NOVEL Darkness 2-1(First)

ソクトア黒の章2巻の1(前半)


・プロローグ
 かつて、美しい大地を誇っていたソクトア大陸。
 神々の祝福に恵まれ、人は神を敬っていた。そして地の底から、魔族が襲ってき
た時にも、神々の力のおかげで、守られた時もあった。
 だが、織り成す人々にとって、忘れられないのは1000年前の伝記である。事実を
物語った伝記は、未だに、人々の心を惹き付けて止まない。
 当時の運命神ミシェーダを中心に、神の世界をソクトアに降臨させようとした、
『法道』。魔族を中心に、力の理をソクトアに反映させようとした『覇道』。新た
な世界を作る事を前提に、ソクトアを消し去ろうとした『無道』。そして、共存と
言う名の下に、全ての種族と共にありたいと願った人の歩むべき道『人道』。
 それぞれの思惑がぶつかって、最終的に勝利したのは、『人道』だった。それは、
共存と言う夢を、最後まで諦めなかった人間こそが勝利したと言う劇的な話。それ
は、事実であった。
 だが、1000年の時を経て、人間は、その精神を忘れ去ってしまったようだ。伝記
は、飽くまで作り話だと言う説が有力となり、このソクトアは、人間の所有物であ
るかのように勘違いしてしまったようだ。確かに、もう人間以外は、暮らしている
とは言えない。しかし隠れつつも住んでいるのだ。それは、いつか人間と和解出来
るかも知れないと言う期待からかも知れない。・・・だが、大半は、人間の愚かさ
に失望して、関わらないように生きて行きたいと言う思いの表れからだった。
 『人道』を思い描いて勝利に導いた、伝記の『勇士』ジーク=ユード=ルクトリ
アが、この現状を見たら、さぞ嘆き悲しむ事だろう。
 その最もたる所以が、セントメトロポリス(通称セント)の建造だろう。ソクト
ア大陸の中心にあり、かつて、中央大陸と呼ばれた広大な土地に出来上がった、近
代化学発祥の地。それが、セントだった。文明は頂点を極め、他の国から、セント
へと、物が流れ込む。正に化学が、このソクトアを支配した表れであった。
 他のソクトア大陸の国、ルクトリア、プサグル、デルルツィア、サマハドール、
ストリウス、パーズ、クワドゥラート。その7つの国は、全てセントの言いなりで
あった。逆らえないのである。逆らったら、一生懸けても出られないと言われてい
る、恐ろしい島『絶望の島』と言う、監獄島へと送られる運命にあった。しかも、
セント反逆罪などと言う罪名が、流布している。何とも悲しい事実だった。
 ソクトア大陸は、今や化学の元である『電力』が無ければ、まともに生活出来な
い。便利な物が増え過ぎたせいである。電話、自動車、電球、果ては、農作物を作
る農具でさえ、電力が必要なのである。しかし、電力は、自然に出来る訳では無い。
大規模な火力を利用した火力発電、豊かな水源を利用した水力発電、降り注ぐ太陽
を利用した太陽発電、そして、電力工場と呼ばれる所で、ひたすら働いて巨大な滑
車を回して発電する、人力発電の4つが主流だった。
 火力発電と水力発電、そして太陽発電については、管理者が、十数人付いていれ
ば、やって行ける程だった。主に自然の力を利用していたからである。だが、人力
発電は、別である。この工場で働く人々は、数千から数万に渡ると言われる。しか
も、単純作業なので、賃金も高くは無い。要するに、発電のためだけに雇われた人
々である。しかも思った以上に、成績を上げられなかった場合は、最悪『絶望の島』
行きである。人々は、ただ電力を生み出すために生きていく。そんな、地獄のよう
な状態の所が、ソクトア大陸全土に広がっていたのだ。
 人々は皮肉を込めて、『黒の時代』などと、呼んでいる有様である。
 しかも驚くべき事に、電力の供給は、セントに向かって伸びていくのだ。そう言
うシステムを、既に構築してしまったのだ。これでは、他の国は、その恩恵を受け
られない。電力が無い国とまでは行かない。だが、セントに比べると、その差は歴
然である。
 その屈辱に耐え兼ねて、クーデターを起こした人物が居た。その中心人物は、ジ
ークの末裔リーク=ユード=ルクトリアである。だが、彼は失敗した。多くの人々
を連れて、セントまで迫ったが、セントの圧倒的な兵器の前に、敗れ去ったのであ
る。この世で究極とさえ言われていた、全てを消し去る力『無』の力を使っても、
勝てなかったのだ。正確に言うと、セントを覆う、ソーラードームと呼ばれるバリ
アが、『無』の力までも、防いでしまったのだ。そのせいで、大量の死者を出した
リークは、見せしめに首を刎ねられて、全ソクトアに、その顔を晒されたと言う。
 この事件以後、人々は、セントに逆らう気力を失くしてしまった。いや、例え小
規模な、いざこざであっても『絶望の島』に入れられてしまったので、不満の声す
ら、封じられてしまったのである。恐怖政治の、始まりでもあった。
 そんな中で、唯一つの国家だけ、その難を逃れた国があった。それは、島国の国
家であるガリウロルである。ソクトア大陸の、6分の1程度しかないガリウロル島
だが、セントの支配を逃れているため、その自由度は、とてつもない物があった。
更には、ここ数十年で、セントの良い所だけ取り入れようと、少しずつ、貿易を開
始したので、化学の素晴らしい所だけを、真似ている傾向にある。更に、この国が
幸運だったのは、豊かな自然であった。この国は、日照時間が多く、豊かな水源、
自然があるため、人力発電など無くても、電力が賄える程であった。
 よって、セント以外で、一番栄えてる国は、他でも無いガリウロルだった。セン
トは、さすがに警戒を強めているが、まずは、圧力で貿易を開始させただけでも、
