目覚めよと呼ぶ声が聞こえる/麻巳村 A一 雨の降り頻る日暮れの住宅街。その中の人通りの少ない道、その道路際から頻りと仔猫の泣き声が聞こえる。
 その道を歩いてきた少女は、泣き声にふと立ち止まった。彼女は辺りを見回し、その泣き声の主を見つける。そして傘を差しかけながら、優しく話しかけた。“どうしたの? こんなに濡れちゃって。おいでよ”
 そう言い、少女はその仔を抱き上げ、家路を急いだのだった。


“ミャ、ミャミャ”
 仔猫が少女の机の上に座って、彼女の動かすペンの飾りにじゃれつく。
「だめよ、りく。そんなことしちゃ」
 少女はりくの頭を撫でながら言う。彼女の背後のベッドに転がった少女が、姉の姿を見て言った。
「お姉のペンに動く物がくっついてるからだよ」
「そうか。そうだね、南澄」
 彼女達はあの拾ってきた仔猫に『りく』と名付けたのだった。


挿絵 少女が一人、高校の校門から出て来る。穂波、あの少女だった。
 彼女は薄暗い公園を通り掛かる。カサカサと風もないのに木の葉が鳴った。彼女が恐る恐る振り向くと、ナイフを持った男が背後に迫っていた。悲鳴を上げる間もなく、口を塞がれる。
 男はひたひたと、サバイバルナイフか、頬を叩く。
 穂波の舌は喉に貼りつき、眼には涙が浮かぶ。
そして、男は左手に持ったナイフを彼女に腹部に突き立てた。
 血が流れ落ちる。少女は口を戦慄かせた。彼女の手が虚しく宙を切り、そして崩れ落ちていった。


 少女の部屋でりくが頭をもたげる。南澄は気付く風でもなく、幸せそうに眠っていた。りくは感じた、虫の知らせを。
 そして、一声鳴くと部屋を、家を飛び出して行くのだった。


“ミャァーオ、ミャァーオ”
 仔猫が鳴きながら公園の中を探っている。少女の姿を捜しているのだった。
“ミャァーオゥ”
もう一声鳴く。
 血の臭いが漂っていた。それにりくは気付く。少女が倒れていた、そのまわりには血溜まり。彼女は死んでいた。その血溜まりの中に座り込むりく。
 りくは穂波の血の臭いを嗅いだ。身繕うように、躯に付いたそれを砥め取る。りくは一瞬たじろぐ。が、その少女の腹部から覗く臓物に咬みついたのだった。
 サワサワ、サワ……。風もないのにりくの毛が波打ち始め、りくの体躯が大きくなってゆく。だんだん、人型に近づく。前脚は腕へと、後脚は足へと。しかし、猫耳と尾が獣の名残として残っていた。
 彼女は変態が終わると、その前脚であったもので、
少女の、穂波の腹から子宮を掴み、
引きずり出し、貪り食らうのだった。


 南澄は登校していた。教室の自分の席で頬杖をつき穂波の形見のペンを弄びながら、ぼーっと窓の外を眺めていた。
「な、ず、みっ。おはよっ」
 歩夢が声をかけてくる。現実に引き戻された南澄が泣き腫らした瞳を彼女に向ける。彼女は明るく南澄に話しかける。南澄にはその心遣いが嬉しかった。
 二人は途中まで一緒に帰った。別れ際、りくは、仔猫に戻ったりくは二人を見つけた。彼女は明るい歩夢の笑顔に惹かれ、彼女を次の獲物と決める。口許に嗤いを浮かべ、そこから消えたのだった。


