馬龍伝説'20/時城 光   馬龍
 龍は通常人知れぬ沼、そして海の底に住み、時折雷鳴轟く雲の中に姿を現わす幻想的な生物である。人々はその姿を見て有る者は恐れ戦き、又有る者は吉報の兆しと見た。しかし大多数の人々は、この巨大な龍に対して尊敬の念を抱いていたのである。と同時に龍もまた地に存する生物に対し憧れの念を持っていた。古代すでに地の世界とは別離されててしまったその姿は実に孤独だった。彼らは再び地の世界と繋がることを望んだ。しかし、もはやただ一つの方法しか残っていなかった。その方法とは……他の生物に乗り移ることだった。
 彼らは度々地の生物に乗り移り、その生物はウサギ、ネズミ、ウシ等に致るものだった。だが人間が自然界にて台頭を始めると龍は人間にとって最も貴重な生物―――人間に大切にされ、しかも、あまり食用と化さぬもの―――に乗り移ることを望んだ。その生物こそ正に馬だった。こうして龍が乗り移った馬を人々は馬龍と呼んだ。
 しかし、馬龍を見た者は、そのほとんどが直後に死亡している為に詳しい報告はなされていない。僅かな報告から推測するに、通常は馬の姿をしており、時折“馬龍”というべき姿を現わすに過ぎ無い。だが馬龍は通常でも恐ろしく駆けるのが早く、並々ならぬ反射神経を持っている。かつ、ある特定の人物を好み、他の人々を全く寄せ付け無い。又、通常の馬とは形態が少々異なる場合もあるらしい。
 しかし、中世以降、馬は主に軍馬として使われている。しかも竜は人々が死ぬ時に良くある雷雨を好む。この事からも、もしかすると有る特定の人物、すなわ
ち現世の主人に会うが為に“おむかえ”として現わす姿が馬龍、なのかも知れない。
 馬龍。それは恐るべき生物であると同時に悲しく、寂しい生物でもある。

   第1話 悲劇

 あらゆるものが燃えていた。草、家、木、そして腐りかけた死体。テレイは息をはあはあさせながらガレキの中を慎重に前進していた。隊にはぐれ、彼は一人前進していた。周りの炎の為、頬が熱い。時折味方―――といっても中国人ではあるが、巨大な石をこのちっぽけな街の中へ落としてくる。まるで血の様に赤い夜空を巨石は恐ろしく不気味な音を立ててテレイの上空を通っていった。テレイの乗っている馬の足取りも遅い。さすがに、ここ数日間も走り続けたせいらしく、首を垂れたまま上げようともしない。テレイも疲れていた。だが、それは精神的な疲れであったと言っても良い。彼は最近この様な無残な町や村の姿を見て来た。チンギス=ハンはこのモンゴルの西側に存するホラズム帝国領内をすべて廃虚として前進を続けたのである。「なんてこった」彼は呟いた。
 突然、テレイの前で半壊した家の中、炎に照らされて何か黒いものが動くのが見えた。テレイは反射的に弓を引き、矢を放った。矢はその黒いものに、まるで吸い込まれて行く様にも見えた。すると黒い物体はかん高い悲鳴をあげ、にぶい音を発して倒れるとそれっきり動かなくなった。テレイが門を越えて近付くと、毬に手を掛けて花の落ちた花壇の中に倒れている幼女の姿を見た。その家の門の反対側で音がするので外へ出てみると、そこにはテレイと同じ年頃の少年が踞まって死んでいた。その上には母親らしき人物が覆い被さり、数本の矢を背に受けながらまだ涙をためながら何かうめいている。テレイにはもはや耐えられなかった。馬のたづなを精一杯引き、その場を逃げ出した。致る所に死体が転がっていた。建物に押し潰された者、体が四散している者、黒焦げの死体………しかし、殆どは老人や女子供のものだった。戦意の無い守備隊は既に逃げ出してしまっていた。誰がこんな戦いを自分に教えたであろうか。戦争とは他国の勇者と命を賭けて力を競うものではなかったのか。テレイは心の中で叫んだ。彼は汗をぬぐい、馬を促して更に前進を続けた。
 横から泣き声が聞こえてきた。そちらを見ると一人のまだ幼ない少年が立派な家の中で勇壮な姿をした武士の死体の前で泣いていた。父が死んだのか? テレイはそう思った。その少年はテレイの顔を見ると泣き止み、てくてくと彼の方へ歩いて来た。テレイも昔の自分の姿を思い出した。あの親戚の人々に手を差し延べる方へよちよちと歩いていった自分の姿を。彼は少年に対して手を差し延べた。少年もまた、差し延べた手の方へ片手で目をこすりながらやって来た。そのあどけない姿を見てテレイは少し笑った。少年はもう片方の手を差し出してきた。光る物を握っている。そしていきなり両手で、光る物―――刃物をテレイの手に切りつけようとした。
 横をいきなり空気を裂く音がし、少年はばったりと倒れる。体には数本の矢が刺さっていた。
 「馬鹿野郎! 貴様何を考えているんだ」
 テレイが振り返ると、そこにはテレイと同じ隊の人達が三列縦隊で並んでいた。そして再びキッシャムが叫んだ。
 「ここは戦場だ。相手を殺さない限り俺達は生きてはゆけないのだ。たとえ相手がガキであろうともな。ガキだからと言って命を落とした奴は一人や二人じゃねえんだ」
 「しかし、隊長」
 テレイが言った。叫び声にも近かった。
 「こんな殺戮をいつまでやるのですか」
 誰も答えなかった。誰もが疲れているのだ。
 「行こう」
 キッシャムが言った。
 「我々は前進あるのみだ」
 キッツャムを始めとするその隊はテレイと伴に前進を始めた。
 火はくすぶる程度になっていった………。

 空はすでに闇となり、モンゴル兵達はここで休むことにした。建物の片隅に寝る隊もあった。テントを張って野営と同様に過ごす隊もあった。そしてその中には薪をなべ、その周りで肉に食らい付く者、火に照らされながら寝る者もあった。無論、すべての兵が休んでいた訳ではない。戦火に巻き込まれ、殺戮の中をかいくぐり、そして捕虜となってしまった住民を集め、どこか―――恐らく他の戦場で矢の盾にでも使うのだろう―――に送る用意をしている者。辺りを見廻して警備に余念のない者、斥候として出掛ける者。武器の手入れをしている者………そしてテレイの様に馬の世話をしている者。
