唱歌《早春賦》研究:鹿島岳水

要旨

吉丸一昌作、唱歌<早春賦>には、二つの歌詞(厳密には三つ)、二つの曲、そして、二つの題名が存在した。何故か、誕生の謎に迫る。
NHKは、名曲アルバム「早春賦」において、事実確認を怠り「吉丸一昌はたびたび安曇野を訪れた」と断定的表現で放映。「早春賦発祥は安曇野」との誤った認識を醸成させる基因となったこと。
<早春賦>は、長野県安曇野が発祥とされ、通説ともなっているが、まさに虚構であり、作詞した吉丸一昌も早春賦誕生も、安曇野とは全く無縁である。
「早春賦発祥の地」は、長野県大町地方であり、特定できる最大の根拠は  イ、吉丸一昌は、教え子の、当時、大町中学校音楽教師であった島田頴治郎の語る「春遅き大町地方の情景」から詩想を得、作詞したものであること。 ロ、島田の二年後輩、崎山輝が大町実科高等女学校に赴任、「早春賦は大町地方を題材にした歌」と女生徒に歌唱指導したこと。 この二人の先生の存在が他方との決定的な違いである。


Ⅰ《早春賦》誕生の謎

吉丸一昌は
○何故、二つ作詞したか ○何故、二人に作曲させたか ○何故、題名を二つ考えたか <早春賦>誕生の謎に迫る。

§ 事実経過

作詞・作曲・発表の月日は明確であり、時系列に並べると、次のようである。
大正元年11月2日<待たるゝ春>と題し作詞
11月   <早春賦>と題し作詞、作曲を船橋榮吉に 
12月1日<待たるゝ春>;雑誌「音楽」第3巻12号に詩のみ掲載
12月14日船橋曲:<早春賦>を演奏会にて安藤文子が独唱
大正2年1月1日船橋曲:<早春賦>;雑誌「音楽」第4巻1号に楽譜のみ掲載
2月5日中田曲:<早春賦>;「新作唱歌」第三集に掲載。敬文館から発売。

§ 何故、二つ作詞したか

◇<待たるゝ春>の作詞

吉丸一昌は、東京音楽学校教え子の、長野県立大町中学校音楽教師である島田頴治郎の語る"春遅き大町地方の写実的情景"から詩想を得、大正元年11月2日作詞、<待たるゝ春>と題した。
<待たるゝ春>
一、春は名のみの風の寒さや。 谷の鶯、うたは思へど
時にあらずと音も立てず。
二、氷解け去り葦は角ぐむ。 さては時ぞと思ふあやにく
けふも昨日も雪の空。
三、春と聞かねば知らでありしを、 聞けば急かるる胸のおもひを
いかにせよとの此頃か。
 この詩は、吉丸が編集を主宰する、雑誌「音楽」第3巻12号38頁に掲載した。末尾に「新作唱歌第三集より」と注釈がある。
 「新作唱歌第三集」は、翌年2月発行されているが、編集は前年11月段階で固まり、<待たるゝ春>の掲載を決めていたので、このような注釈を付けたであろう。なお、作詞者名はなく、譜面もない。何故、譜面がなかったのか。
 吉丸は、出来上がったこの詩に、なお、推敲の余地ありと考えたので、この段階では作曲者を決めていなかった。 国文学者であり、古歌に精通する吉丸に古今和歌集の数首がよぎったに相違ない。
古今和歌集
巻一:春上 0000五
  梅かえにきゐるうくひすはるかけてなけともいまた雪はふりつつ
 (梅の枝の鶯は 春だといって 鳴いているが いまだに雪は降り続いている)

巻一:春上 0000十四
  うくひすの谷よりいつるこゑなくは春くることをたれかしらまし
 (鶯が谷から出てきて鳴いていなければ 春が来ることを 誰が知っているであろうか)

巻二十:大歌所歌 0一0九四
  いそなつむめさしぬらすなおきにおれ浪
 (こよろぎの磯で いそ菜を摘む 少女を濡らさないでおくれ 波よ沖にいておくれ


◇<早春賦>の作詞

 かくして、古歌を重ね合わせ、5か所に手を加え、大正元年11月のある日、題名を<早春賦>と替え、作詞した。
<早春賦>(譜面に書かれた原文、下線は変更部分)
 1)はるはなのみの かぜのさむさや たにのうぐひす うたはをもへど
      ときにあらずと もたてず
 2)こほりとけさり いそなつのぐむ さてはときぞと をもふあやにく
      きのふもけふも ゆきのそら
 3)はるときかねば しらでありしを きけばせかるる もゆるをもひを
      あ・・・・うめはよそげの つれなしや

