サイレント・オーヴァーチュア

浜田玲

 その日も、弟は口をきかなかった。父と母が口論していた。母は泣きわめいていた。ぼくは、弟の顔に絵の具を塗っていた。二人でインディアンになるつもりだった。
 その夜、母は、ついに弟を死なせてしまった。一度も心を開かない子供は、親に殺されてもしかたがないのかもしれない。
 あれから十五年。今でも、その日の夢をみることがある。
 産声を上げてから一度も口をきこうとしない《沈黙の子》は増える一方で、今では新生児の一割にものぼっている。


 ぼくはチューブの改札を抜け、地下の迷宮に出た。場末の地下街は荒れ、湿った風がゆるゆると流れている。人通りはまったくない。脚もとに鼠がまとわりついてきた。鼠の体毛は硬くとがり、棘のようだった。きっと、どこかでおかしな薬品を浴びてきたのだろう。
 エスカレータに乗り、真夜中の地上に出た。星は見えない。月も暗い。街路樹の脇にベンチがあり、ぼくはそこに腰かけた。辺りの暗さに眼が慣れると、そこにはやはり、地下の汚濁と変わらぬ姿があった。だがそれでも、そこには空があり、乾いた風があった。
 風は音楽を産む。樹々のざわめきが心地好く、ぼくは耳を傾けた。その自由な旋律に、しばしききほれた。
 ふと、ぼくの頬になにかが触れた。
 手をやると、とても細い繊維が指にまとわりついた。暗闇に眼を凝らす。流れに身をまかせて揺れるそれは、一本の髪の毛だった。ぼくのものよりずっと長い。
 視線をあげると、向かいの街路樹の上に誰かがいた。
 彼女は――そう彼女は、街路樹の枝に腰かけて地上を見下ろしていた。すっと伸びた脚が美しい。
 何をしているんだろう。
 ぼくは立ち上がらなかった。ただ困惑していた。
 街燈にてらされて、彼女のシルエットだけが浮かび上がっていた。おかしな格好をしていた。ぼろきれのような一枚布を器用に纏っていた。
 「きれいだろ」不意に、背後から声がした。振り返ると浮浪者が、ぼくと同じように樹上を見上げていた。「あいつも野良犬さ……でも俺たちよりもタチが悪いぜ……あいつ、口をきかねえんだよ……」
 ぼくは浮浪者を警戒して、〈鷹の眼〉のエマージェンシーパネルを開いた。
 「みんなで賭をしたんだ……あの時も黙りこくったまま何だろうかってな……ヒヒ……」
 浮浪者は足をひきずりながら去っていった。
 口をきかない――そう言った。ということは、彼女も《沈黙の子》なのだ。捨て子なのだろうか。
 彼女はまだ若い。たぶん、少女だ。
 少女に弟の影をみるのは、変な気持ちだった。トラウマ、トラウマ、トラウマ……。
 「やあ」思い切って彼女に話しかけた。「きみはいつもここにいるの」
 何をいっていいのかわからなかった。少女はこちらを一瞥して、すぐにそっぽを向いた。まったく興味がなさそうだった。
 弟もそうだった。あいつはほんとは頭もよかった。ただぼくたちに興味がなかっただけなのだ。口をきかないといっても、ぼくらの言葉は完全に理解しているようだった。言いつけには素直だし、家でも外でも、やることなすこと不自由はない。なのに、表現することには何の関心もなかった。
 そもそも言語機能に障害があるのかどうか、それすら定かではない。脳も神経も、外科的解析によればまったく正常そのものだ。聡明なひとみは、まるで僕たちを見くだしているようにも見えるし、悲しげなまなざしは、哀れみのようにも見える。そんな《沈黙の子》の態度に、怒りを露にする人も少なくない。
 病原菌を探す努力はまだ続けられていたが、大多数の見方は、一種の奇形だろうというものだ。
 ぼくの〈鷹の眼〉が、ずっと警告を発している。静止衛星からの信号だ。少女に向けて赤い矢印が点滅していた。『A属性』の文字がスーパーインポーズされている。
 「そうか……きみは、アナーキストなのか」
 ぼくは警告をオフにした。そうだ、ふつうなら若い女が一人で野宿しているわけはないのだ。彼女は、正規の手続きを経て政府の管轄から離脱したアナーキストだ。法の制限を受けない自由人。そのかわり、法の庇護もない。いつ野良犬のように殺されるかわからない。《沈黙の子》がアナーキストになるなんて、例外的な意思表示ともいえるし、いかにもそれらしい自閉的行動ともいえる。
 ぼくが今エマージェンシーコールを発したら、彼女は捕獲され、処分されるか居住区追放になるだろう。でも、少女なのだ。政府も例外として保護してくれるかもしれない。こんなところで野良犬暮らしをするよりも……。
 逡巡するぼくを尻目に、少女は樹上から身軽に降り立ち、走り去ってしまった。ぼくは、ほっと息をついた。これでよかったのだ。彼女の選択だ。
 トラウマ、トラウマ。ぼくは母の罪までもかぶろうとしている。