 テレイは焼け残った馬舎を使って一人馬に干し草を与えていた。それが済むと近くの焼け残った井戸から水を汲んで馬に与え、それから馬の体を拭き始めた。馬は人間程表情が激しくない。しかし、テレイは馬の気持が自分には分かると確信していた。そして馬の顔を見るど何となく心が緩んでくるのである。
 「こら、少年兵!」
 テレイは徴兵されたのではない。まだ少年ではあったが、自ら志願したのだ。その為彼は皆からこう呼ばれていた。
 「手を体めんじゃねぇ。それから自分の馬ばっがり面倒みるなよ。俺達の馬こそちゃんとするってえのが礼儀ってやつだろ」
 少々薄笑いをしてボルボックが言った。彼はテレイの隊の古参兵で、それらしく顔に数本の傷がある。ナイマンや金との死闘を続けてきた暦戦の勇士にとって戦意の無いホラズム兵との戦いは少々不満らしい。そのせいか彼は少々いらいらしていた。後ろに付いている数人も、テレイの方を見て二ヤニヤしている。ボルボックは食っていた肉の骨も捨てると、こう言った。
 「もし戦場で馬がバテたりしたらタダじゃ済まさんからな」
 すると、横からミンデムが顔を出してきた。彼もまたボルボックと同様、古参兵である。
 「そうでもなったらコイツの皮でもひきさいて、か弱い敵さんに微塵切りにしてもらって馬に与えりゃいいゼ。馬も草ばかりじゃもたんだろうヨ」
 すると彼ら一団はどっと笑い、テレイの顔を見ながら去って言った。
 テレイはきょとんと彼らが去って言った方向を見ていた。
 風が吹き、テレイの髪を少しなびかせた。そして彼は再び馬の世話を始めた。
挿絵 「………ん?」
 テレイを押す者がいる。後ろを見るとテレイの馬、テムテムが鼻でこっちを押していたのだ。テレイは笑った。まるでテムテムがテレイを慰めているかの様だった。テムテムは七才馬だから年を食ってはいても、常にテレイを見守ってきていた。でも、さすがにこの頃戦場では辛そうだった。テレイはテムテムの顔をじっと見つめていながら、たてがみを撫でてやった。それを知ってか知らずかテムテムは再び干草を食べ始めた・そしてテレイが顔を上げると他の馬もこちらの方を見ていた。あのボルボックやミンデムの馬だってみんなきれいな瞳でテレイを見つめるのだ。彼らを見てどうして世話をしてあげずにいられようか。テレイはそう思った。この仕事は彼にとって正に戦場の中で心を癒す唯一の機会であった。テレイが同じ隊の人達の馬を拭き、あと一匹を残すとき、おけを見ると水が無いではないか! 馬達は皆そっぼを向いている。
 「なんて奴らだ」
 テレイはふーっと息をはいて、それから少し笑った。彼はおけを持って井戸の方へ駆け出した。兵達が周りを囲むたき火は兵士達の憂鬱な一面のみを照らし、日々刻々とその色、形が変化している。その炎がテレイには何か寂しい思いにさせた。テレイはその思いをふっ切り、再び井戸の方へ向かった。たき火と祭りの火、そしてあの戦場での火。同じ火なのにどうして皆こうも違うのだろう。彼はふと思った。
 井戸が見えて来た,そこでは酔いつぶれた兵士達が、ある者は水を飲みながら大声を出してフラフラと歩き、又ある者は井戸の所へ行った。すすで黒くなった井戸の水を汲んでいる間、彼は上を見てみたが、曇っているため(たき火のせいかも知れない)星は見えなかった。モンゴルかぁー。
 「やあ、少年兵! ―――いや、テレイ、じゃったな。すまんすまん」
 振り向くとオウレムさんがいた、同じ馬の世話役なのでテレイとは気が合った、昔、ナイマンの軍下を離れ、チンギス=ハンのもとで戦闘を重ねた武将だったが、年には勝てず、第二線に退ぞいたと彼自身は皆に語っていた。その為皆は「老骨」とか「老いぼれ」と呼んでいた。勿論、テレイにはそんな事を言える立場ではない。
 「なに、また水汲みかい。精がでるのう」
 「そんな事ないですよ。むしろ喜んでやっているんだから」
 オウレムさんは可々と笑い、眠っていた兵士を起こしてあわてて手を口にあてた。
 「酔っぱらいには逆わん方がええからな」
 オウレムさんは言った。そして若いもんには勝てん、そういう事を知ってか皆がわしを見捨ててゆくのだ、などと愚痴をこぼし始める。
 テレイもあまり付き合ってはいられなかったので、
 「ではまた今度お願いします。それでは」
 といって手を振り、水の入ったおけを持って駆け出そうとした。
 そのとき。
 空気を切り裂く様に鋭い馬のいななきが聞こえた。
そしてにぶい音。人のざわめき。
 「何だろう」
 テレイは音の聞こえる方へ振り返った。広場の方だ。オウレムさんはオウレムさんでもうそっちの方へ歩いている。テレイもおけを置き、そっちの方へ向かった。すでにかなりの人々が松明を掲げ、その周りへやって来て、「糞っ!」「やれやれ!」「そこだ!」「なにやってんだ、馬鹿野郎!」などとヤジを飛ばしている。テレイもその人の輪に入り込んだ。そしてその中にひどく激しい息をしている一頭の馬を見付けた。
 一方、馬がじっと凝視している方向には一人の兵士が泥だらけになって、こちらも息をはあはあさせながら構え、馬を睨みつけている。
 兵士が動き出した。そして馬に付いている縄を握ろうとした。すると馬は首を反って縄を空になびかせ、そのまま兵士に体当りを喰らわせた。兵士は吹っ飛び、地面に叩きつけられた。しばらくして兵士は立ち上がったが、すぐに崩れてしまった。
 「傷の手当をしてやれl」
 誰かが叫んだ。倒れた兵士はニ、三人の男達に担がれて、どこともなく運びさられていった。
 「馬に蹴られたというのなら何度も見たことはあるが、体当たりを喰らわせた馬など生れてこのかた初めてみたよ」
 テレイがふと横を見ると、オウレムさんがそう呟いていた。そしてオウレムさんは、そこいらに居る兵士へ手当り次第に、あの馬はどうしたのだ、と尋ね回った。数人が知らないと言ったが、一人がこう言った。