§ 何故、二人に作曲させたか

◇舟橋榮吉作曲:<早春賦>

 <早春賦>と題した詩は、作曲を東京音楽学校研究科生で授業補助の船橋榮吉に依頼した。出来上がった曲は、変ホ長調、6/8拍子。この新曲を、12月14日開催、東京音楽学校学友会主催の第3回土曜演奏会第1部最後の番外として本科声楽部学生安藤文子に歌わせた。

◇中田章作曲:<早春賦>

 吉丸は、安藤文子のソプラノ独唱を聞いたとき、この曲は高音部多く、所謂「唱歌」レベルではなく、「新作唱歌」掲載は無理と考えた。
 急きょ、作曲を助教授の中田章に依頼した。中田曲はへ長調、6/8拍子。最高音は1オクターブ上の「ド」で、各連3行をすべてリフレイン(繰り返し)した。
 実はこのとき、中田へ渡した歌詞は、<待たるゝ春>の1連3行の「音」を「聲」に替えたのみの詩であった。そして題名を<早春賦>とした。
 なぜ、吉丸は推敲を重ね船橋に渡した歌詞を、中田に渡さなかったのか、謎が残る。

§ 題名<早春賦>

 当初の<待たるゝ春>より格調高い題名を考え、漢詩で用いられる「賦」を使い<早春賦>とし、船橋曲、中田曲両方に付けた。「賦」とは、「抒情的要素が少なく、事物を羅列的に描写する、比喩など用いないで、感じたことをありのままに詠む詩との意」。

§ 三つの原文

<待たるる春>
雑誌「音楽」第3巻12号
舟橋曲<早春賦>
雑誌「音楽」第4巻1号
中田曲<早春賦>
「新作唱歌」第三集

§ その後の運命

◇<待たるゝ春>

 <待たるゝ春>の題名での楽譜は存在しない。詩文の発表のみで終わっている。

◇舟橋榮吉曲<早春賦>

 声楽家でもある船橋榮吉自身よる<早春賦>独唱記録は見当たらない。安藤文子による独唱が最初で最後の舞台であったのか。
 吉丸一昌作歌・船橋榮吉作曲の<早春賦>楽譜は、その後の大正・昭和に発行された多くの歌集を調べても、見当たらない。
 しかし、雑誌「音楽」第4巻1号の中に付録として掲載された楽譜(漢字交じりの縦の歌詞はない)は現存している。

◇中田章曲<早春賦>

 大正2年2月「新作唱歌」第三集に掲載。敬文館から発売。<早春賦>といえば中田曲である。この中田曲<早春賦>は、やがて、愛唱歌として、大正・昭和へと広く歌い継がれてゆく。

Ⅱ早春賦:発祥はどこ?