由としたのか、それ以上の追求は無かった。数十年前までは、それすら断ってきた
国である。余程、独自の文化が強いのであろう。
 それ程、独自色の強い国だと、国の中でも、全く特色が違う地域と言う物が出て
くる。
 ガリウロルの首都アズマ。ここは、ソクトア大陸に最も近い所で、かつての筆頭
豪族の榊が、治めてきた地域である。アズマの中で、更に4つの市があり、それぞ
れ市長が治めているくらいだから、相当な規模の、都市である事は、間違いない。
だが、ガリウロルの独自色を守るという題目で、栄えさせてきただけあって、封建
的な雰囲気があるのは否めない。この頃、それが無くなってきたとは言え、大陸人。
つまり、外国人を受け入れるなんて、最も度し難い事なのだ。とは言え、一時代を
担ってきたアズマは、人々が、最も多く住んでいる。
 そして、ガリウロルの西の都サキョウ。ガリウロル島は、『く』の字の形をして
いる。その折り返しの真ん中の部分に当たるのが、サキョウである。ここは、非常
に自由度が高い地域である。化学の便利性を、逸早く見抜き、独自に貿易を開始さ
せたのも、この地域が最初だ。先見性がある地域で、人々も、大らかな人が多い。
ここには、外国人が住める地域を独自に設けており、それ以外の地域も、希望さえ
あれば、用意する事もあると言う。ただし、ここの地区は、3つの市に分かれてい
て、その3つは、余り仲が良く無いらしい。スポーツなどでも、完全に別扱いだし、
税金の形態まで違うと言う。サキョウの都長は、3つの市長に、共に手を携えるよ
うに呼びかけているのだが、いずれも、応じようとしないらしい。
 そしてガリウロルの北の都テンマ。『く』の字の頂点に位置する都市である。こ
の地区は、昔ながらのガリウロルが、まだ根付いていると言われて、アズマやサキ
ョウの人々から『田舎』などと、呼ばれているが、テンマでの農産物があるからこ
そ、この国は保っているようなのである。この国での農業の70%は、この地域で
あり、驚く事に、3つの都市の中で、一番広く面積があるのも、この地域なのであ
る。決して馬鹿になど出来ない。最も、化学の伝達は、一番遅い地域ではある。だ
が、それは自然に対して、目を向けている事への表れであり、その精神を、忘れて
はならないと言うのが、この地域での暗黙の了解でもあった。最も、自然が残って
いるのも、この地域である。
 他の国で、ここまで特色が分かれている国家は、まず無いだろう。それに、この
ガリウロルが特徴的なのが、気候である。ガリウロルは南半球の国なので、通常は、
南に行く程寒く、北に行く程、暖かい筈なのだが、この国には年中、寒流と暖流が
あべこべに走っているせいで、北に行く程寒く、南に行く程、暖かいのだ。それは、
大火山帯と呼ばれる暖流を発している地域が、南にどっしり構えているせいだと言
われている。そのせいか、嵐などは、結構多い国でもある。だが、その嵐のせいで、
セントの人間は、この国には近寄り難いのだから、恩恵を受けていると言えば、そ
れまでである。
 さて、時は2041年9月。9月が新学期の、この国では、春が始まりそうな、この
時期に変化を予感させる出来事が起きる。
 とは言っても、ガリウロルの人々は、この変化に気付く者は居なかったであろう。
 場所は、サキョウ北市の外れ、あるお屋敷での、出来事。
 いつでも始まりと言うのは、唐突にやってくる物だと思い知らされる事になる。











 1、継承
 始まりは、唐突であった。
 一枚の手紙が、送られてきた。
 丁寧な封筒に入れられた手紙の封を開ける。
 そこには、丁寧な字で書かれていた。
『急報』・・・。
 嫌な予感は、していた。
 まず送り先が、見知った場所であるからだ。
 生半可な事じゃ帰らないと、決めていたのに・・・。
 こう言う時に限って、物凄い事が起きる物である。
 人生とは、上手く行かない物だと思う。
 だが、放って置いた責任もある。
 帰らなくては、ならない。
 でも、思えば、もう良い時期かも知れない。
 何せ修行と言える修行は、既に済ませた。
 師匠のようになりたいと思う。
 正しくありたいと願うのに、どうにも上手く行かない。
 でも、投げ出して堪る物かと思う。
 そのための修行であったし、師匠も、これ程に無く、正しいと思う人物だった。
 ならば、成果を試す時かも知れない。
 それに・・・そろそろ、学業もやらなくては、どやされてしまう。
 まったく、難儀な事ばかりだな。
 そう愚痴を言ってる暇も無いか。
 静まり返った道場に、師匠と俺は座っていた。まぁ師匠と言うより、俺の爺さん
なんだが・・・。これまた、尊敬できる師匠なんだから、他に言いようが無い。
「本当に、帰るのだな?」
 爺さんは、ギラリと光る眼差しで、俺を見つめてくる。ちょっと怖い・・・。
「二言は、ありません。修行は続けますが、帰らねばなりません。」
 俺は、正座しながら礼をする。俺は、爺さんに例の手紙を見せている。
「まぁ、アレが倒れたとあれば、仕方無い。だが、このまま返すのも忍びないな。」
 爺さんは、溜め息を吐くと、奥から巻物を持ってきた。
「受け取れい。今日からお前の物だ。」
 爺さんは、巻物を俺に手渡す。そこには『皆伝の証』と書いてあった。
「お、俺はまだ・・・。」
「黙らっしゃい!!・・・正直に話そう。お前の実力は、既に、わしを超えている。」
 爺さんは、とんでもない事を言う。本当なのだろうか?
「真実(まこと)ですか?」
 俺は、未だに、この人を全部超えたと思っていない。爺さんの師匠としての実力
は、群を抜いている。俺は、本当に追いつけたのだろうか?
