脳内幽霊

北村曉

 四月朔日未明(わたぬき・みめい)は膨大な知識と卓越した医療技術を持つ医学 者である。自らの医学研究を医者としての倫理に束縛されるのを嫌った彼は、世に 出て臨床医になろうとせず、自宅で研究に明け暮れ、医学の可能性を追求している 。しかし時々「研究費を稼ぐ」という名目で、莫大な謝礼と引き換えに、倫理を越 えた医学的問題を解決する事もあるらしい。
 そんな彼を「狂医学者(マッド・メディシスト)」と呼ぶ者も いるという。

「狭山(さやま)、例の件はどうした?」
「は、社長。言われた通りこちらの依頼を先方に伝えました」
「うむ。で、その四月朔日という男とはいつ会える?」
「向こうも忙しいとの事で、都合がつき次第こちらに連絡するそうです」
「そうか……」
「では、面会時間が終わりますので、私はこれで」
「ああ、御苦労だった」
 都内某所の病院での会話である。「社長」と呼ばれた男は名を鰐淵(わにぶち)という。二年前に父が経営していた大会社を父の死によって引き継ぎ、三十代後半という若さで社長となっていた。しかし現在、彼自身もまた重い病に冒されており、あと数ヶ月の命と宣告されていたのだ。
 病院の消燈時間が来た。取り敢えず彼は明りを消して横になったものの、なかなか寝付けずにいた。
(早く四月朔日に会わなければ……私には時間がないんだ)
 そんな事を考えていると、突然、扉でノックの音がした。
「? だ、誰だ!」
 鰐淵が誰何すると、扉は音もなく開いた。
「こんばんは。四月朔日未明です」
 そう言って、燈した蝋燭を持った一人の男が入ってきた。
 鰐淵は驚きのあまり声も出なかった。

「鰐淵さん、ですね?」
「あ、ああ、そうだが……君は本当に四月朔日か?」
 鰐淵が驚くのも無理はなかった。その突然の来訪にもだが、目の前の男はどう見ても二十代そこそこであり、白衣は来ているものの却ってそれが仇となってしまい、理科系の学生程度にしか見えない。とてもこの男が天才的医療技術の持ち主とは思えなかった。
「ええそうです。あ、一応名刺を持ってきてるんで、どうぞ」
 出された名刺にはこう書いてあった。

 医学研究者
  四月朔日 未明 WATANUKI Mimei

「いがくけんきゅうしゃ……?」
「そうです、医者ではないんです。医者は『人の命を救う』という前提がありますから、研究に於いてあまり自由なことは出来ませんからね。僕の目的は『倫理・道徳に囚われず、医学を利用して人間のあらゆる可能性を追求すること』ですから、医者にはなれないし、なりたくもないです」
 噂で聞いた通りの男だ。鰐淵は信用する事にした。
「しかし、君は今忙しいと聞いたが……?」
「あれは嘘なんです。僕は時々危ない仕事もしてるもので下手に会う場所や時間を指定したりすると、警察なんかが待ち構えて捕まるってこともあり得ますから、依頼人に会うときは、場所や時間を指定せずに僕の方から出向くことにしているんです」
「ほう、成る程」
「でも、ほんとの事言うと……」  にやり。
 四月朔日は笑い顔を鰐淵に向けた。
「……人を驚かすのが好きなんですよ」
「……!」
 食えない奴だ、と鰐淵は思った。
「それにしても、これじゃ一寸暗いな」
「あ、電気は点けないでください。あまりはっきりと顔を覚えられたくないもんで」
「何? ……ふん、用心深いことだ」
 スイッチに向かった鰐淵の手は、空中で止まり、そして下ろされた。
 テーブルに置かれた赤い蝋燭が唯一つの明りである。
「では、改めて、ご依頼の方を詳しく聞かせてもらいますか」
「そ、そうだな」
 鰐淵は何から話そうか迷う様に、暫く考えていたが、軈(やが)て話し始めた。