 「あの馬? ああ、あいつは何でもこの村のどっかの片隅にじっとしていたんだそうだ。そいつを誰かが見付けて自分のにしようとしたんだが、踏んだり蹴った
りされてのびちまったのさ。もう四、五人がそうなっちまった。すげぇ馬だぜ」
 にぶい音がして再び観衆がざわめいた。またー人吹っ飛ばされたのだ。そいつは顔をしかめながら片手でもう一方の肩に手をやっていたが、いきなり「この野郎!」と言うなり剣を抜いて馬に切りつけた。すると馬は反転して後ろ足で思いっきり―――恐らくそうであろう―――その兵士を蹴った。兵士は吹っ飛ばされ、少々けいれんしていたが、そのうち動かなくなった。
 さすがに一同はしーんとなった。
 どこかの兵士が再び倒れた兵士を運んでいる間も馬は息を乱し、辺りをひどく警戒している。もはや誰も挑もうとはしなかった。テレイはかたずを飲んでその馬を見ていた。確かにモンゴルの草原にも荒馬は居たが、それらは大抵乗ってからが大変なのだ。乗る前から吹っ飛ばされるなどよっぽどドジでない限りしないと言っていい。恐ろしい馬だ。テレイはそう思った。
 馬は辺りを見廻して、受け見の体制に入っていた。馬の息も整ってきた。それでも警戒を解かずに辺りを見ていた。その顔がテレイの方を向いた。そしてテレイは、馬が自分を見ているのを感じた。
 馬は警戒を解き、テレイの方へ向かって歩き始めた。
 誰もがざわめき、馬が向かっている方向にいる者は慌てふためき、退くか、その場に崩れて、わなわなと。震えている。テレイだけがまるで馬に.魂を吸い取られてしまったかの様に呆然と立っていた。
 「どうしたんじゃ。テレイ。返事をせんかい。馬に踏ンずけられるぞ」
 オウレムさんがわなわなと言うにもかかわらず、テレイはじっと馬に見入っていた。そして馬とテレイの間に道が出来た。
 「今だ! この野郎!!」
 馬の背後からそういう声がかかり、二、三人の兵士が踊り出て、馬めがけて突っ込んだ。テレイははっとした。何か殺気を感じたからである。
 すると、馬はかん高い声―――そのいななきは確かに馬のものではあろうが、とても現世の馬のものとは思えなかった―――を上げ、歩くのを止めると振り返りもせずに体を揺らした。いや、本当は脚で兵士を蹴ったのだろうが、誰もその動作を目に写すことは出来無かった。兵士が飛んできた所の群衆はざわめき、その他の群衆は青い顔をして冷や汗をかき、人によっては訳の分からぬことを呟いていた。
 その馬は何事も無かったかの様に、再びテレイの方へ歩き出した。
 「こら、そこのガキ、危ねえぞ! どけ!」
 誰かがそう叫んだが、テレイには聞こえなかった。
 馬はテレイの前へくると、顔をテレイの顔とこすった。その首をテレイは撫で、笑った。
 誰も口を聞こうとはしなかった。誰も動こうとはしなかった。皆、その可憐な、そして不気味な光景に見入っていた。
 テレイはしばらく体を撫でていると、誰かが言った。
 「君の馬だ。皆は欲しながら馬に許されなかったが、君は馬に許された。君こそ馬の主にふさわしい」
 最初は皆この馬とたわむれる一人の少年に対して嫉妬感が沸き、事実を認めることは出来無かった。だが、それ以外に術は無い。皆はぼそぼそといいながらその場を離れ始めると、辺りは再び暗くなり、静寂が戻った。オウレムさんがテレイのそばへやって来た。
 「テレイ! 見事じゃないか。さすがいつも数多くの馬を扱っているだけあって他の者とはやる事が違うのう」
 するとテレイは馬を撫でるのを止め、照れ臭そうに言った。
 「違いますよ。こいつが僕の所へやって来ただけですよ。自分でも信じられません」
 「わしもこれ程好き嫌いのはっきりした馬は見たことがない」
 「そうですね。僕もそうです。でも、何故かそれが怖いんです。なぜか………」
 「心配するんじゃない。吉兆以外何事でもない」
 オウレムさんは、テレイを羨ましそうに見た。
 「これはいい馬じゃ。わしも何千頭もの馬を見て来たが、形、肉付き、脚、姿勢伴にこれ程すばらしい奴は見たことがない。こいつを走らしたら、すばらしい走りをするじゃろうな。テレイ、これからはこの馬に乗って、いくつもの戦功をたてることじゃな。期待しておるぞ」
 テレイははっとした後、ぼそぼそと話し始めた。
 「でも、僕にはテムテムが………」
 「テムテムか………うむ、心配するな。わしの部隊で引き取っておくから、これに乗りたまえ」
 「………」
 馬がテレイに寄り添って来た。
 「テムテムだってもう年だからな………奴の為にも引退させた方がいいんじゃないかな………心配いらん。大事に扱ってやるから………な、そう思うだろうが」
 「………うん、分かった」そういうとテレイは笑っ
て「テムテムと別れるのは辛いけど、あいつのためには良い事だろうね」
 「別れるといったってすぐ近くだ。いつでも会いに来れるわい」
 「そうだね」
 テレイは馬の方を見て、
 「そうと決まったら、こいつに名前を付けてあげよう。どんな名前がいいかな」
 「もう決めているのかい。せっかちだな」
 オウレムさんはそう言ったが、テレイは口に指をやったまま、じっと考えている。
 「………ラディア、ラディアなんてどうだろう」
 テレイは両目を大きく開いて、オウレムさんを見た。
 「うむ、なかなか良い名前じゃ。しかし、テムテムからラディアか………テレイも少しは大人になったかのう」
 「そうですか」
 テレイが反問した。
 「そうだとも。遠征当初は、ありゃひどかった。馬に何かへばりついているのかと思ったよ」
 「ひどいなあ。あれは単にバテてただけですよ」
 「で、隊長さんに大目玉を食らった訳だ」
 「ええ、まあそんなところです」
 テレイはそう答えてから、ハッとして、
 「いけない! 水を汲んでこなきゃ。すっかり忘れていた」
 そう言って井戸の方へ駆け出して言った。
 なんと無邪気な子なんだろう。オウレムさんはそう思った。しかし、それが戦場では命取りになる。果たしてテレイは遠征を無事に終えることが出来るのだろうか?