 ぼくはアパートメントに戻り、考えに沈んだ。
 ことばなんか、何だっていうんだ。みんなどうかしているんだ。かれらはまともだ。ことばを重く見すぎているんだ。あんなもの、音の仲間としてはごくつまらないものなのに……。
 ぼくは、認知数学をを専攻した数理技師で、今は電子楽器のセクションで働いている。ぼくに必要なのは論理と音楽で、くだらない会話表現なんかじゃない。
 疲れた。もう今日は何もしない。パスタイム・パネルからCATVを選び、〈鷹の眼〉をとった。
 〈鷹の眼〉は個人用にチューンアップされたマン=マシン・インターフェースだ。文字情報をスーパーインポーズできるミラーシェードで、それ自身一個のインテリジェント端末でもある。〈鷹の眼〉は装着者の眼球の運動を捉え、座標をポイントする――〈鷹の眼〉に映し出されるパネルを眼球だけで操作できるのだ。あらゆる端末とインターフェースできるから、外を出歩くときにも常時かけていられる。
 CATVでニュースが流れていた。
『気難しいことで有名な、世界最後のオーケストラ指揮者が、ついに笑顔を見せました――』
 ニュースは、ライバル会社の歴史的プロジェクトの成功について語っていた。機械楽団の初公演の話だ。商売柄、ぼくも詳しく知っている。すでにいくつもの論文や特許が出されている。
『――オーケストラという語は、言うまでもなく今日では死語です。電子楽器が人間の技能をすっかり衰えさせてしまいました。最後の指揮者は驚くべき長寿と健康を保っていますが、彼の指揮すべき楽団は、もう世界中探しても揃えられません。この半世紀で、すっかり世の中は変わってしまいました――』
 そうしたのは、われわれ楽器メーカーだ。老指揮者は、最初のうちはメーカーを非難していたが、やがて多大な協力を寄せるようになった。この、人工管弦楽団をつくる実験に対して。
『――指揮者は、〈鷹の眼〉をかけて指揮棒を振ります。その画像を数十台のCCDセンサが捉え、計算機が彼の動作のすべてをリアルタイムに解析します――』
 そして譜面と照合し、テンポや強弱を調整したデータをシンセサイザに送出する。指揮者が失敗だと考えれば、中断して再学習することができる。
 学習を繰り返すごとに、機械は人間の個人差や癖を呑み込んでいく。
『――老指揮者は、人間の楽団よりも人間的で、とても世話の焼ける楽団だ、と笑顔で語っていました。』
 もちろん、何もかもうまくいっている筈はないのだが、あの会社がそれだけの賞賛を浴びる価値のある仕事を成し遂げたことは疑えなかった。ぼくが認知数学を専攻して、音楽の認知モデルを勉強したのは、動物の動作にはすべて、あらかじめ固有のリズムと旋律が備わっているような気がしたからだ。動物の音楽スキーマを探る実験もやってみた。それなりの成果があったけれど、自分の能力でわかることはすぐに限界に突きあたった。今ではもう研究はやっていない。
 ぼくは確信している。この世にあふれかえる音楽なんて、ことばと一緒で、表出してくる一部分にすぎない。前世紀から研究された「暗意−実現モデル」には一応の結論が出ているが、もっと下位のレベルにある暗意を解明できたら……。
 あの少女ともわかりあえるかもしれない。