 吉丸一昌教授の、研究資料は膨大で、残念ながら、多くは、戦時中の東京空襲で焼失。なんと書蔵は三日三晩燃え続けたという。小箱一杯残った資料(49点)は、長男・昌武によって、臼杵市図書館に寄贈される。なお、その中に早春賦作詞の舞台・経緯などを示すものは見当たらない。
 昭和五十五年以降、マスメディア・関連団体などによる早春賦発祥の諸説?は、その根拠はともかく、以下のようであった。
◎高橋長一:「建碑と共に臼杵に帰った吉丸一昌先生小伝」(昭55年3月)
「……一昌は、この安曇野にくらす農民への理解と美しいこの地の風景とを織り交ぜて、作った」
◎NHK「名曲アルバム」ー早春賦ー (昭和55年3月)
「早春賦は信州の夏期講習会の教材として作詞作曲されたといわれる」
◎東京新聞(中日新聞)サンデー版:「名曲のふるさと大町」 (昭和57年4月4日)
「吉丸一昌が長野県大町中学校の校歌を依頼されたとき、長野市から山越えして大町に入り、北安曇の風景と人情にふれて早春賦の詩想が生まれたという」
◎毎日新聞学芸部:「歌をたずねて」 (昭和58年10月) ◎喜早哲著:「唱歌―その故郷と歌声」 (平成3年7月) ◎信濃毎日新聞社編集局編:「唄のふるさと」(平成5年3月10日)
春こがれる安曇野『早春賦』
  • 「早春賦の舞台が安曇野だ、とは露知らず……と吉丸昌武さん」
  • 「早春賦の舞台が安曇野―とはっきりしたのは、オペラ歌手で大分大学名誉教授の小長久子さんが吉丸一昌に関心を寄せたからだ」
  • 「大町中学校歌作詞を縁に安曇野を訪れ、遅い春を待ちわびる気持ちをつづったーというのが定説になりつつある」
  • 「吉田稔さんは『舞台は穂高というより大町だと思う、穂高に限定しない方がよい…』」
◎「広報おおまち」:(平成11年2月1日/12年8月15日)
  • 「吉丸一昌さんは、東京音楽学校の教授時代、夏期講習の講師として、しばしば安曇野を訪れたことがあるようです。また、明治44年には、大町中学校創立十周年記念として校歌の作詞を頼まれ、雪解けの当地を訪れています。長野から山越えし、大町へ入ったのでしょう」
  • 詩の中で1番の『谷のうぐいす』」は、高瀬渓谷か鹿島谷、篭川谷でしょうか。2番の『氷解け去り葦は角ぐむ』は木崎湖の情景にぴったりです。『今日も昨日も雪の空』は、やはり大町以北の天候を指しています。これらのことから『早春賦』は大町付近を題材にしているともいえるでしょう」
◎読売新聞文化部:「唱歌・童謡ものがたり」 (平成11年8月)
「……08年に臼杵市公民館前に早春賦歌碑が建った。このころ、『歌の舞台は安曇野』説が定着…」
◎市川健夫監修:「信州 ふるさとの歌大集成」 (平成20年2月)
  • 「現在も多くの人に愛唱されている名曲である『早春賦』の舞台は安曇野」
  • 「作詞者の吉丸一昌は……、大町中学校校歌作成を依頼されました。その詞を作るためこの年の早春、長野市から信州新町、美麻村を抜け大町に入った。途中まむし坂から見た残雪の北アルプスの光景は『春は名のみの風の寒さや』であり、『谷の鶯 歌は思えど』の歌詞そのものだったことであろう」
◎「市長のひとこと(つれづれ日記):|早春賦に寄せて―(平成20年3月)」
「春は名のみの風の寒さや、で始まるこの名曲の歌詞は、歌の発祥地、大町の早春の情景そのままです」
◎その他音楽著作物
  • 東京堂出版:「日本童謡事典」
  • 河出書房新社:「童謡・唱歌の故郷を歩く」
  • 西東社:「こころの名歌集」
  • 新星出版社:「童謡・唱歌みんなのうた」
  • 主婦の友社:「日本百名歌」
  • 成美堂出版:「懐かしい歌想いでの歌」
  • ユーキャン:「懐かしき思い出の歌」
  • ほおずき書籍:「信州ゆかりの日本の名歌を訪ねて」
  • 北辰堂出版:「にっぽんの名曲を旅する」
 以上の著作物はすべてー早春賦は安曇野―との記述である。
 なお、各出版社に、記述内容の出典・根拠を問い合わせたところ、「安曇野市資料」「他の音楽著作物」など。また、「不明を恥じる」との回答も寄せられた。
◎安曇野市:ホームページ
「大正初期安曇野を訪れた作詞家吉丸一昌が、川沿いを歩きながらつくったと言われている早春賦」
◎「信州・安曇野」:安曇野市パンフレット
「唱歌早春賦は大分出身の作詞家吉丸一昌が、春を待つ安曇野を詠ったもの」
◎「安曇野」:安曇野市観光協会パンフレット
「吉丸一昌氏は明治後期から大正初期に安曇野を訪れてその雪解け風景に感銘を受け、詩を書き 上げたといわれています」
◎「早春賦まつり」:早春賦まつり実行委員会ーチラシー 「……安曇野と吉丸先生とのご縁は、先生が近隣の大町市の高校校歌を作詞され、その披露を兼ねて招かれた時に安曇野に足をのばされたのが始まり……」
◎「早春賦切手発行記念」:CD制作委員会―チラシー
「吉丸一昌先生は大町中学(現・大町高校)創立十周年の記念として、校歌の作成をすべく大町を訪れました。その途中で早春の安曇野を体験し、綴ったのが早春賦」
◎「早春賦まつり」:長野県公式観光ウエブサイトーチラシー
「早春賦の作詞者吉丸一昌はこの安曇野の水郷の地を訪れた際、春を待つ人々の心情を詩いました」
◎丸山高義(穂高町長)の手記
「我が安曇野は『早春賦のふるさと』」として全国に知られ……吉丸先生宅で長く家政婦をされていた山本はなさんは『温泉旅行の帰りに安曇野を通り、その感じを思い出しながら作詞されました』―このお話は、早春賦の舞台が安曇野だという定説を裏付けるものとなると思います」
◎「西川久寿男メモ」
「一昌先生が安曇野に魅せられたことは疑う余地がない。明治45年3月北信の温泉旅行の帰り明科駅下車、"温泉旅行の帰り安曇野を通り、その感じを思いだしながら作詞"(昭和59年4月、山本はなさん談、この時、はなさん93歳)」
◎安曇野市当局の主張:ー情報公開においてー