 オウレムさんは目の前にいて、若干こちらを警戒しているテレイの馬、ラディアを見た。この馬なら無邪気なテレイの身を無事にできるかも知れない。いや、そうであってくれ。あの子を生かして祖国へ帰してくれ。あの子に悲劇は似合わない。頼む。月明りの中、オウレムさんは、いつの間にかラディアに無言で語り掛けていた。しかし、オウレムさんにはラディアの瞳が悲しく見えてならなかった。

       2

 「なあ、おい」
 こっちを呼ぶ声がする。どっから見付けてきたのか、ペルシャの陶器で酒を飲んでいたボルボックは後ろを向いた。ミンデムと数人の男が立っている。
 「なんだ、ミンデム」
 「話がある」
 そういうと、ミンデムは辺りを見回した。十数人はたき火の前で寝ているか酔いつぶれていたが、他に二人が酒を飲みかわし、それと四人はー緒になってこっちからは良く聞こえないが、郷里の話でもしている様である。
 「やはりここじゃあまずい。こっちへ来てくれ。静かにな」
 ボルボックにはビンときた。そこで彼は、自分の体をゆっくりと持ち上げ、ミンデムの後に付いていった。
 しばらく歩くと、たき火の光も届かなくなり、光といえば月と星、そしてミンデムが今つけた松明位なものである。
 「ここらでいいだろう」
 そういうとミンデム、ボルボックらは腰を下ろした。
 「あの話か?」
 ボルボックから切り出した。
 「そうよ。あのガキめ。出しゃばりおって。とくに今日の行為には皆プンプンだぜ」
 その中の一人が言った。
 「今日も何かしでかしてくれたらしいな。あのガキは」
 「そうよ。あのガキめ………今日とんでもねえ強ぇ敵がいたんだ。俺達の仲間がバッタバッタと殺られながらも、やっとの思いで隅に追い詰めたんだぜ。それでも奴の近くにいきゃあ、奴の餌食になっちまう。えーと………何て名前だったか覚えているか」
 「サエラムだろ。敵の守備隊長だったらしいな。さっきテレイがそのことでキッシャムから又お誉めの言葉を受けていたぜ」
 「そうだぜ、そいつよ。そのテレイが達巻きに待機していた俺達の横をいきなりすり抜けて、そのサエラムという奴に突っ込んでいくと、あっという間に奴を突き飛ばした。いやはやすげえ速さだった。俺も最初は何が何だか分からなかったぜ。そして気付いたら、サエラムとやらが地に伏せおった………畜生め! 少年兵の分際で俺達の獲物をふん捕るとはふてぇ野郎だ」
 「これで恐らくもう六回目だぜ。矢が降る中を敵へと突っ込んで奴らを蹴散らしたり、敵の伏兵が現れる前に攻撃を仕掛けていったんだとよ」
 「そういえば、トッカラの部隊を包囲された中から助け出した時もそうだな………」
 他の者達も、ぶつぶつ言い出した。
 「………そして、その功績は奴の力じゃない。実は全て最近奴が手に入れた馬のお陰だ。奴はその恩恵に預かっている。それが余計にくたらしい訳だ」
 ボルボックが再び切り出した。
 「そうとも、奴の力なぞカスだぜ。あんなゲソ、剣の振り方、弓の使い方すらロクに出来ねぇクセに生意気な野郎だぜ。ふざけんじゃねえ」
 ミンデムがそう言うと、他の者達もうなずいた。いかにも古参兵らしい意見である。左右を見て、ボルボツクが小声で言った。
 「で、どうする」
 「奴には甘い夢だけは見させねぇぜ」
 卑屈な笑いをして、ミンデムが言った。
 「それだけか………」
 「それだけって………まさか」
 「奴をいたぶるだけでいいのかよ」
 「あんたって人は………」
 ミンデムは、再び笑うと、
 「そうだな。剣と弓も持っていころぜ」
 と言った。
 「それじゃあしばらくしたら、皆もう一度ここに集まり、奴を殺りに行く。奴には悪いが俺達だっていつまでもタダ働きはしたくねぇもんな、ヘッヘッ………なに、心配はいらねぇ。奴が死んだってそう悲しむやつぁ皆無だぜ。それに連日味方の大勝利で見回りの奴らも夜襲なぞ考えちやあいねえから夜襲なり、アサシン派なりの見せかけをしておけば、後は何とでもこの俺がしておくぜ」
 ミンデムはそう言い、ちらっとボルボックの顔を見て、何も言わないのを見ると二ヤッと笑って彼は自分の弓を取りに行った。すると他の者達も動き始め、そしてボルボックも………。

 テレイはいつもの様に馬達の所にいた。そしてラディアの顔をじっと見つめていた。彼はその心持ちか寂しげな表情が好きだった。そこにあの戦場で見せる恐ろしい程の武々しさは全く感じられなかった。どう見ても回りにいる馬の方が意気揚々としている。そんなことがテレイにとってみれば、たまらない魅力なのだ。
 この馬が彼の前に現れてから彼はこの馬に非常に助けられた。不意討ちを回避したり、一騎討ちだって相手の馬を倒したり、もちろんラディアのお陰で戦功も立てられた。でもそんな事よりも、その寂し気な目が、この頃風当たりの強いテレイにとって唯一の慰めの様な気がしてならなかった。
 ―――こいつ、何を考えているのだろう。
 そう思ってみたりした。
 テレイは立ち上がり、くんで置いたおけを馬の所へもっていこうとした。すると、人影が近付いてくるのに気付いた。
 ―――なんだろう。こんな夜ふけに。
 テレイはそう思うた。と、同時に背中に冷たいものを感じた。
 その人影はボルボックだった。
 「ボルボックさん、なんですか」
 「いや………馬を少し見に来たもんでな」
 「そうですか………」