「知っているかもしれないが、私は半年ほど前に結婚したんだ」
「ええ、ここにくる前にちょっと調べました。週刊誌などで結構話題になってた様ですね」
「実は妻とはかなり以前から知り合っていたんだ。私の一目惚れでね。育った環境があまりにも違うからと言って彼女は交際を拒んだんだが、それでも私は口説いて、口説いて、口説き倒した。それで漸く結婚できると思ったら、今度は父の猛反対に遭った。お前は私の会社を継ぐ身なのだから、それに相応しい嫁が必要だとか言ってね。私は会社経営などに興味は無かったんだが……。こんな事を言っては何だが、父が死んでくれた御蔭で、半年前にやっと彼女と結婚できたんだ」
「結婚したばかりなのに、こんな事になってしまって、嘸かし悔しいことでしょう」
「ああ」
「でも自分自身の体を治してくれ、と言うわけではないんですね?」
「そんな事を頼むのなら君みたいのではなくてちゃんとした医者に診てもらうさ。だがこの体はもうぼろぼろだ。医者には治せない事は自分がよく分かる。私の心残りは妻の事なんだ」
「奥さん、ですか」確認する様に。
「この歳でこんな事を言うのもなんだが、私は妻を愛している。今まで、本当に、死ぬほど愛してきたんだ。私の命はあと数ヶ月だが、私がこれまで愛してきた分、妻には私をずっと愛していて欲しいんだ。彼女はまだ若くて綺麗だから、私の死後言い寄ってくる男が出てくるかもしれない。ましてや再婚なんて……! そんな事を考える度に心が苦しくなる。お願いだ! どうか彼女に私への愛を忘れなくさせてくれないか……」
 四月朔日は相槌を打ちながら聞いていたが、鰐淵が話し終わると考え込む様に沈黙した。
 暫くして四月朔日は鰐淵に訊ねた。
「鰐淵さん、あと二ヶ月、大丈夫ですか?」
「ああ、何とかその位は生きていられるだろう」
「分かりました。方法は一応考えてきましたので、これから僕の言う通りにして下さい」
 四月朔日は二ヶ月先の計画に就いて話し始めた。

 鰐淵は退院し、自宅療養をしていた。「死ぬときは自分の家で死にたい」との本人のたっての希望であった。
 今は鰐淵の妻、瑞枝が付ききりで看病していた。
「ゴホゴホゴホッゴホッゴホッゴホッゴホッ、ゲフ」
「ああ、貴方、大丈夫ですか? はい、お薬ですよ」
「す、済まない瑞枝」
「何を言ってるんですか、さあ、お茶ですよ」
 差し出されたお茶で薬を嚥む鰐淵。
「有り難う瑞枝。だが私は本当に済まなく思っているんだ。私が我が侭を言ったばかりに、お前に無理な看病をさせてしまって……。しかし私はこの家でずっと生活してきたから、せめて死ぬ時も此処でと」
「やめてください!!」
 そのたおやかな様子に似合わぬ大声で、瑞枝は鰐淵の言葉を遮った。
「死ぬなんて言わないで下さい! 私は今でも貴方の病気がきっと治るって信じているんです。結婚したらお互い百まで生きようねって約束したじゃないですか……まだ一年も経っていないのに……それなのに……」
 俯いて切々と訴えかける瑞枝。後は声にならない。
 鰐淵も黙った。眼に熱いものが込み上げていた。
 ……。
「……私が悪かった。しかしお前は無理をし過ぎる。最近殆ど寝ていないじゃないか。少しは休みなさい」
「で、でも……」
「いいから、さあ、お前もお茶でも飲んで落ち着きなさい。ほら」 「わ、わかったわ」
 鰐淵が差し出す茶碗に、瑞枝は茶を入れて飲んだ。茶碗を差し出すとき、何かが鰐淵の手から落ちていた。
 数分後。瑞枝は溜まっていた疲れのせいか、それとも鰐淵が入れた睡眠薬のせいか、すやすやと眠りこけていた。
 瑞枝が完全に眠っているのを確認して、鰐淵は声をかけた。
「……四月朔日君。いいぞ」
 すると隣の部屋に続く扉から男が現れた。勿論四月朔日未明である。しかし様子が少し変だ。彼は今日はサングラスをしていたが、その下から涙が零れ、顔をくしゃくしゃにしている。
「……どうかしたのか?」
 不審そうに訊ねる鰐淵。
「いや、お二人の話を聞いてたら、じーんと来ちゃったもんで……」
 そう言いながら四月朔日は鰐淵のほうに近づいた。しかし枕許まで来た時、四月朔日のポケットから何かが落ちた。
 それは……眼薬。
 ……。
 二人の間に妙な空気が流れる。
「貴様……ふざける気か」
「あ、ばれました? あ、いやいや、眼薬は冗談なんですが、じーんとしたのは本当ですよ。……いい奥さんですね。ほんとに。鰐淵さん、あんた幸せもんだ」
「……いいからさっさと始めろ」
 四月朔日は真面目な表情に戻した。
「失礼しました。では早速始めましょう。……これが以前お話した物です」
 そう言って四月朔日は眼薬をポケットに戻し、別の物を出した。
 それはアルミ箔に包まれていた。四月朔日は丁寧に包みを開き、中の物を鰐淵に見せた。その形は小さな正方形で、一辺は一糎もなく、厚さは極薄い。そして周囲から均等に並んで細い金属線が十数本程出ている。
「これが君の言っていた生体マイクロチップか」
「そうです。これを今から奥さんの頭皮下に埋めこむ手術をします。……以前も話した通りこのチップは人間の大脳に働きかけて、脳に記憶されている或る人――この場合奥さんの記憶に残った「鰐淵さん」ですが――が目の前に現れたかの様に、音と映像として知覚させます(ぼんやりと、ですが)。早い話が、奥さんにだけ見えて、他の人には見えない鰐淵さんの幽霊を出すことが出来るわけです。「幽霊」の出現は不定期になるようにしています。また、鰐淵さんが生きている間に「幽霊」が出てきたら困るんで、手術後三ヶ月間は「幽霊」が出現しない様になっていますが、宜しいですね?」
「三ヶ月か……まあそんなもんだろう。だがそのチップはいつまで働くんだ?」
「御心配なく。これの電源は体内電流ですから、奥さんが生きている限り半永久的に動作する筈です」
「わかった。では手術を初めてくれ。……しかしこの部屋で本当にできるのか?」
「御心配なく。秘密兵器がありますから」
 四月朔日はそう言って、持ってきた鞄の中から何かを取り出した。それは透明なビニールを折り畳んだ物にホースが付いた物で、四月朔日がホースの反対側の端に付いた機械のスイッチを入れると、風船状になっていたビニールに空気が入り、どんどん膨らんでいった。
「携帯用滅菌テントというやつです。これがあればどんなとこでも手術が出来ます 」
「ふうむ。昔読んだ漫画に確かこんなのが在ったような……」
「ははははは。鰐淵さん、それは言いっこ無しですよ」