 翌朝、散歩がてら近くの寺院に立ち寄ってみた。寺庭のベンチに腰掛けて、子供たちの遊ぶ姿を眺めた。周囲に林立するビルディングが、時折強い風を吹きこませ、寺庭に埃を立たせている。
 その寺院では、住職が口のきけない子供たちを世話している。かれらは口の「きけない」障害児たちで、《沈黙の子》とはまったく違う。子供たちは、愛想をふりまいて、意味のない声をあげながら住職にまとわりついていた。
 子供の一人が、ぼくのほうへ走りよってきた。
 「…………………………」
 「なんだい?」
 子供は、ぼくに草笛を見せた。ぼくは、それを受け取って、昔の要領を思い出しながら吹いてみた。子供は、満足そうに聴いていた。
 少しやっていると音階がとれるようになった。『夕空晴れて秋風吹き……』のつもりで鳴らしていると、住職がこちらに気づいて、深々とお辞儀した。


 その後、喫茶店でブランチをとって、午後から出社した。
 ぼくの仕事はキイレス・キイボードのプログラミング。一般には《サイバネティック・オルガン CYBORG-1》の商品名で知られている電子楽器だ。
 無鍵の鍵盤というのは文字どおりの意味で、鍵盤にはただ鍵の絵が描かれているだけだ。奏者は、あたかもそこに鍵があるように弾けばよいのだ。総計四百四十個に及ぶ光学センサ群が運指を完全に捉え、内蔵の計算チップがリアルタイムに解析、音色を相応に加工する。
 演奏には多少の慣れが必要だが、運指の早さ、強さ、滑らかさ、優しさ――すべてを完全に理解する究極の鍵盤楽器だ。もちろん、適切なソフトウェアを作るのにもおそろしいコストがかかっている。
 もちろん、手ごたえのなさに不満はあった。試作機から大幅な改良が加えられた実機では、触れた鍵がフラッシュする上に、奏者の指に打鍵力に比例した電流が流せる機能がついている。ビリッ、ビリッという過激なキータッチは、むしろ病みつきの奏者を生んでしまった。
 もちろん、オルガンやピアノを真似するためにこんな遠回りなハードウェアをこしらえたわけではない。あらゆる指の動きを完全に捉えるのだから、可能性は無限だ。キイレス・キイボードは今までのキーボードにはなかった奏法を可能にするためのものだ。ベンド・ホイールやモジュレーション・ホイールはもういらない。ICカードを替えるだけで、まったく違う楽器につくり変えることさえできるのだ。
 カスタム・プログラムを作れば、自分の癖や、独自の技を織りこめる。そういったプログラミングは困難で、ミュージシャンはメーカーに特注することになる。
 それがぼくの仕事になる。ペイはかなりいいので満足している。新しいオーダーは二件。いつものごとく、ギター系の奏法を持ち込みたがっている。「チョッパーピアノ」のほうは軽いものだが、もう片方の「フレットレス」はピックアップの構造上無理だ。
 分散端末に向かい、定型のメールを発行する。端末はハイレゾリューションのCRT画面を持っているが、操作は〈鷹の眼〉を通じて行うのが普通だ。これくらいの処理なら「目の子」ですむ。
 プログラミングの作業にかかってしまいたかったが、ホストマシンはとろとろとしか動かなかった。〈議会〉のメーデーは昨日で終わったはずなのに、まだ何か手こずっているのだろうか。
 〈議会〉の仕業かどうかを判別するのは、ハッカーにとっては難しくない。ぼくは同僚にもらったモニタ・プログラムを起動した。
 〈革命算譜議会〉は一種の過激派で、きっと身近なところにもメンバーがいるはずだが、誰がそうなのかまったくわからない。
 〈議会〉は前世紀の終わりからひそかに同志を集め、下層レイヤの巨大プログラムの多くに巧妙なウィルスやロジック爆弾を仕組んでおいた。それがすっかり迷宮化して手がつけられなくなるのを待ち、〈議会〉は行動を開始した。全世界のシステムが〈議会〉の予言どおりにサボタージュし、要求を呑まねばシステム破壊に追い込むと警告を発した。企業は〈議会〉をおそれ、次々と要求を呑まされていった。
 その要求は単に労働者の権利を守ろうとするものだったから、労働者はみなシンパになった。サボタージュするのは機械なんだから、ピケを張る必要なんかなかった。〈議会〉は完璧な労働組合になったのだ。
 モニタのレポートは不可思議なものだった。メーデーは完全に終わっていた。無差別にサボタージュが起きているのではなく、異状があるのはぼくのIDだけだった。ぼくのCPU時間を使って、何かわけのわからないプロセスが動いていた。
 モニタのパネルに、まだ一度も使ったことのない〈ウェブ〉というアイコンがある。ホストのスーパーユーザーと直接コンタクトできる機能、という説明がある。
 やってみよう。〈ウェブ〉を起動した。