 そういって、テレイはおけを再び持とうとした。いや! ボルボックだけじゃない! 他にもこっちへ歩いてくる音がする。
 次にミンデムともう一人の兵士がこっちへやってきた。しかも出てくる場所が皆違う。
 「少年兵! 馬の世話はちゃんとやっているか。ええ?」
 いつものあの卑屈な笑いをしながら近付いて来た。
夜に彼らが馬の面倒を見にきたことなんて、これ迄一度も無かった。テレイは怖くなった。テレイはおけから手を離す。
 「こいつ逃げる気だぜ」
 ミンデムが、かたわらにいるもう一人の兵士に呟く。
 「逃がすな、やっちまえ!」
 ミンデムがそう声をかけた。テレイは思わずミンデムと反対の方へ逃げ出そうとした。しかし、そこには一人の男が立ちはだかっていた。彼は左手でテレイのエリを掴み、持ち上げて、右手でテレイの頬を思いっきり殴った。テレイは吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。すると、そこにいた数人の男達がテレイの周りにやって来た。ミンデムがテレイの頭にツバを吐きかけ、足でテレイの体を押さえつける。
 「そろそろやっちまうか?」
 ボルボックがミンデムに向かって言った。
 「いや、俺達のみじめさを体ではっきりと分かってもらう迄は止めねぇぜ。じっくりいたぶってやる」
 そう言うと、ミンデムは腹を思いっきり蹴った。テレイは低くうなった。うつ伏せになった横顔からは苦痛の色がうかがえる。
 バキバキ! いきなり馬舎の方からきしむ音が聞こえてきた。ボルボック達が驚いてその方向を見ると、一頭の馬がいきり立って息をはあはあさせていた。ラディアだった。彼のたづなは途中で切れており、ひどくもがいたのだろう。口の辺りには赤い血で染っている。そして馬はこちらへと歩いていく。
 「な、なんだ、この馬は………まさか主人を守ろう
ってんじゃ無いだろうな」
 彼らの一人が言う。
 「上等じゃねぇか。俺が勝負してやる」
 「待て、ミンデム。簡単に奴を相手にしようと思うな。奴に吹っ飛ばされたのは一人や二人じゃねぇんだ」
 ボルボックが叫ぶ。
 「ここは折角持って来たのだ。弓矢を使おう」
 そう言うと彼は背中につけておいた矢を外した。
 他の者達も同様にする。
 ラディアは辺りを警戒しながらテレイの身を気付かい、上に乗せようとした。テレイはよろめきながら立ち上がった。しかし、遅かった。ミンデムは既にラディアやテレイに狙いを定めていた。
 「………ラディア………お前はこれまで良くやってきてくれた………今でもその一つ一つを忘れはしないよ………ありがとう………今まで………」
 はあはあ息をしながらラディアに左手を掛け、途切れ途切れに声を掛けた。
 「ほざけ小僧! 貴様の運命もここまでだ」
 ボルボックが言った。
 「そうとも。ゲスはゲスなりの人生を歩みな」
 今度はミンデムがニヤニヤしながら言った。
 「それが運命というものさ」
 その言葉をミンデムが放った時、ラディアはミンデムの顔を思いっ切り睨みつけた。その目は赤かった。
 「うわああ………」
 ミンデムが、いきなり叫びまくり、狙いも定めず矢を二、三本放ち、にぶい音がして彼の頭は………四散した。
 ボルボックらは、そのおぞましい光景によってすっかり狼狽してしまった。そのスキを狙うかの様にラディアは前を向き、兵士に向かって叫び声―――もはや馬の嘶きではなかった。正に龍の叫び声であった。―――を発しながら突進していった。すると、ラディアの口は割け、歯は全て犬歯と化し、蹄は割れ、鋭い爪となり、耳は角へと変貌した化物―――馬龍―――となつていた。
 刹那の間だった。いか程の者がその馬の実体を見たであろうか。辺りはボルボックらの血で染まり、ラディアもその返り血を浴びていた。だが、あのおぞましい姿も次第に息が整のるに連れて元の姿へと戻つていく。馬は後ろを向いた。そこには自分の主人であるテレイが居た。
 青ざめたテレイは、わなわなと震えていた。
 ラディアは、テレイヘと近付いて言った。そして、いつもの様に主人へ寄り添おうとした。だがテレイは一歩、また一歩と退ぞいてゆく。そして………彼は剣を抜いた。
 「来るな!」
 テレイは叫んだ。
 「来るな、バケモノ!」
 テレイは目をつむった。そこから涙が溢れ出てくる。
 ラディアは、はっとしたかの様に止まった。
 「バケモノめ、近寄るな!」
 再びテレイが叫んだ。
 「くるな、さっさと消えてしまえ!」
 ラディアは寂しげな顔をした。だがもはやテレイには通用しない。
 「来るな!」
 ラディアは一歩一歩と退ぞき始めた。
 「さっさと………さっさと………どこかへ行ってしまえ!」
 ラディアは後ろ向きになり、テレイの方を伺っていた。そして………泣きじやくるテレイを後にして歩き始め………そして走り去って行った。
 「来るな………来るな………来るなあ!」
 テレイは半ば狂ったかの様に叫び続けた。そしてへなへなと地面に崩れ落ち、顔を下にして、泣いた。
 「少年兵! どうした」
 そんな声と伴に数人の男がこっちへむかって駆けて来る音が聞こえて来た。キッシャム隊長を始めとする隊の他の人達だ。彼らはおぞましい声―――恐らく馬龍の声だろう―――を聞き、何事かとやって来たのだ。彼らは馬舎の人口で足を止めざるを得なかった。そこにはボルボックやミンデムらの肉片があちこちに散り、地面はその血を吸い、一部では既にどす黒くなっていた。馬舎にいた馬達もその光景を見てひどく興奮している。