「嘘など吐かぬ。お前に足りぬのは、自信だけだ。若さ故かも知れんがな。」
 爺さんは、揺るぎ無い目で、俺を射抜く。間違いない様だ。そんなに、俺は強く
なったのか・・・。自覚と言うのは、本当に無い物だ。
「ここまで、付いて来れたのは、運だけではあるまい?ならば間違いは無い。」
 爺さん・・・。そうか。ならば、ちょっとは自信を持って、これを受け取らなき
ゃならないな。俺の代で終わりなんて事に、してはいけない。それだけの伝統があ
るからだ。何せ、歴史が違うからな。
「行け。お前は今日から天神(あまがみ)流空手の継承者、天神 瞬(しゅん)だ!」
 俺は『皆伝の証』を握り締めた。爺さんの言葉は、何よりも重かった。
 俺の名前は、天神 瞬。天神流空手と呼ばれる、一子相伝の空手の・・・たった
今、継承者になった。今度出る大会では、爺さんが腕試しに出ろと言われるまま、
爺さんが勝手に『継承者』なんて書いて出場させる物だから、何かと思った。緊張
して仕方が無かったが、あれは、冗談では無かったのか。
 だが出るからには、優勝を目指してやるのが筋って物だろう。
「爺さん。世話になりました。ここでの修行は、忘れません。」
 俺は、そう言って頭を下げる。まぁ実際、結構楽しかったしな。ちなみに爺さん
の名前は、天神 真(しん)だ。全く厳しいお人だ。
「忘れたら、思い出させに、そっちに行くから安心しろ。」
 うげ・・・。言うんじゃなかった・・・。その辺は、爺さんらしいわ。
「・・・じゃぁ、行きます。さすがに、行かないと息子として名乗れないので。」
「そうしろ。わしは、喜代(きよ)と共に、ここで過ごす。」
 婆様は、去年他界したばかりだ。天神 喜代婆様は、甘い事で親戚では有名だっ
た。厳しい爺さんとは、釣り合いが取れてたのかも知れない。
「厳導(げんどう)には、何も無いと伝えておけ。その方が、奴は喜ぶ。」
 爺さんは皮肉を言う。と言うのも、俺の父の天神 厳導は、ここ何代かで、企業
として成功した方の『天神家』を受け継ぐ企業家で、『天神流空手』を継ぐ気は、
無かったのだと言う。そのせいで、爺さんからは嫌われているのだ。それに向こう
も嫌っているらしく、勘当状態なのだとか・・・。
「相変わらずと、伝えて置きますよ。・・・って爺さん?どうかしたのか?」
 俺は爺さんの容態が、変なのに気が付いた。胸を押さえている。そんな筈は無い。
爺さんは、病気とは無縁だった筈だ。
「な、何でも無い!はよ行け!」
 爺さんは、厳しい目で俺を追い立てようとする。・・・まさか!結構、昔から病
気に罹っていたのだろうか?俺には見せないように、していたのか?
「ふざけんなよ!爺さんを置いて・・・師匠を置いて、逃げる弟子は居ねぇ!」
 俺は、少しパニックになったが、落ち着く事にした。これも『心の修行』だ。落
ち着かなきゃ駄目だ。
「電話だ。すぐ電話する!」
 俺は、電話の所へ向かう。救急車を呼べば、間に合うかも知れない。
「・・・間に合わぬ・・・。こちらに来い!」
 爺さんは、喀血しながら、俺を呼ぶ。・・・どうする?爺さんに従った方が良い
のか?どちらとも、爺さんを見捨てる選択にもなり兼ねない。
「これだ!!」
 俺は、電話に救急番号だけ打ち込んで、爺さんの元へと駆けつける。
「・・・不治の病だ。治らぬよ・・・。」
「な!?何で、黙ってたんですか!」
 俺は、驚きで膝がガクガク震えてきた。そんな・・・今まで、我慢していたとで
も言うのだろうか?爺さんは、馬鹿だ!!
「お前が・・・継いでくれるのを・・・この目で、見たかったんだ・・・。」
「そんなの治ってからで・・・。」
「馬鹿者・・・。不治の病だと、言ったであろう?」
 爺さんは、声の力が無くなっていく。どうして?どうして、こんなになるまで、
俺の事を?俺は、そんなに期待されていたのか?
「良いか・・・。強く・・・正しく生きるのだ・・・。我が・・・。」
 爺さんは、そこまで言うと、首の力が、無くなっていった。
「おい!爺さん!じいいいいいさああああああん!!!」
 俺は堪らず叫んでしまった。涙が止まらない。こんな悲しい事ってあるのか?婆
様が亡くなった時も、ショックだった。だが、爺さんが居なくなるって、こんなに
ショックだったのか?俺の体の一部が、無くなりそうだ・・・。
 だが、爺さんは再び眼を開ける事は無い。・・・そう気が付いてから、外に救急
車のサイレンが近づいて来るのを知った。
 俺は、事情を説明して『急報』に対して、遅れの電話を入れた。向こうも、急ぎ
だったので、最初は怒っていたが、爺さんの死を報せると、さすがに弱ったらしく、
最終的には、許してもらった。大会の事まで許してもらった。
 これが・・・天神 瞬こと、俺の大会の、1週間前の出来事だった。
 俺が『強く正しく』生きたいと願うようになったのは、この事件が切っ掛けだっ
たのかも知れない。だが、爺さんの想いも継げない様では、天神流では無い。天神
流を継いで行くためにも、この教えは守っていこうと誓ったのである。


 俺の行く道は、茨の道。
 世間は、そう思うかも知れない。
 爺さんが託したのは、夢物語。
 親戚ですら、呆れるかも知れない。
 でも、俺は、夢なんかで終わらせたくない。
 如何に強く、正しくいられるか・・・。
 そんな当たり前の願いを、強く貫きたいと思う。
 それが、この天神 瞬の生き方である。
 そう胸を張って、言い切ろうと誓ったのだ。
 爺さんに婆様。
 見れるのなら、見ていてくれ。
 俺は誰にも真似出来ない生き方をする。
 現実的で無いと言われようと、辞める気は無い。
 見ていてくれ・・・。
 『急報』をもらって10日余り過ぎて、俺は、再びこのお屋敷に戻ってきた。そ
のお屋敷の表札には『天神』と書いてある。まごう事無き『天神家』のお屋敷であ
る。ただし、それは企業家であり、投資家でもある『天神家』であり、空手家とし
ての『天神家』では無い。
 俺は、空手家としての道を歩む事を決めたのだ。その時から、この家には、生半