Ⅲ NHKの放映

1字幕スーパー
 昭和50年代、NHKが数回放映した「名曲アルバム早春賦」には、下の写真のような次の字幕スーパーが流れた。
  • 「早春賦」は信州の夏期講習会の教材として作詞作曲されたといわれる。
  • 作詞の吉丸一昌は信州の自然を愛したびたび安曇野を訪れた。

2 出典・根拠を問う
 私はNHKに対し、その出典・根拠を尋ねたところ、当時の担当ディレクターが「取材先で得た情報や証言を元に字幕スーパーを作成した」との回答であった。
3 中央放送番組審査会長へ
 この程度の回答では納得できないので、日本放送協会中央放送番組審査会長宛書状を送った。
 審査はされず、回答は、「大学関係者や吉丸一昌氏のご家族など複数の方に直接お会いしてお話を伺ったので、字幕スーパーに根拠はないとのご指摘はあたらない」との返事を頂いた。
4 検証を要請
 再再度、NHKに対し、字幕スーパーは「事実に基づくものではない」ことを立証する資料として、
  • 夏期講習会については、「信濃教育会50年史」。
  • 安曇野来訪否定については、多くの文献。
を添えて提出、「改めて検証して頂きたい」とお願いをしたが、前回と同様の回答で終わった。
5 根拠なき放映
 NHKは、ディレクター取材のまま、裏付けも取らず、真偽確認もせず、「吉丸一昌はたびたび安曇野を訪れた」と、具体的根拠を示せない内容を、断定的表現で放映した。
 なお、何故か、<早春賦>映像は、27年2月から視聴出来なくなった。荒城の月・故郷・花などは従前同様公開ライブラリーで現在も視聴できている。
6 放映が無かったなら:NHKの罪
 もし、この「名曲アルバム」の放映が無かったなら、穂高町の歌碑建立はなく、間違った通説も生まれなかった。その後の早春賦関連イベントの開催もなかった、であろう。NHKの罪は重いと言わざるを得ない。
 「早春賦愛唱会」代表は「安曇野が『早春賦の里』と全国的に知れわたった大きな理由はNHK名曲アルバムにありました」と、いみじくも記している。
7 認めず、公表せず
 「放送倫理基本綱領」には、「万一、誤った表現があった場合、過ちをあらためることを恐れてはならない」との一条がある。
 日本放送協会は、「事実に基づかない放送」をしたこと、及びその社会的影響として、広く世間に「早春賦発祥は安曇野」との誤った認識を醸成させる基因となったこと、を率直にお認めになり、世間に向け、その事実を公表することが、放送事業者たる日本放送協会の責務と考える。
8 BPO
 本件につき、放送倫理・番組向上機構(BPO)に相談するも、結局取り上げては頂けなかった。理由は分からないが、「早春賦」のことなぞ社会的には、些細なことと、判断したのであろうか。

Ⅱ検証:安曇野発祥説

 <早春賦>の実相に迫るとき、「安曇野発祥説」の検証は不可避である。さいわい、官民のプロパガンダがそれを容易にした。結局、作詞した吉丸一昌も早春賦誕生も安曇野とは無縁であり、虚構なるメッセージを後の世に伝えることは音楽文化史上看過し得ない、ことであった。