 その夜、歩夢は南澄の家にやって来た。
 歩夢がいつもと雰囲気が違うとでも云うように、部屋の中を見回しながら言った。
「これね、ノート。それにしても南澄らしからぬ曲流してるね。どうしたの」
 その物言いに南澄は澄まし顔になって応える。が、フッ、と寂しげな顔になり、呟いた。
「お姉が好きだったんだ……。あたし、こう云うの興味なかったのにね」
 歩夢も悲しくなり、
「きれいなメロディーね」
そう、言うのだった。
“ミャァーオゥ”
 仔猫の鳴き声が歩夢の足元からした。
「りく」
呼びかけながら南澄はその仔を抱き上げる。りくは彼女の腕の中で丸くなるのだった。
 歩夢が申し訳なさそうに言う。
「もうこんな時間、ごめんね、帰らなくちゃ」
「帰っちゃう?」
 南澄が寂しそうに尋ねた。
「じゃ、送ってゆくよ」
 彼女は明るく言った、頼もしそうに……。


 二人はあの公園に差しかかる。歩夢が一歩先を歩いてゆく。彼女は唐突に振り返り、南澄の瞳を覗きながら言う。
「南澄、……いつでも相談にのるよ」
 南澄はそんな歩夢を愛しく想った。
 彼女を抱きしめる。彼女は南澄の胸に顔を埋め、囁いた。
「南澄が男の人だったらって……」
 その告白に南澄は瞳を見開く。
「好きになっても、……いい?」
 彼女が瞳に涙を浮かべて、尋ねた。
 南澄は応える代りに、彼女の顎に手を掛ける。上向かせ、唇を重ねた。


 南澄が帰ると、ふたたび、りくがいなくなっていた。そして、自分の部屋の広さに愕然となってしまった。
 歩夢も帰りつき、ぼーっと南澄のことを想っていた。そこへ、南澄からだと云う電話が入る。彼女は不審にも思わず、家から駈けだして行った。
 彼女が公園に着いた時には誰もいなかった。その足元を仔猫が鳴き声を上げ、摺り抜けてゆく。りくだった。彼女は気付き、呼びかけたが、そのまま通り過ぎて行ってしまった。
 南澄が歩夢に電話する。すると、歩夢はすでに呼び出されていた、自分の名で。
“胸騒ぎ、悪い予感がする”
彼女は家を飛び出して行った。


 りくが通り過ぎてゆき、歩夢は彼女を呼んだ。その背後に、いっかの獣人が現れる。足音も立てずに彼女に近づき、彼女が気配を感じて振り向いた時には、もう遅かった。
 彼女の服がりくの爪に引き裂かれ、ズタズタになる歩夢は逃げ惑い、とうとう一糸纒わぬ姿となり、投げ出された。
 りくは転がした歩夢の下腹部に爪を立てる。そして穂波と同じように引き裂いたのだった。


 南澄が息を弾ませながら公園に着いた。時、すでに遅く、歩夢の腹は斬り裂かれていた。
 彼女の気配に歩夢の、生贅の傍らに跪いたりくは振り向き、声を絞り出した。
「な、南澄……」
 南澄が悲鳴を上げようとするが、が、喉が動かない。りくは片手を腹の中に探り入れ、一息に子宮のみ掴み出した。歩夢の躰が震え、痙攣を起こす。この時になって、やっと南澄の喉が動いた。
「い、いやぁーっ!! 歩夢ーっ!」
 歩夢の横たわった躰に駈け寄る。
 りくは子宮を掴んだまま、その傍らから一歩、一歩静かに離れて行こうとした。
「な、なぜ……? どうして……」
 南澄が歩夢を抱きかかえ、涙を流しながら呟く。そして顔を上げ、キッ、と彼女を睨みつけ、叫んだ。
「どうしてっ!?」
 りくは彼女を寂しげに、悲しげにしばらく見つめ、駈け去って行った。彼女の脳裏にその姿を焼きっけながら……。


「……み、な……み、だよ……ね」
 歩夢が息も絶え絶えに南澄を呼びかける。
「だって、いい……匂いが、す……」
「歩夢っ、歩夢ーっ!! ……ねぇ、息してよ、ねぇ」
 南澄の腕の中で歩夢は息絶えた。それでも、南澄には彼女の死んだことが信じられず、彼女を呼び続けたのだった。