可な事では、戻らないと決めていた。・・・なのに、この家に戻って来ている。
 仕方の無い事だ。さすがに天神 厳導こと俺の父が、危篤で倒れたと言う報せを
聞いて帰らないのは、さすがに心苦しい。様子を見ない事には、嘘とも言い切れな
い。それに手紙を寄越したのが、他でも無いアイツだ。
 アイツとは・・・俺の妹であった。名前は天神 恵(けい)。恵は、嘘は吐かな
い。特に俺には、嘘を吐いてまで、呼び寄せるなどする様な妹では無い。
 思えば・・・修行をすると言って3年前、小学校を卒業すると同時に、爺さんの
所に入門した。その時に、一番悲しそうな眼をしてたのは、妹だ。寂しい思いをさ
せたかも知れない。何度か手紙を送ったが、妹は忙しかったのか、全く手紙を返さ
なかった。・・・その妹が、突然渡した封筒である。嫌な予感はしていた。
 恵は、少々気が強い所はあるが、真面目な妹だった。父からも、爺さんからも好
かれていた。勿論、俺にとっても可愛い妹だ。会うのは、少し楽しみにしている。
 しかし、お屋敷には、余り良い思い出が無い。と言うのも、躾に厳し過ぎるのだ。
食事のマナーは、勿論の事、帝王学や身の振り方まで、ああだこうだと決められて
は、窮屈で仕方が無い。妹は、我慢してやっていたようだが、俺には真っ平だった。
それに、ここはガリウロルだと言うのに、天神のお屋敷は、決まった所だけガリウ
ロル式で、他は、全てセント式だってのも、気に入らなかった。ガリウロル式の何
が悪いのか?と思うが、父は気に入らなかったらしい。『セント式は、最新で優れ
ている。』これは、父の口癖だった。
 爺さんと相性が悪いと言うのも頷ける。俺とも、相性が悪かった。俺が爺さんの
所に修行に行くと伝えた際には、父は、烈火の如く怒ったものだ。あんな怒られ方
は、生まれて初めてだった。
 だから、爺さんが、父を勘当したのと同じで、俺も、父からは勘当されていた。
それだけに、余り帰りたいとも思っていなかった。それに、父御付の使用人にも、
俺は良く思われて無いかも知れない。父は、母親とは早く死別したので、その使用
人の人が、ほとんど母代わりだった。食事も、使用人の人が作ってくれたし、勉学
も使用人に教わっていた。使用人の名前は、藤堂(とうどう) 睦月(むつき)と
言って、使用人の中でも、最高峰の力を持つ人らしく、睦月さんの下にも、使用人
と執事が居るくらいだ。使用人の心得を、教え込んで総纏めを務める凄い人で、こ
の人無くして、天神のお屋敷は成り立たないそうだ。
 しかし、そんな睦月さんでさえ、10年前から開かれている、全ソクトアご奉仕
メイド大会と言う、恥ずかしい名前の大会で、優勝した事が無いのだとか・・・。
何でも、優勝は必ず同じ人が持っていくのだと言う。あの睦月さんを超えてるなん
て、恐ろしい人だ。睦月さんは、あれで凄いパワーの持ち主だ。料理も完璧だし、
雑用なども、ほぼ完璧にこなす。使用人として、これ以上無い程の実力だと思って
いるのに、それを毎年超えてる人が居るなんて、どんな人なのだろうか?睦月さん
は、その日に向けて天神家を完璧に管理しているのに、帰ってくると、まるで魂が
抜けたような顔で帰ってくる。準優勝のカップは、いっぱいあるのに、優勝が無い。
 父曰く、トップを取れないのは、努力が足りないからだと言うが、周りの使用人
の話だと、それは、余りに酷な言葉だと言う。と言うのも、優勝者の動きが、並大
抵の物では無いのだと言う。しかも優勝者は、それを常に天使のような笑顔で、こ
なしているのだとか・・・。人間か?その人・・・。
 そんなこんなで、余り帰って来たくは無いお屋敷だが、ここまで来たからには、
途中で帰るのも、馬鹿馬鹿しい話である。俺は、お屋敷のインターホンを押すと、
鐘のような音が響き渡る。相変わらず、悪趣味なインターホンだと、俺は思う。
「ご用件を、お申し付け下さい。」
 インターホン越しに、柔らかそうで、営業的な声が返ってくる。
「あー・・・。『急報』を、もらって10日余りですが・・・。」
 俺は、何て言ったら良いのか分からないので、とりあえず本当の事を言った。
「少々、お待ち下さい。」
 インターホン越しに、また抑揚の無い声が返ってきた。何なんだろうか?すると、
インターホンの付いている扉の、上に設けられているカメラが、こちらを向く。避
ける事も可能だが、意味が無いので、カメラの方を向く。
 しばらくすると、お屋敷の扉が勝手に開いた。そこに、横に並んで礼をしている
使用人と、執事の姿があった。相変わらず、悪趣味だと俺は思う。
『お帰りなさいませ。瞬様。』
 皆が、ピッタリ声を合わせて俺を迎える。相当練習したんじゃないのか?これ?
「何だかなぁ・・・。ま、しょうがないか・・・。」
 俺は、頭が痛くなると思ったが、渋々奥へと進む。
「『急報』から10日。お早いお帰りで、安心しました。瞬様。」
 横から、物凄い嫌味が聞こえた。すると、そこには、睦月さんが居た。この人、
苦手なんだよね俺・・・。睦月さんは、使用人の服を着ているが、背は、170近
くあるし、凛々しい顔立ちをしている。目が切れ長で、髪は栗色で三つ編みにして
いて、後ろの部分だけ太くしている。手や足も、すらりと長く、モデルと言っても
差し支えは無い。
「大会が終わってから、爺さんの墓参りで、遅れました。済みません。」
 俺は、相手にしたら駄目だと思って、事実だけを述べる。
「真様ですね。ご不幸、傷み入ります。」
 睦月さんは一礼する。どうも本気で悲しんでる様子は無い。当たり前か。この人
にとって、仕事以外の何者でも無いのだ。こう言う所が、例の大会の優勝者とは違
うんだろうなぁと、心の中で思う。若くて綺麗な人なんだけど、棘があるって言う
か・・・。怖いんだよね。
「父は、大丈夫ですか?」
 俺は、一応聞いてみた。
「長く無いでしょう。覚悟して下さい。」
 睦月さんは、少し残念そうに言った。さっきの爺さんの時とは、大違いだ。これ
については、仕事以外の何かもあるのだろう。
「兄様?兄様ですね?」
 この声は・・・。恵か!って、あれが恵か!?