§ ルーツ

 昭和55 年、九州臼杵市では、同市出身の国文学者「吉丸一昌」を顕彰する動きが起こり、公民館前に早春賦歌碑が建立された。その時の記念誌に、元図書館長の高橋長一が「……一昌は、この安曇野にくらす農民への理解と美しいこの地の風景とを織り交ぜて、作った。詩も高い格調をもっており曲もそれによくマッチしたもので……」と記した。そもそも「安曇野発祥説」のルーツはここに始まる。

§ 建碑の経緯

 {……その後NHKが「名曲アルバム」を企画、歌碑のある臼杵市へ問い合わせた。高橋長一は「臼杵には雪は無いよ。早春賦の舞台は安曇野だよ」と返事した。昭和58年の春、NHKテレビで、安曇野を背景にした<早春賦>が流れた。
 穂高の風景が映って、「安曇野はたいしたものだ」と話題になり、町は歌碑を建てようーと動き出した??}(以上、信濃毎日新聞社発行「唄のふるさとー春こがれる安曇野<早春賦>より引用)。 この放映が直接的きっかけとなり、西川久寿男が主導し昭和59年春、穂高川右岸の堤防に歌碑が建った。

§ 通説に

それ以来、旧穂高町そして安曇野市は自らの媒体を用い、
・ 早春賦の発祥地が安曇野。
・ 早春賦作詞者吉丸一昌は安曇野を訪れて作詞した。
などと、行政主導で、世間に喧伝・流布を続けた。
さらに、例年の「早春賦まつり」の開催など。
結果、世間はそれが真実と信じ、「早春賦安曇野発祥」が通説ともなった。

§ 吉丸一昌は安曇野に来たか?

 <早春賦>作詞者、吉丸一昌が安曇野を訪れたか否か、は最大関心事である。
 吉丸研究の第一人者吉田稔の著書・臼杵市図書館蔵書・東京芸術大学音楽部図書館蔵書(当時の東京音楽学校楽友会雑誌ほか)・大町高校80年史(吉丸一昌作詞の校歌披露式典記事、年表)など関連する文献精査によっても、大町、ましてや安曇野来訪の記述はない。

§ 「早春賦まつり」チラシ

 例年4月、穂高で開催される「早春賦まつり」に配布されたチラシ説明文に、
  • 吉丸一昌先生が信濃教育会の夏期講習会に講師として来県した折に歌唱指導用として作詞。
  • 安曇野と吉丸先生とのご縁は、先生が近隣の大町市の高校校歌を作詞され、その披露を兼ねて招かれた時に安曇野に足をのばされたのが始まり。
との文面があり、「早春賦まつり」を主導する「早春賦愛唱会」代表に平成20年9月9日穂高会館にて初めて面会、文面の根拠・事実を尋ねたところ、代表は全く答えられなかった(作り話であるから当然である)このチラシはその後配布されていない。

§ 安曇野市「早春賦安曇野発祥」は根拠なし、と認める

◇情報公開
平成20年11月12日、安曇野市は情報公開請求の中で、「早春賦が安曇野発祥である根拠」について、「証拠となる文書は存在しない」と、私に回答した。
◇長野県公式観光ウエブサイト「早春賦まつり」紹介文に、
早春賦の作詞者吉丸一昌はこの安曇野の水郷の地を訪れた際、春を待つ人々の心情を詩いました
との、断定的文面が記載されていた。
○長野県観光協会への回答
この文面につき、平成23年4月、長野県観光協会は安曇野市に問い合わせたところ、「安曇野が早春賦の発祥の地」「吉丸一昌氏が安曇野を訪れて作詞した」を証拠立てる資料は存在しない。と回答し、この紹介文については至急修正してほしい、とした。
○関係者への周知
同時に、「証拠立てる資料は存在しない」ことは、安曇野市内の関係者に平成22年2月頃から周知してきている。とした。なお、このことを世間一般に公表すべき、と安曇野市長にお願いしたが、実現はしていない。
§ 西川久寿男
 穂高に建碑を主導した、元教師西川久寿男は、後年「歌碑は町役場の協力で穂高町に建てられたが、穂高町が作詞の舞台だったというはっきりした根拠はない」と語っている(小島正美著「大町高校ものがたり」より)。