 「ひ、ひでぇ」
 一人の兵士が言った。二、三人がその光景を見るや否や口に手をあててどこかへ行ってしまった。他の兵士達もその光景をまのあたりにして呆然と突っ立っている。
 「どうした少年兵! 答えろ」
 キッシャムがテレイに向かって怒鳴った。
  「………」
 テレイは黙って下を向いたまま座っていた。
 「何があったんだ! 答えろ! おい、口が聞けないのか!」
 「………僕です。僕が悪いんです」
 そう言うと、テレイは顔を上げた。その顔には涙が溢れていた。
 「すみません! 僕が悪いんです。こうなったのは全て僕の責任です。僕がこの惨事を引き起こしたのです。隊長! 僕には覚悟が出来ています。隊長………僕が………僕が………」
 テレイは再び地面に倒れた。
 キッシャムは,その場に立ちつくしている。何か考えているらしい。他の兵士達もキッシャムの次の行動を待っている。
 キッシャムは、そのおぞましい光景を見ているうちに、ある事に気が付いた。
 「少年兵! お前の馬はどうした」
 「ラディア………知りません、あんな馬、あんな馬なんか。知りたくもありません」
 キッシャムには、ある予感がした。すると彼はすぐに行動へ移した。
 「エイレス、タンガル」
 キッシャムは横に居た兵士を呼んだ。
 「はい、隊長」
 「お前らは監視哨へ行って夜襲があったことを知らせて来い。敵は不明、味方の損害十六名、すべて死亡、だ。奴らは馬を奪って逃げたらしい。以上だ。
 「分りました、隊長」
 そう言うと、二人は大急ぎでその場を立ち去った。
 「トイスフ、ライタム、そして少年兵は、この場所をあらされない様に監視しろ。他の者達は戦闘用意をしておけ。来てない奴にも連絡しておくんだぞ。しば
らくすれば敵襲を告げる鐘が鳴る筈だ。それと同時に夜襲部隊と協力して追撃に当たる。部隊編制はいつも
通りだ。ただし、隊長はランガイムが務めろ」
 「隊長はどうなさるのですか」
 ランガイムが聞いた。
 「俺はこれから閣下に夜襲のいきさつを話しに行く。ランガイム、頼んだぞ」
 「は、はい」
 彼は敬礼をすると、すぐさまキャンプヘ戻っていった。早い者になるともう戦闘装備を整え、ある者はこの場へと戻ってきてテレイに任せていた自分の馬を取りに来た。ただ、その前にテレイの方をチラッと見て。
 テレイは地面にしゃがんでいたが、しばらくして立ち上がった。
 キッシャムがそばに寄って来た。
 「お前は疲れているだろう。少しだけ座っていることを特別に許す」
 「隊長………なぜ………」
 「バカ者、貴様にこれだけの事が出来ると誰が信じ
るものか。それに………」
 キッシャムはテレイの方をちらっと見た。
 「自分の命ぐらいは大切にしろよな。こんな寂しい所で死んだってつまらねぇぜ」
 そう言うとキッシャムはつかつかと歩いていった。
 「いずれ夜襲が起きることは文献に載っているんだ」
 と呟きながら。
 テレイは隊長の去る方向を見ていたが、そのうち大きな声で
 「はいっ」
 と答えた。
 しばらくすると遠くの方から鐘の音が聞こえて来た。そして馬にまたがったテレイの隊の人々は「それっ」という声と伴に馬を駆けさせた。
 乾いた土を馬が蹴り、砂塵が舞う。テレイは隊の人達に敬礼をすると、座ることなく他の二人と伴に監視を行なった。

      3

 一二一九年も終わりの頃、チンギスハンは順調にシルダリア川の沿岸にある村々を壊滅させていった。別動隊も戦争の発端となった都市、オトラルを陥落させた。本体の渡河作戦も順調に終わり、ホラズム帝国の首都、サマルカンドまでの残るは目の前に広がるキジクーム砂漠だけとなった。今、モンゴル軍は、この砂漠を渡る為の前準備でてんてこ舞いだった。
 この焦土と化した村の一角でも兵士達がひっきりなしに動いていた。太陽が兵士達に強烈な光を浴びせつける。彼らは上を向く暇も無く、下を向きながら荷物を担いでいた。
 「俺たち戦闘員がなぜこんなことをしなければならないのだ」
 ある兵士が叫んだ。しかし誰からも反応が無かった。誰もが話す気力など無いのだ。
 一人の兵士が倒れた。だが誰も助けようとはせず軽蔑の眼差しをその少年兵、テレイに向けるだけだった。テレイは汗をぬぐい、ゆっくりと立ち上がろうとする。と、誰かが肩をたたいた。振り向くと、オウレムさんだった。
 「テレイ、どうした。この頃おかしいぞ。武器を落としたり落馬したり、ちょっと前までじゃあありえな
かった……」
 「オウレムさん、大丈夫ですよ。気にしないで下さい」
 オウレムさんは今まで戦って来た方向を見、それからテレイを見、話し掛けた。
 「やはりラディアか……」
 「違います!」
 テレイは□をつぐみ、オウレムさんをじっと見た。
 「変なことを言わないで下さい……思い出したくもない」
 テレイはオウレムさんの顔を見ながら立ち上がり、荷物を担いだ。
 「ではオウレムさん、当分は補給隊として働くそうですから先輩としてよく見ていて下さい。きっと遠征が長びいて疲れているだけです。余計な心配をお掛け致し誠にすみませんでした。では任務に戻ります」
 オウレムさんの呼び止める声を必死で無視し、テレイは隊列の中へと消えていった……。