 背も、でかくなったし、何て綺麗なんだ。何処から何処を見ても、完璧なお嬢様
で、疑う余地が無い。髪はガリウロル人らしく、黒髪で短めにカットしているが、
前髪が長いので、カチューシャをしている。今は、青いスカートに、白いブラウス
を着ているが、何を着ても似合うだろう。しかし一番変わったのは眼だ。眼の力が
違う。3年前は、あんなに力の篭った眼をしてなかった。何かあったのだろうか?
「恵か・・・。大きくなったな・・・。それに、綺麗になった。」
 俺は、素直に感想を述べる。
「嬉しいお言葉です。ですが今は、一刻も争います。父の部屋へ行きましょう。」
 恵は、しっかりとした目付きで俺を促す。昔から、しっかりしていたが、周りま
でしっかりするように仕向けるようになったのだろうか?やっぱり恵は変わった。
 恵に連れられて、なるべく、音を立てずに父の部屋の前まで来る。それにしても、
無駄にでかい屋敷だ。父の部屋に行くってだけで、時間が掛かるのだから世話も無
い。恵は、父の部屋の前でノックをする。
「恵です。兄も一緒です。」
「・・・入・・・れ。」
 微かだが、久しぶりに聞く父の声だった。それにし弱々しい。恵は、一礼すると
ドアを開ける。仕草まで、完璧にお嬢様だ。
「失礼致しますわ。」
 恵は断りを入れると、俺を父の部屋へと招き入れる。あれが本当に父なのだろう
か?本当に危篤だった。あんなに怒っていた父が変わり果てたように痩せている。
俺は、少しでも疑った自分を恥じた。
「・・・痩せましたね。」
 俺は、病人に皮肉を言っても仕方ないので、病状を案じた。
「お前は・・・ガッシリしてきたな・・・。」
 父は、俺が出て行く前の笑顔を向けてくれた。俺は、それが残念でならなかった。
叱りでもすれば、俺も元気が出たかも知れない。しかし、こう出られると逆に辛い。
「父上・・・は?どうだ?」
 父は、爺さんの事を聞いてきた。そうか・・・。知らないのか。
「お変わりなく・・・と言いたい所ですが、亡くなりました。・・・肺ガンだそう
です。俺には、素振りすら、見せてくれませんでした。」
 俺は、包み隠さず父に話した。恵は、少し悲しい目をしていた。
「そうか・・・。勘当されてても・・・寂しい物だな・・・。」
 父は溜め息を吐く。どうやら本当に寂しがってるようだ。最後まで勘当されたま
まだったからだろう。俺も、そうなるのかも知れない。
「奇遇だな・・・。私も・・・ガンだ。胃ガンらしい。」
 父は少し笑う。自分の事を、皮肉っているのかも知れない。
「・・・私は長くは無い。・・・最後に問う。」
 父は、本題に入るようだった。本当に、苦しいのかも知れない。
「・・・お前は、継げるか?」
 父は、それだけ問うた。継ぐ。つまり、企業としての天神家をだ。俺は、迷った。
本当は継いでみせると言いたい所だ。だが、それでは最終的に、嘘を吐く事になる。
それで、良いのだろうか?
「・・・フッ。正直者め・・・。」
 父は笑った。俺が苦悩しているのを、読んだようだ。
「・・・申し訳ありません。」
 俺は、謝ることしか出来なかった。
「嘘を・・・吐かれるより・・・よっぽど良い。」
 父は、既に見抜いていたのだ。俺には、継げる筈が無いと言う事をだ。
「で?・・・継いだのだな?」
 父は、もう一つ聞いてきた。それは恐らく、こちらの事だろう。
「はい。祖父が死ぬ間際に、継いで参りました。」
 俺は、正直に答える。皆まで言う必要は無い。天神流空手の事だ。
「・・・恵。」
 父は、恵の方を見る。恵は父の手を握った。
「瞬は・・・正直過ぎて・・・この世界には向かん。・・・お前が継ぐんだ。」
 ・・・そうなったか。しかし、恵は、まだ14歳だろ?俺と年子だから間違いな
い。そんな恵が、この家を継いで、どうするんだ?
「迷いは、ありません。」
 恵は、真っ直ぐな瞳で父を見た。・・・本当に恵なのか?強くなった。本当に強
くなったな。恵は・・・。
「・・・お前達を・・・残して死ぬ・・・この父を・・・許せ。」
 父は、声が弱々しくなっていく。俺も、もう片方の手を握ってやる。
「・・・睦月。分かっておるな?」
 父は、睦月さんに目配せする。どう言う事なのだろうか?
「厳導様の後は、恵様の指示に従います。間違いは、起こさせません。」
 睦月さんは、キッパリと言い放った。そうか。恵が継ぐと言う事で信頼度が下が
るかどうかを、試していたのか。
「父上・・・。父上のために、何も出来ない俺を、許して下さい。」
 俺は、それを言うのが手一杯だった。この人のために、俺は何をやってきたのだ
ろうか?俺は、心配ばかり掛けさせたのかも知れない。その上、『急報』まで延ば
してしまうなんて・・・。
「・・・恵を・・・助けて・・・やって・・・くれさえ・・・すれば良い。」
 父は、そう言った。最後まで父親なのだろう。恵の事が、心配だったのだ。
「分かりました。恵の助けになれる時は、是非にも。」
 俺は、父の眼を真っ直ぐに見る。
「頼・・・ん・・・だ・・・ぞ・・・。」
 父は、そう言うと、眼を閉じた。そして若干35と言う歳で、その生涯を閉じた。
 俺は、また一つ大事な物を失ったのだ。何をしていたのだろうか?こんな事で、
強く正しくなれるのだろうか?