Ⅳ 唱歌《早春賦》:舞台は大町地方
   要旨

 唱歌『早春賦』の舞台、発祥の地は、「長野県大町地方」であり、その根拠は次の3点である。
  1. 山田真知子の証言:「私の母が、大町高女時代、音楽の先生(崎山輝)から“大町の歌”」と聞かされていたこと。
  2. 鹿島岳水による、数多い状況資料の考証(推論を交えるも)によって、
    1. 吉丸一昌(東京音楽学校教授)が、大正元年秋、教え子の、当時、長野県立大町中学校音楽教師であった島田頴治郎の語る「春遅き大町地方の情景」を基に作詞したものであること。
    2. 歌詞にある“谷の鶯”は稲尾沢、“氷解け去り葦は角ぐむ”の舞台は木崎湖、“雪の空”は大町地方と、それぞれ特定されること。
§ <早春賦>に、三つの疑問
①寒き地方に住んだ体験のない吉丸に、なぜ、あのような作詞が出来たのか。
②歌詞2番の“葦”と、船橋榮吉曲にある“いそな”の意味するものは?
③早春の歌が、なぜ、秋の11月2日の作詞か?
①ついて:島田頴治郎の存在
 恐らく、<早春賦>の詩想・歌詞は、体験したものでなければ浮かばない。吉丸は九州育ちで東京暮らし。早春の時期、歌詞にあるような地方に旅行した記録も見当たらない。
 教え子の島田は、明治44年と翌年の2回、早春の時期を大町で過ごし「春遅き大町地方」を実体験している。<早春賦>作詞の背景に、島田の存在があった。
 ちなみに、大町中学校歌(吉丸一昌作詞・島崎赤太郎教授作曲;明治44年6月披露)は、時の鈴木校長の命を受けた島田音楽教師が、母校恩師に作成依頼、この時、吉丸教授は大町に来ることはなく、島田の語る大町地方の地勢・気候、そして大町中学の校風などを参考に作詞された。
②ついて:木崎湖・稲尾沢の特定
 吉丸一昌は同時期、二つの<早春賦>を作詞した。中田章曲の、歌詞2番にある"葦"は、もう一つの<早春賦>船橋榮吉曲では"いそな"である。いそな(磯菜)"とは海・湖などの波打ち際に自生する食用植物の総称である。
 二つの<早春賦>歌詞を重ね合わせると、歌詞2番の舞台が見えてくる。
すなわち、
  1. “氷”が張る“湖”であること
  2. “葦”が生えること
  3. “食用植物”が自生すること

 この三つの条件に合致する「みずうみ」とは何処か。 当時、大町から東京へは、大町→新行集落→高府→長野駅→上野駅が主であった。大町から新行集落への道筋は二通りあり、三日町経由と木崎湖経由である。木崎湖は山紫水明・風光明媚、当然に木崎湖廻りであった。
 周辺図で、歌詞2番を木崎湖と特定すれば、歌詞1番の"鶯の鳴く谷"とは、おのずと新行集落へ通ずる「稲尾沢」の道筋となる。
 島田音楽教師は、大町中学校歌作成打ち合わせのため、4・5月に数度上京、経路の木崎湖畔では、葦の芽吹きを、稲尾沢の森林道では鶯の美声を聞いていた。この1年6か月後に<早春賦>は作詞される。
 <早春賦>歌詞2番の"氷解け去り葦は角ぐむ"このフレーズは彼の実体験である。島田は、大町中学端艇部の顧問であった。厚い氷の解け去るを待ちかね葦の芽吹きを間近にみながらヨットを走らせていたであろう。愛妻を亡くした悲しみを癒す木崎湖でもあった。

③ついて:何故、秋の11月作詞か
 島田音楽教師は、大正元年11月、年度途中で大町中学を退任している。母校吉丸生徒監の斡旋で、大町に赴任した関係から、事前に上京し、恩師の了解を得る必要があり、それが10月であった。 
 吉丸一昌は9月に「新作唱歌」(第二集)を作詞しているが、10月は作詞一つ、歌材を欲していた。丁度その時期、島田が訪れた。
 島田は、妻との死別・僻地な大町・唱歌が必須でない中学など退任の理由を、そして、春まだ遅い大町地方の情景など、語ったに相違ない。この教え子の語りに、季節に関係なく吉丸の詩想を駆り立てる瞬間があり、ここに<早春賦>は作詞された。
 吉丸一昌は「新作唱歌」の楽曲の順序について、緒言で「多くは歌材の季節により定め・・・」と記している。 <早春賦>は春を詠んだ歌、なぜ、「11月2日作」であったのか。この疑問は、島田の存在で明解となる。