 夜になった。川のほとりとはいえ、目の前は広大な砂漠だ。テントの中にいても寒さが身にしみる。戦利品のペルシャの織物を身にまとって、テレイは誰が書いたか知らないが草原を走る馬にまたがる男の絵に見入っていた。次第に馬の顔がラディアに見えてくる。
 ――一度、モンゴルの草原で走ってみたかったな。―――
 彼はそう思った。でもあいつはバケモノだったんだ。今さら話にもならない。
 「テレイ、いるか。」
 
 

 テントの外から声がする。
 「はい、います」
 「いるのは分かっている。交代の時間だ。早くしろ」
 そういうと外の影はつかつかと歩き去った。テレイは立ち上がり、武器を確かめてからテントを出て、その馬、テムテムと監視塔へ向かった。
 テレイが配属命令を聞いたのは日没の頃だった。何でも最近渡河作戦で戸惑つているモンゴル軍に対し、ホラズム軍の残党が夜間に奇襲攻撃をかけ、多大の損害を被ったそうである。この為キッシャム隊は以前夜警部隊と協力したこともあり、補給隊から外されたのである。奇襲の跡、それは至る所にあり、テムテムの馬上からも良く見えた。死体こそ葬られてはいるが、モンゴル軍の攻撃の際にも生き残っていた家々も完全に破壊され、石ころのみが転がっている。テントの押し潰された物もあり、生々しい。それら被害の大きな所へ行ったところに監視塔があった。監視塔といってもせいぜい家より高い位で、二人程立っているに過ぎない。正にここから攻撃して下さいと言わんばかりだ。
 「交代です」
 テレイは監視塔の横の城壁にたむろする兵士達に声を掛けた。
 「御苦労さん」
 そう言って兵士たちは振り向くのだが、テレイの顔を見ると、そそくさと、何かひそひそ話をしながら歩き去っていく。テレイは他の人達とは少々離れて砂漠の地平線を見続けた。テレイも既に慣れ始めていた。あの惨殺事件によりテレイを見る人々の目は変わった。それをやったのはテレイではないかという噂が一部で流れているのである。今でこそたびたびだが、あの日に夜襲があったなど誰も信じはしなかった。あいつは悪霊だ。そう言う人も多くいる。奴はいつもは大人しい顔をしているが、夜になると生き血を求めてさまよっている。あの馬も、そのキバにかかったのだろうな。そんな話もあった。もともとラディアに会ったときから不気味がられていたのだから仕方が無い。こうして以前押しつけられていた様々な仕事はしなくても済む様になった代わりに、他の人達とは隔離された生活を強いられるハメになった。
 砂漠の夜は厳しい。とにかく寒い。その中、テレイは城壁から前方を凝視した。城壁と言ってもテレイの肩程だ。砂よけと言っても良かった。その砂が時折風に乗って舞い込んでくる。テレイも砂まみれになってしまつていた。それでも凝視を続けていた。テムテムはうなじを垂れて干し草を食べ、時折顔を上げていた。テレイも地平線を見るのに飽きてきた。実際にこんな地面の上から見るよりも監視塔から見た方が若干とはいえ良く見える。テムテムの為に置いておいた一握りの干し草も、もう無い。干し草をもらいに行こうと思い、服をはたいていた。
 「敵襲だあ!」
 突然、監視塔の兵士が叫び、ドラムの音がガンガン鳴り響いた。テレイは服をはたくのを止め、城壁から砂漠の上を凝視した。
 砂漠の中でーヶ所もうもうと煙が巻き上がっている。その中に人馬の影が見え隠れする。四、五人じゃないぞ。十数人……いや、下手すれば七、八十はいるぞ。テレイはそう思った。
 「どけっ」
 いきなり頬に激痛が走り、倒れた。振り向くと、剛腕な兵士が上半身裸で弓を引いて、砂塵の方を狙っている。後ろでは身なりの良い将校が「弓矢の用意、弓矢のようい!」と叫んでいる。テレイは頬を押さえながら城壁から離れ、テムテムに乗ると集合場所へと向かう。すでにテレイの隊の人達や仮夜警部隊の人達が多数集合していた。夜警部隊のこの場の責任者らしき人達が前へ出て来て、門の方を凝視している。
 「射ち方始め!」
 将校がどなった。次々と弓矢が放たれる。一瞬テレイは弓矢で敵が全滅するなり退却してくれないかと思った。しかし、日頃の行為を見直させる為にはこの戦で戦功を立てればいいんじゃないか。そう思い直し、漆黒の閣の中、馬のたづなを強く握りしめた。
 「うわっ!」
 監視塔の兵士が落ちていく。兵士には矢が突き刺さっていた。弓を射る者も何人か傷を負い始めた。
 「そろそろ来るぞ」
 テレイの隣の兵士が呟いた。
 馬の駆ける音が段々大きくなってくる。いよいよ来る。彼はそう思った。
 バキバキ! いきなり大音響がして監視塔が倒れた。砂塵が舞う。「うわ!」「逃げろ」「助けてくれ!」監視塔周辺では叫び声が上がる。
 「ちくしょう。ヤツめ……いつもながら派手なことをしてくれるぜ。」
 夜警の古参兵らしき兵士が呟いた。ヤツ……? テレイは思った。そう言えば奇襲攻撃を掛けてくる敵の中にとてつもない兵士がいることは聞いていた。ただそれだけしか聞いていないが、今に分かる。
 「門を押さえろ! ちきしょう! おい逃げるな! わあ! 開くぞ!」幾人かの兵士が門を押さえていたが、敵は凄じい勢いでぶつかってくる。二、三人がおじけづいたとき残っていた兵士もろとも門は吹っ飛んだ。そして敵の騎馬隊が突っ込んで来る。その先頭を走るはきらびやかな武装の兵士と、それを乗せた馬だった。
 ――彼が例のヤツか?