 迷ってる暇は無い。迷ってる暇は無いが、正しく在り続けようと思った。
 それが、祖父からの願いでもあるのだから・・・。


 それからと言うのは、大変だった。と言うのも、まずは父と祖父の葬式からだっ
た。色んな企業からの社長や取締役が献花に来て、てんやわんやだった。しかし、
全て丸く治めたのは、睦月さんのおかげなのかも知れない。性格は、余り良いとは
言えない睦月さんだが、完璧に仕事をこなす。さすがとしか、言いようが無かった。
 爺さんの葬式まで、兼ねてくれたのには、驚いた。てっきり嫌われていると思っ
ていたからだ。睦月さん曰く、『故人に対しての礼儀は、一緒な筈です。』との事
だ。俺は、睦月さんの事を、誤解していたかも知れないな。
 しかし、それより驚きなのは恵だった。恵は来訪者への気遣いは、全く忘れる事
無く、こなしていた。悲しみで床に伏せる事さえ無い。これは、本当に恵なのだろ
うか?案ずる内容は、違うかも知れないが、心配だった。
 俺はと言えば、俺に似合う喪服が無かったので、黒いスーツを急場で用意しても
らうと言う、間抜けな姿を晒す事になった。どうにも慣れないなぁ・・・。
 とは言え、葬式は無事済んだ。さすが睦月さんは、ソクトアナンバー2である。
使用人として、全ての仕事をこなしていた。
 その後に決まったのが、俺の転校先だった。
 何でも俺の成績を見比べて、入るべき学校を決めたのだとか。
「瞬様は、運動関係がバッチリなので、サキョウ都立爽天学園(そうてんがくえん)
が宜しいと思うのですが?どう致しましょう?」
 どう致しましょうも何も、俺は良く分からないので任せる事にした。その時に、
睦月さんがニヤリと笑ったのを、俺は見ていなかった。爽天学園が、どんな所かと
か、余り聞いて無かった気がする。俺としては、早く生活に慣れたかったと言う思
いがあった。それだけに、見逃していたのかも知れない。
 聞いていれば、入るのを躊躇していたかも知れない・・・。そりゃそうだ。ここ
まで、思いもよらない高校があるとは、思っていなかった。早く慣れれば、良いや
的な考えしか、持ち合わせて居なかったからだ。
 一夜明けて、転校手続きも済んだと言われたので、早速、学校へ行く準備をした。
思えば、祖父の所でも、学校に通っていたが、祖父との修行が主な生活だったので、
何かと、慣れない部分もあるかも知れないと思っていた。
 俺は、着替えをしていると、ノックが聞こえた。
「瞬様。制服を、お持ちしました。」
 使用人の一人かな?俺の制服を運んでくれたらしい。俺は、パジャマ姿だったの
で、これは助かると思った。
「ありがとう。そこに置いておけば、自分で着替えますよ。」
 俺は声を掛けておいた。すると、扉が開かれた。
「え?う、うわ!どうして、入ってくるの?」
 俺は面食らった。俺の声を無視して、入ってくるとは思わなかった。
「し、失礼しました・・・。しかし私は、瞬様の事を任されておりますので、お着
替えの手伝いを、させて戴きたくて・・・。」
 使用人の人は、恥ずかしがりながらも、出て行く様子も無いようだ。
「俺の事を任された?睦月さんからかい?」
 あの人は、俺の嫌がりそうな事は、大体分かっているので、わざとじゃないかと
思った。俺とは、どうも相性が悪いんだよね。
「はい。瞬様は、まだお屋敷に慣れないだろうと、気を使ってくれたのです。」
 使用人は、顔を真っ赤にしているが、手伝おうとしていた。何だか健気な人だな
ぁ。って・・・この人。見た事あるぞ?
「貴女は、まさか・・・。睦月さんの?」
「あ。思い出してくれましたか?瞬様。藤堂 葉月(はづき)です。」
 やっぱり葉月さんか。睦月さんの妹の葉月さんだ。俺より、3つほど歳が上だっ
た筈だ。葉月さんも成長したんだなぁ・・・。髪はストレートだったが、あんなに
長くなかった筈だ。それに目元もキリッとしている。使用人の服を着ているから、
最初は気付かなかったな。
「葉月さんも、ここの使用人に?」
 俺が、家を出て行く前は、俺と恵の、遊び相手でしか無かった筈だ。家が近かっ
たので、良く来ていてくれた。ちなみに睦月さんは、俺より12ほど歳が上だから、
葉月さんとは、9つも違うのか。ちなみに、睦月さんは1月生まれで、葉月さんは
8月生まれだから、この名前が付けられたのだとか。
「はい。姉からは、進学を勧められましたが、この道を選びました。」
 葉月さんは、柔らかな笑顔で俺に返す。この人の笑顔は、誰かを安心させるため
の笑顔だ。心から喜んで欲しいと言う願いが、込められているのかも知れない。
「そうか。葉月さんの事だ。良く考えて決めたんでしょ。なら、宜しく頼みます。」
 俺は一礼をする。葉月さんは、人生プランを思い付きで壊すような人じゃない。
「瞬様。使用人に一礼するなんて、止めて下さい。私達だけでしたら構いませんが、
姉さんや恵様が見ておられたら、注意されますよ?」
 葉月さんは、この家の事を良く分かっているみたいだ。睦月さんは、まだしも、
恵も、そんなに厳しくなったのか?確かに、変わったとは思うけど・・・。
「いけない。瞬様。お着替えを、済ませましょう。」
 葉月さんは注意する。確かに話し込んでる暇は無さそうだ。俺はパジャマを軽く
脱ぐと、用意された制服に素早く袖を通す。サイズは大き目を選んであったせいか、
ピッタリだった。と言うのも、俺は、こう見えても筋肉で、かなり太っているのだ。
通常よりも、多少大きめじゃないと、窮屈なサイズになってしまう。俺は180セ
ンチより少し小さいが、体重は、こう見えても100キロに届きそうなのだ。天神
流空手は、極限まで体を鍛えるので、仕方の無い事だ。実はさっき、起きがけに、
天神流の型の練習を30分程、済ませて置いてたりする。日々の努力が重要なんだ。
 そんなこんなで無事に着替えられた。葉月さんはと言えば、パジャマを、洗濯籠
に入れて持って行く所だ。良く見ると、他の部屋の洗濯物も入っているみたいだ。
結構な量だろうに、大丈夫なのだろうか?