§ 歌の広がり:白塩町~大町実科高等女学校

 唱歌<早春賦>の発表は、大正2年2月「新作唱歌」(第三集)によってである。
 その翌々月、東京音楽学校を卒業した崎山輝が大町実科高等女学校(大町北高等学校の前身)に教諭として赴任した。
 崎山音楽教師は、恩師の新作になる「高等女学校程度」と記す早春賦楽譜を"大町地方を題材にした歌"として歌唱指導に用いた(当時、音楽の教科書は無かった)。
 <早春賦>は、校舎のあった白塩町から広がり、やがて女生徒によって大正・昭和へと子や孫に歌い継がれる。なお、当時から、"大町の歌"ではないか、と囁かれていた。

§ 決定的根拠:“大町の歌よ”

 崎山音楽教師の教え子に北沢文恵がいた。
 文恵は、結婚して角間姓。授かった長女の真知子に、高女時代に崎山先生から教わった<早春賦>、この歌は"大町の歌よ"、と言って幼い頃から何度ともなく聞かせていた。
 真知子は、このことをよく覚えており、後に松山玉江ら、そして、私、鹿島岳水にも、平成12年の夏、大町温泉郷の喫茶店「樹里」にて直接話された。

◇真知子の話とは
①私の母が②大町高女時代③音楽の先生から
④"大町の歌"と聞かされていた。

①「私の母」とは誰か
 鹿島岳水は平成22年6月、山田真知子の娘・ゆかりさん(「俵町の山田ピアノ教室」)に、「真知子の母親とは誰か」を尋ね、北沢文江或いは文恵で、大町高女卒と知り、その足で北高を訪れる。
②「大町高女時代」とは
大町北高等学校同窓会会員名簿に
実科 第三回 大正四年三月卒 角間文恵 旧姓 北沢
との記述あり(実科:大町実科高等女学校)。
③「音楽の先生」とは
  1. 「東京音楽学校一覧」(同校発行)145頁:卒業生の覧に下記記述あり。
    甲種師範科 大正二年三月卒業
    長野県大町実科高等女学校教諭 崎山輝
  2. 大町北高等学校刊行「七十年のあゆみ」348頁:大町実科高等女学校
     大正2年卒、桜井春江の手記「開校の頃の思い出」に
    明治四十五年実科になってから二階に教室が出来て、新しく東京から広川先生(家事)、崎山先生(音楽)方がお見えになり・・・。
    との記述あり。
     大町北高等学校同窓会旧職員名簿には、何故か、広川教師・崎山教師の記載は無い。しかし、崎山輝の大町実科高等女学校音楽教師であったことは、上記の東京音楽学校資料及び桜井春江の手記により明らかである
  3. 崎山教師は、大正2年4月大町実科高女に赴任。大正4年4月に千葉県東金高等女学校に転任しているので、2年間大町実科高女に在任していた。
     一方、北沢文恵は、大町実科高女を大正4年に卒業しているので、崎山教師と文恵とは直接教師と生徒の間柄にあった。

④「“大町の歌”」とは
 崎山輝は、大町実科高女への赴任に当たり、吉丸教授から「<早春賦>は大町地方を題材にした」と聞かされた。でなければ、崎山教師は、生徒に「大町」と言う筈がない。

話の信憑性
 山田真知子の話は、以上のように検証の結果、事実に相違なく(疑う余地はなく)、大町が<早春賦>発祥の地であることを裏付ける、決定的な根拠となり得るものである。

付 早春賦歌碑:全国8か所 


追記:龍光寺にて

 平成30年、弥生の3月7日は、吉丸一昌百三回忌、祥月命日である。墓前にて拙著「唱歌『早春賦に魅せられて~半生のドキュメンタリ~』」の上梓を報告。近くの寿司屋で猪口二つ貰い、乾杯。


鹿島岳水:歌碑研究家:大町市出身
鹿島岳水:歌碑研究家:大町市出身
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