 南澄は机の前に座り、組んだ手に額を乗せ、考えていた、あれのことを。
 あれは人の姿をした『猫』だった。顔は人と変わらないが、耳が違う。頻から胸にかけ、背の腰部にかけ毛皮が広がり、そして、尾があった。下腕部と脚の膝から下も毛皮で覆われていた。
 南澄は想った。
“誰も、信じてくれない、あれのこと。あれは、あたしの名を知っていた、あれは……”
 彼女は立ち上がった。姉の、穂波の形見のペンを握り締め、キッ、と顔を上げ決意する。
“お姉、歩夢……仇は討ってあげるよ”
 南澄は、父のナイフを取り出し、刃を引き出す。ポケットナイフ、フィッシャー用の、バタフライタイプだった。
 その刃に顔を映し、思う。
“これじゃ……。でも、あたしの役目なんだよね”
 彼女は一瞬、決意を鈍らすが、歩夢に、穂波に同意を求めるように、頷いた。


「お母さん、ちょっと手紙出してくるねー」
そう、奥へ声を掛け、南澄は家を飛び出してゆく。目を瞑り、心の中で母に謝る。
 その後ろ姿を、りくが、猫のりくが塀の上から見ていた。
 晴れた夜、空には満天の星がざんざめく。
 りくは彼女を見送り、その後を追って行った。


 穂波と歩夢の殺された公園に、南澄は着いた。その中を見回し、思う。
“手懸りはこの公園だけ……”
 注意を払いながら、歩き出す。その背後に忍び寄る影。南澄は気付かない。その影は彼女に抱きつき、口を手で塞いだ。彼女はポケットの中を、ナイフを探ろうとするが、羽交い締めにされ、手が届かない。
 男は低い声で、静かにしろ、と言う。
 しかし、その男の背後からも腕が伸びてきた。それに、男も南澄も気付かない。
 その手に爪が煌めき、男の頬を引っ掻いた。
「ぐがあぁっ!」
 男が悲鳴を上げ、南澄を突き放し、頬を押さえながら、地を転げ回る。
「くっ、くそお!」
 その手に溜まる頬から流れ落ちる血に、男は逆上した。立ち上がり、南澄を追おうとする。だが、彼女を守るようにりくが、男の前に立ち塞がる。その姿を見た男は焦った。
「変な恰好してんじゃねぇー!」
 雄叫びを上げながら男は、りくに眺びかかる。りくはそれを避けようともせず、腕を一振りさせた。男が、ふっ飛ぶ。
 男は躯を起こし、彼女を上目遣いに仰ぎ見ながら唸った。
「ば、化け物がっ」
 その言葉がりくの心に鋭く突き刺さった。彼女は我を失い、男を襲った。
 彼女の爪が煌めき、舞い躍る。危険な舞いだった。男は動けなかった。彼女の頬に、躯に、男の血が飛び散る。彼女の指先が、男の喉を捉えた。