「凄い量だね・・・。」
「もう慣れました。気になさらないで、恵様と、お食事して下さい。」
 葉月さんは、慣れた手付きで、洗濯籠を持っていく。凄い物だ・・・。
 感心してばかりは、いられない。俺は階段を下っていく。そして巨大な扉を開け
て、天神家のダイニングへと、辿り着く。すると、大きなテーブルがあって、椅子
が2つだけあった。
「おはよう御座います。兄様。」
 恵が挨拶をしてきた。その声は実に優雅だ。しかも制服に着替えている。恵の制
服姿は、初めて見たが、中々決まっていた。
「おはよう。恵。」
 俺は挨拶をしておく。それにしても、寂しいテーブルだ。これだけ大きいのに、
恵と俺だけしか椅子が無いなんて・・・。食事を運ぶ使用人、食事を下げる使用人、
テーブルに不備があった場合に備えた使用人まで居ると言うのに、俺達二人だけな
んだなぁ座っているのは・・・。本当に慣れないぜ。
「その制服。似合ってますわ。」
 恵は、俺に話し掛けてくる。優雅に、朝御飯のクロワッサンと半熟の目玉焼きを
ナイフとフォークで器用に食べている。俺も食べようとするが、どうにも慣れなく
て、時間が掛かってしまう。
「似合ってると言われると、嬉しい物だな。恵も制服を着てるが、どこなんだ?」
 俺は、なるべく自然に返そうとするが、まだどこか、ギコちない感じがした。
「あれ?睦月から、聞いてませんか?」
 恵は、唇に人差し指を当てる。その仕草一つとっても、恵はお嬢様と言う感じが
する。昔も、おっとりしているとは思ったが、ここまで、完璧なお嬢様になってい
るとはな・・・。
「そっか。睦月さんは、知っているんだっけか。」
 俺は、詳しく聞いてなかった気がする。そう言う所は、ズボラなんだよなぁ。
「ま、すぐに分かりますわ。」
 恵と俺は、同時に食事を終える。だが、内容は大違いだ。恵は、食べるのが俺よ
り遅いのに、俺と同時なのは、食事のマナーが俺の方が下手だと言う事だ。
「お下げ致します。」
 使用人達は、文句一つ言わずに、恵と俺の皿を片付けていく。徹底的に鍛えられ
ているのか、手早いのに、正確に片付けていく。
 俺は傍目で見ながら、今度はロビーへと出る。相変わらず大きいロビーだ。恵は、
既に出る準備が出来ているようだ。俺もカバンを用意したし、もう出られるな。ロ
ビーでは出迎えの従者が待っている。って・・・良く見ると、睦月さんと葉月さん
じゃないか。葉月さんは、俺が食事を取っている時に、既に仕事を終わらせたらし
い。それで俺の事を待っていたのか。凄いなぁ・・・。
「恵様。いつでも出られます。いかが致しましょう?」
 睦月さんは、玄関の扉を開けると、自動車が既にエンジンを吹かせて待っていた。
自動車登校かよ・・・。すげぇな。しかも、あの車のモデルは、アズマ南市の名車
ジャックじゃないか?恐ろしい値段だった筈だ。車庫に自動車が10台程見えた。
どれも、名車と呼ばれる部類の車で、如何に金を掛けてるかが分かる。
「兄様。どの車が、お好みでしょうか?」
 恵は、恐ろしい事を聞いてくる。はっきり言って、車で登校すると言う事自体、
頭に無かったのだ。お好みと言われても、全く分からない。
「なぁ。俺の学校って、遠いのか?」
「?別段遠いと言う訳では、ありません。爽天学園なら、車で5分程ですわ。」
 恵は、車での距離しか知らないようだ。車で5分と言う事は、歩きでも、15分
程で、着くんじゃないか?
「俺、歩きで、良い気がするんだが?」
 どうも車で登校と言うのが、慣れない。
「兄様。貴方は、天神家の嫡男なんですよ?私の兄なら、歩きで登校だなんて、危
険な事は、御止めになった方が、宜しいですわ。」
 恵は少し呆れていた。歩きで、登校って危険なのか?
「歩きで行けば、車道を横切る事もありますし、もし変な方が、付いてきたりした
ら、どうするんですの?天神家なら、そう言う事も、ありえるのですよ?」
 確かに、これ程の名家なら、誘拐しようなんて不届き者も居るかも知れない。
「それも修行の内と思えば、苦でも無いぞ?」
 どうにも俺は、行動を修行に当て嵌めたがるのか、車で行くのは、体が鈍ると思
ってしまう。すると、恵は、溜め息を吐く。
「兄様は修行が、お好きですのね。分かりましたわ。・・・睦月。今日から、歩き
で行きます。明日から朝は、車の用意はしなくて良いように、言って置きなさい。」
 恵は睦月さんに言っておく。すると睦月さんは、敬うように礼をすると、車の運
転手に告げていた。運転手は嫌な顔一つせずに、こちらに礼をして、出迎えの方に
回った。文句が出ても、おかしく無いんだが・・・。
 すげぇな。連携と良い完璧だ。それに恵は睦月さんの事を、敬称では呼ばない。
完璧なお嬢様だ。慣れてるなぁ・・・。
「おい。恵まで合わせる必要無いんだぞ?学校は、遠いんじゃないのか?」
 俺は、恵の方が心配だった。俺に合わせて、恵まで歩きになるとは、思ってなか
ったからだ。恵は、そんな心配をする俺を見て、口を尖らせる。
「兄様が歩きだと言うのに、私だけ車なんて、気分が悪いですわ。それに学校は、
近いですから、ご安心なさって下さい。」
 恵は、大丈夫だと言わんばかりに胸を張る。まだ少し、未発達だが、少しは女性
らしいプロポーションになっているので、俺としては、ちょっと気恥ずかしかった。
「兄様?今、何で目を逸らしたんです?」
 う・・・。変な所で、恵は鋭い。
「いや、恵も、成長したなぁとか・・・。」
 俺が、そう言うと、恵は腰に手を当てて呆れていた。
「朝から何を言ってるんです?全く・・・。」