 テレイはそう思い、弓を背中から取り出した。
 「しっ! 命令があるまで動くな」
 隣の兵士が前方を凝視しながら言った。
 ――ワナ、か?
 テレイは弓を下ろしながら思った。敵は慌てふためく友軍を蹴ちらして奥へと進み、弓矢で火をかけて火の手が上がった。するといやにかん高い鐘が鳴った。前にいる古参兵が
 「進め、進め!」
 と叫んでいる。テレイも負けじとテムテムに声を掛けながら進んだ。今まで暗くて分からなかったが、いつの間にか大勢の軍が配置されていたらしい。それらが僅かな敵軍へとなだれ込み、雨あられと矢を浴びせかけた。敵は完全に意表をつかれたらしい。足並もそろわず元来た道へと撤退しようとした。だが、多くの兵に立ち塞がれ、次々に矢に体を穴だらけにされて、のけぞる様にして落馬してゆく。
挿絵 しかし単身一騎、モンゴル軍を高く蹴散らしながら逃亡する兵がいた。間違い無い。あのきらびやかな、ヤツだ。
 「走れ。ヤツを逃すな」
 馬の駆ける轟音と砂塵の中、数百という騎兵が進撃を始めた。だが次第に離されてゆく。
 「弓を射よ。」
 大声で叫ぶ将兵の声によって弓が放たれ、空気を切裂く音が辺りに響いた。夜に、しかもこの砂塵の中で月明りと松明だけを頼りに隊列を乱すことなく弓を射る彼らはベテランであった。だが、一本として当たらない。
 ――まさか、あの矢を避けている……のか。
 テレイは思った。
 鐘が鳴った。引き上げの合図だ。振り向くと確かにかなりの距離を走った。これ以上追い討ちをかけるのは危険だと判断したのだろう。一騎の為に数百の将兵の命は救えない、という訳だ。命令には逆らえない。将兵達は仕方無く、元来た道を戻り始めていた。だが、
 「御免!」
 そう言って友軍の止めるのも聞かずに駆けていった兵士が一人いた。テレイだった。
 テレイはテムテムにはっばをかけながら敵を追った。だがテムテムとて年を食った馬だ。なかなか敵に追い着けない。それどころかどんどん引き離されてゆく。
 ――敵の首を取るんだ。取って僕の力を見せつけてやる。こっちの本当の力を見せて、あの馬によって今まで戦功を立てたのでは無いことを証明してやる。
 敵は山岳地帯へと入り山中を走った。テレイも負けずに追う。山を左にしたがけ道なので、敵も見え隠れはしても、幸いー本道なので見失わずにすみそうだ。しばらく追いかけると日も昇り、テムテムも限界に近付いて来たのが見て分かる。先の道は左へと折れ曲り、ガケの為に隠れて見えない。だが、その先に見える道は誰も通らない、ということは曲がったところにいるのではないか。テレイはそう考えた。その曲り角までテムテムを励まし、曲がったとき、ヤツはいた。
 ヤツは馬に付いた返り血やほこりを拭いていた。彼をの身につけた武装が、きらびやかなだけに光に当たってまぶしい。馬にもそれなりの武装を施していた。が、馬をあらためて見て、テレイははっとなった。相手もテレイに気付いた様である。
 「まだいたか。悪賊めが」
 まぎれも無い、女の声だ。
 「馬よ、再び悪賊を叩きつぶせ。奴の魂を地に叩き漬けろ」
 女が叫ぶ。だが、彼女の馬は主人の命令に従おうともせず、じっと前の兵士を見続けている。
 「何をしているんだ。もはや常の姿をするまでも無い。化けて奴の命を地獄へ送り付けろ」
 女がいかに叫ぼうとも馬は動かなかった。いや、それどころか敵の兵士は涙をはらはら流しながらこっちへ向かって来るではないか。
 「来、来るな!悪賊めが」
 女は叫んだが、逆に兵士の足を早めたに過ぎなかった。剣を抜こうとしたが、慌てていた為に二、三回カチカチと音を鳴らして抜けず、その地から二、三歩退いた.敵の兵士は馬へと向かい、抱きついた。
 「ラディア……」
 ラディアはテレイヘ顔をすり付けてきた。テレイは「よせよ、よせよ」泣きながら笑っていた。
 「御免! 僕が悪かった。許してくれ……ラディア……」
 女は茫然と突っ立っていた。しばらくあっけにとられていたが、再び叫んだ。
 「馬よ。何をしている。奴を叩きつぶすんだ。私のかたきを討ってくれるんじゃなかったの」
 するとラディアは耳をびくっと動かし、二、三歩テレイから退いた。そして……向きを変え、フウッと強い鼻息を立て、たてがみをなびかせ、女をにらみつけながら一歩一歩と向かっていく。
 「よ、よせ。何を血迷っているの」
 女は一本道を一歩一歩と退いてゆく。テレイにはピンときた。
 「やめろ!」
 彼は叫んだ。だが、ラディアは耳を貸そうともしない。
 テレイは殺気を感じた。
 「危ない!」
 テレイは駆け出してラディアの横を通り過ぎた。ラディアは女だけをにらみつけていた為それに気付かず、突進を始めた。
 「もうやめてくれ。」テレイは叫んだ。「もう殺戮はやめてくれ」
 女の前にテレイは立ち塞がり、泣きながら叫んだ。「頼む。もう止めてくれ」
 ラディアははっとなり、駆け出すのを止めようとした。遅かった。テレイはラディアの突撃をもろにくらい、吹っ飛ばされてしまった。