところ、結局、
「安曇野が早春賦の発祥の地」「吉丸一昌氏が安曇野を訪れて作詞した」を証拠立てる資料は存在しない。
と回答し、この紹介文については至急修正してほしい、とした。

【関係者への周知】
同時に、「証拠立てる資料は存在しない」ことは、安曇野市内の関係者に平成22年2月頃から周知してきている。とした。