 恵は、少し顔を赤くしながら、スタスタと門の所へと行ってしまう。俺は、置い
てかれたら堪らないので、慌てて付いていった。
「悪かったよ。・・・それにしても、恵は大丈夫なのか?俺の学校へ行ってから、
恵の学校に向かうんだろ?時間は、大丈夫なのか?」
 俺は謝りつつも、恵の時間の心配をする。恵の事だ。遅刻など、一回もしてない
のだろう。几帳面だしな。
「本当に、睦月から何も聞いてないのですね。」
 恵は驚いてしまう。驚くような事を言ったか?俺・・・。
「兄様と私は、同じ学校ですわ。兄が歩きで、妹が車だなんて、おかしいでしょう?」
 ああー・・・。そうなんだ。確かに同じ学校なら、恵だけ車でってのは・・・。
あ?同じ学校?って事は・・・。
「爽天学園って、中等部でもあるのか?」
 俺が確か1年で・・・。恵は、中学3年だよな?年子だし、間違い無い筈だ。
「爽天学園は、れっきとした私立の高校ですわ。名門ですのよ?」
 は?どう言う事だ?いや、名門ですのよ?じゃ無くてさ・・・。
「私は、飛び級で、この9月の頭に入学したんです。兄様とは、同じ学年ですわね。」
「な、な、何ぃぃぃぃぃぃぃ!?」
 俺は、本気で驚いた。恵は飛び級だったのか!?昔から、出来る子だったけど、
まさか、そこまでだったとは・・・。兄の面目、丸潰れだなぁ・・・。
「大きな声は、止めてください。只でさえ目を付けられてますのよ?私。」
 そりゃそうだ。名家の天神家で、更に飛び級の天才とあれば、目立たない方がお
かしい。と言う事は、兄の俺も・・・。目立つよな。しかも空手大会とかで、優勝
しちゃったしな。俺・・・。まぁそこは、後悔して無いんだけど。
「そうか・・・。睦月さんに、聞いておけば良かった・・・。」
 俺は本気で後悔した。まぁ聞いた所で、『決まった事ですから』の一言で、返さ
れるんだろうが、気持ちに余裕は出来る。
「あ。あそこに居るのは、恵様ですわ!」
「あれ?隣の男の方は、でしょう?」
「さぁ?恵様が、車で登校しない事と、関係あるのかしら?」
 後ろから、何やら囁きが聞こえてくる。ううー。何だか、最初から物凄く目立っ
ている予感。多少の覚悟は、してたけどなぁ・・・。
 良く見ると、既に後ろに、行列が出来ていた。何と誰も恵の前を通ろうとしない
のだ。恵は、後ろを少し振り向くと、少し笑って髪を揺らせる。身に染みこんだ仕
草なのかも知れない。その動作をするだけで、後ろから歓声が聞こえる。俺はと言
えば、心無しか、男性陣の視線が突き刺さってる感じがして、良い気はしなかった。
「たまには、歩きも良いものでわね。」
 恵は、事も無げに話す。コイツ・・・。何気に、良い性格してやがる。
「俺には、真綿で首を締められる様な視線を、感じるのだが?」
 俺は、目を細くしながら、溜め息を吐く。
「あら。気になさってたの?さっきから、平然としてるように見えたのですが?」
 恵は、俺が文句一つ言わずに居る事で、平然としてるように見えたのか。
「皆さん。おはよう御座います。」
 恵は突然、天使のような微笑を浮かべて、後ろを振り向く。すると、皆、行儀良
く礼をする。どこの女王様だ。
「恵様のご機嫌が、宜しくて何よりです!」
 何だか、ファンクラブまでありそうな勢いだ。いや、実際あるんだろうなぁ。
「今日は、皆様に、この方を紹介致しますね。」
 ゲゲゲゲゲ。いきなりかよ!
「私の兄の、天神 瞬ですわ。皆とは、学友になる筈なので宜しくお願いしますね。」
 恵は優雅に俺を紹介する。すると皆は、納得したような顔をする。何だか、馬鹿
にされたような気もする・・・。
「兄様?一言、申し上げては?」
 恵は、俺に話を振る。本当に、良い性格してるな・・・。
「恵の兄の天神 瞬です。今日から、宜しく頼む。」
 俺は真面目な顔で一礼をする。すると、皆からは、ちょっとした拍手が起こった。
さっきの妙な視線が、どっと減った。その代わり、好奇の視線が増えた気がした。
「天神 瞬?ああ。そうか!あの天神家の人だったのか!」
 一際、元気な声が聞こえた。何だか、聞き覚えのある声だ。
「あれ?君は・・・。」
 近寄ってきた人物には、覚えがあった。
「準決勝では、お世話になったね。」
 そう言うと、肩を抑えた。ああ!そうか!
「俊男(としお)!君も、爽天学園だったのか?」
 俺は、周りを気にせずに、しゃべってしまう。間違いない。全ソクトア空手大会
で、準決勝で闘ったパーズ拳法の免許皆伝の島山(しまやま) 俊男だ。
「あら。知り合いでしたの?」
 恵は、興味津々で尋ねてきた。
「ああ。ほら。大会で、俺と準決勝で当たったパーズ拳法の!」
 俺は、嬉しくなってしゃべった。すると周りから、ざわめきが起きた。空手大会
を見ていた奴が、多かったらしい。
「そうだ。天神 瞬だ。優勝者だよ。ほら。テレビでやってた・・・。」
「へぇ。見かけによらないって言うけど・・・。」
 何だか、失礼な事を言ってる奴も居たが、一気に知れ渡ったようだ。恵の兄で、
空手大会の優勝者ともなれば、そうなるかな・・・。
「ああ。あの粗野な方の前に、闘っていらした拳法家さんね。」
 恵は、思い出したらしい。
「島山 俊男と言います。こりゃ楽しくなりそうだね。」
 俊男は、嬉しそうだった。何だか憎めない奴だ。
「瞬の妹で、天神 恵と申しますわ。」
 恵は、俊男にちゃんとした挨拶をする。うーーん。優雅だ。
 登校一日目から、ここまで目立つなんて・・・前途多難とは、この事だ。



ソクトア黒の章2巻の1後半へ

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