 そして四月朔日は手術を始めた。頭皮にメスを入れ、頭蓋の十数か所に微小な穴を穿ち、そこにチップの電極を差し込んで穴を埋め、チップを頭蓋に固定した後に縫合。これだけの手術を、手持ちの装備だけで、何と三十分もかからずに終わらせてしまった。しかも頭皮には手術の痕跡はほとんど認められない。正に神業である。鰐淵も手術を見守っていたが、彼の手術の腕には驚嘆せざるを得なかった。
「これでOKです。念のため奥さんにはあと一日ほど眠ってもらいましょう。では料金は僕の口座の方にお願いします」
 手術が終わると、四月朔日はさっさと帰っていった。

 数日後、四月朔日の元に莫大な謝礼が送られた。
 そして手術から一ヶ月後、鰐淵の死亡が新聞・雑誌等で報道された。鰐淵の経営していた会社の社長の後任には、妻である瑞枝氏が就任したと報じられた。

 ところがそれから二ヶ月ほど経つと、鰐淵瑞枝の奇行が周囲の人達の目につく様になった。重役会議の途中、突然空中を見上げて驚きの声をあげたり、誰もいないところに一人で話しかけたりしているのを見たという人が出てきて、それが一部の週刊誌に「泣き夫の亡霊か?」等と興味本意で取り挙げられ、多くの人の知るところとなった。軈てその奇行が社長業務にも支障を来すようになり、彼女は重役達によって休職に追い込まれた。

 仕事を休んだ後もも鰐淵瑞枝の奇行は続いた。或る週刊誌には自称・霊能者のこんな告白記事が載った。ある日彼の所に鰐淵瑞枝がやって来て、自分は夫の幽霊に悩んでいると訴えた。彼女によると初めは死んだ夫が現れたので嬉しかったが、時や場所を選ばず現れて話し掛けてくる夫の幽霊が次第に疎ましくなってきたのだそうだ。その霊能者は「然るべき処置」を施したそうだが、まだ夫の亡霊は消えないらしく、その後何人かの霊能者にも彼女は相談したが、巧く行ったという話は聞かないらしい。