 南澄にはその彼女の葛藤を見つめていることしかできなかった。彼女が振り返り、南澄に哀しげな微笑みを見せた。そして、何も言わずに歩み去ろうと、背を向けた。
「ま、待って!」
 南澄が一歩、脚を踏み出しながら、彼女に呼びかけた。
「あなたが……、お姉と歩夢を殺したの?」
 あれが立ち止まる。
 彼女はある詩を口ずさみながら、振り向いた。
「……朝の輝きのうちに、なんじは
   わが身辺を……」
挿絵 南澄はその詩に茫然としながら、呻いた。
「……」
「穂波が好きだった詩だ。彼女がよく口ずさんでいた。……この、胸の模様に見覚えがあるだろう」
 あれが胸に手を当てながら、静かな声で言う。南澄はその間に立ち尽くした。
「そんな……。まさか、りく?」
「そう、穂波が名付けてくれた」
 あれが穂波を想い出すように、視線を天に向ける。「ば、ばかなことを。あ、あれは猫……」
 南澄がりくを見ながら言う。りくは彼女に視線を戻した。拳を握り締めている。
「南澄は、この姿を見て、何とも思わないのか!? この半獣半人の姿を見て!!」
 南澄に言葉を叩きつける。そして、俯きながら言葉を継いだ。
「私は……、造り出された生物だ。……この姿を否定しようとする知性と、肯定しようとする凶暴性。その男が言っていただろう? 化け物と……」
 そう言い、あの死んでいる男を指差し、南澄に背を向けた。
「……私は逃げ出し、疲れ果て、踞っていた所を穂波に救われた。二人とも優しかった。だから仔猫のままで死のうとした」
 りくの哀しげな告白が続く。南澄はそれを別次元の話のように聞いていた。
「だが……、殺されていた穂波を見た時、私の中で何かが目醒めてしまった」
 南澄は、現実に戻る。
「殺されていた!? あなたじゃないの!」
 りくの背中に叩きつける。彼女が振り向いた。
「違う! 私ではない」
「歩夢を殺したのは誰よ!?」
 南澄はその応えを拒否するように激昂した。
「そ、それは……」
 りくは言うべき言葉を失った。ふたたび、彼女に背を向ける。そして、自分の肩を抱きながら言った。
「それは、私のせいだ、私の……。だが、穂波は!」
「うそよっ!!」
 南澄が叫んだ、ナイフを取り出し、身構える。りくに斬り付けた。
「話を聞け。南澄の悲しむ顔など……」
「話なんかない!」
 りくの言葉を遮り、ナイフを投げ付けた。両刃のナイフ、それがりくの頬を掠めてゆく。彼女は呆気に取られた。
「なるほど。ならば、容赦しない!」
 血に飢えた獣の顔になる。
「……あくがるる愛に向い、
   下り来たる、
   わが方ヘ! わが方へ!」
 そう詩い、手を差し出しながら脚を踏み出す。
 その一瞬の隙に、南澄はりくの背後に落ちているナイフに跳びついた。その時、穂波のペンがスカートのポケットから溢れ落ちる。が、彼女達は気付かなかった。
 南澄はナイフを拾い、気合いとともにりくを斬り付けようと、飛び込んでゆく。しかし、りくは冷やかな笑みを浮べ、ことごとく避ける。
 そして、彼女のナイフを持つ手首を蹴り上げた。ナイフが地に突き刺さる。
 りくの瞳が南澄の瞳を射る。彼女の視線が南澄の躰を縛る。りくが詩いながら南澄に、一歩一歩近づいてゆく。
 彼女の肩に腕を回し、唇を合わす。もう、一方の手は胸に伸びてゆく。南澄は瞳を開けていることが出来なくなった。彼女に躰を委ねる。彼女の唇が徐々に南澄の躰を這い下りてゆく。
「甘い……、この躰が融けてしまうような甘さは何? この愛しさは何?」
 南澄はりくに躰を奪われながら、そう感じていた。自分の胸を抱きしめる。そして、腕を伸した。その指先が何かに触れる。
 目を開け、頸を動かし、それを見た。
「お姉……」
 彼女は想い出す、穂波の形見のペン、それを握り締め、胸に抱いた。りくがそれに気付く。彼女も穂波を想い出した。
 そして、りくのすべての動きが止まった。その,一瞬に賭け、南澄はキャップを跳ぱし、ペン先をりくの胸に突き立てた。りくが理解できず茫然とする。
 三度、ナイフに跳びつく南澄。ナイフを構えて、りくの懐に飛び込んでゆく、穂波と歩夢を想いながら。
「お姉と歩夢の仇!!」
 そう叫んで。
 りくは避けようともせず、哀しげな微笑みを湛えて、腕を広げて彼女と持ち受けた。
 ドスッ! 勢いに乗ったナイフがりくの躯に、腹部に突き刺さった。りくはその南澄に腕を回し、抱きしめようとする。
「南澄……、おまえの優……しさ、感謝……し……て、……る」
 そう言いながらりくは、ズルズルと崩れ落ちていった。
 りくの肢体が地に横たわっている。その頭を南澄の膝の上に乗せ、手を南澄が握っていた。


 突然、南澄の喉が鳴った。そして、彼女の含み笑いが響き始めた。南澄はりくのモノを掴み出し、それを嘲いながら、口にした。
 そう、南澄の中で何かが目醒めたのだった。
何かが……。

fin.