 そんな或る日。鰐淵瑞枝は幼馴染みの女友達の家を訪問していた。
 暫くの世間話の後、友人はこう切り出した。
「ところで、まだ出るんだって? 例の……」
「ええ」そう言うと鰐淵瑞枝は深く溜め息をついた。
「でも、瑞枝あんなに旦那さんの事愛していたじゃない。なら愛する人が幽霊になって現れるのってちょっとラッキーって感じじゃない?」
「鰐淵の事は今でも愛しているわ。でも幽霊になって出る彼はいつもあの顔……病で苦しんでいる時の顔なのよ。……それに私が男の人に会った時、例えば会社で働いていた時は何人かの人と一緒に仕事したりするんだけど、そういう時に現れて『俺を忘れないでくれ』って言ってくるのよ。……彼、ちょっと嫉妬深い所が有ったから……」
 どうやら鰐淵瑞枝には死亡直後の鰐淵の顔の印象が強かったらしい。愛する人の無残な姿を何度も見せられることは彼女にとって苦痛であった。
「……それじゃあさ、知り合いに(といっても知り合いの知り合いが知っている人なんだけど)いい霊能者知っているって言う人がいるんだけど、良かったらそこ紹介してあげようか?」
「でも、そういう人に今まで何人も相談したけど、全然駄目だったのよ」
「けどその人は本当に凄いらしいよ。料金はかなり取るらしいけど、それは成功した時だけだって言うし……だめもとで相談してみたら?」
「……そうね。裕子がそう言うのなら、一度相談してみようかしら」

 数日後、散々迷った末に瑞枝は裕子に教えてもらった霊能者に電話をかけてみた。
「もしもし、あの……」
「あ、もしかして鰐淵さんですか? これはどうも。ええ、友人の方からお話は聞いてますよ。私が霊能者のワタヌキです」
 ……そう、電話に出た男は四月朔日未明本人であった。勿論彼は初めからここまで計画していた。鰐淵から依頼を受けた時、彼の莫大な財産に目を付けた四月朔日は、まず依頼を果たして本人から謝礼を取り、次に霊能者と称して鰐淵の遺産を受け継いだ瑞枝に近づき、彼女の前に現れる幽霊を祓う(実は彼女に埋めこまれたマイクロチップを外すだけなのだが)事によって更に謝礼を取るという、二重に利益を受ける方法を考えたのだった!
 そんなことは知らない彼女は、四月朔日に幽霊の事を詳しく説明した。
 説明が終わると、四月朔日は言った。
「分かりました。この件はこちらで何とか出来ると思います。そうですね……そちらの都合の良い日はありますか?」
「そうですね……三日後なら」
「三日後ですか。とすると……土曜日ですね。ではその日にそちらに伺うという事で、宜しいですか?」
「ええ、お願いします」
 電話を置くと、四月朔日は鰐淵瑞枝の話の内容をメモした紙を見て、こう呟いた。
「……いい実験データが取れた」

 しかしその翌日、思いもかけない事が起こった。鰐淵瑞枝が外出中に事故で死亡したのだ。
 その日の夕刊に死亡記事が載った。鰐淵瑞枝は突然舗道から車道に飛び出し、走っていた車に轢かれ、即死した。目撃者の証言によると、車道へ飛び出す時の彼女は何かに追われる様であったらしい。
「こんな事も有るんだな」
 新聞を読んだ四月朔日は呟いた。
(鰐淵はあの世での孤独に耐えられなかったのだろうか……)
 そんな事を考えたが、そんな考えは自分には似合わないと思ったのか、微笑して肩を竦めた。
 そして鰐淵夫妻の冥福を彼なりに祈った。■

end






撰者から:

「幽霊とは、故人の記憶が脳の感覚器官に繋がる部分に作用することによって形作られる幻影である」という作者の思想を一歩進めて、人工的に幽霊を作り出すというアイディアが描かれている。
 また作者はこの作品で初めて「人間」を描くことに挑戦し、そして見事に失敗している。
 しかしこれに懲りず、他にも「四月朔日未明」が出てくる話を書いているらしい。