 ウェブ: これが〈蜘蛛〉へのきみのアカウン
     トだ。
      xxx-xxx-xxxxx-xxxxx
      2秒後にすべての記憶デバイスを抹
     消する。

 やられた!
 何が何だかわからないまま、ぼくは〈鷹の眼〉のスナップショット・ボタンを押した。
 何をする間もなくシステムはダウンした。
 証拠を残さない完璧な方法であった。パーソナルセグメントの記憶はクリアされ、入出力の履歴は完全に消滅してしまった。どうやったらこんなことができるのか、想像もつかないくらい悪質な破壊だ。
 〈蜘蛛〉の噂は知っていた。よくある都市のフォークロアだと思っていた。〈蜘蛛〉は私立探偵だ。この超高度情報社会をまともに相手できる、ほとんど唯一の探偵だ。地上の全ネットワークの隅々まで調べ尽くす能力があると言われている。
 噂が本当だとしたら、〈蜘蛛〉は人間ではありえない。
 〈ウェブ〉――そうか、蜘蛛の巣か。


 予定外の復旧作業でその日はつぶれた。仕事がひけたのはまた夜中だった。アパートメントへの帰り道、あの少女に出会った並木道を通ってみた。アナーキストの少女はいなかったが、昨夜の浮浪者がいた。
 ぼくは浮浪者に声をかけた。あの少女の居場所を教えてくれ。浮浪者は何も答えなかった。礼を握らせてうながす。
 「知らねえ……そんな女はいねえよ……勘弁してくれよ……」
 他に手がかりもない。本意ではなかったが、浮浪者の首に手をかけた。
 「知らねえ……俺は何にも知らねえよ……」
 そうこうするうちに、人通りが出てきたので、ぼくは手をひいた。もともと、そんなにあてもしていなかった。
 〈蜘蛛〉なら調べられるだろうか。アナーキストは人権抹消の際、体内に強力な発信器を埋め込まれる。それを静止衛星が捉え、つねに監視している。彼女に会ったときに〈鷹の眼〉に表示された警告も、そういう過程を経て送り込まれた情報だった。監視情報は人間には公開されてない。
 彼女を待とうと思ったわけでもないが、昨夜のベンチに腰かけた。
 そろそろ0時を回る時間だ。
 と、いきなり〈鷹の眼〉がおかしくなった。スーパーインポーズ画面がいったんブラックアウトし、別の画面があらわれた。

 蜘蛛: ハロー、ワールド。

 仮想キーボードが出ている。「眼で答えろ」と言うことだ。ぼくは、『引っ込め、虫ケラ』と答えた。

 蜘蛛: 理解不能。きみの〈鷹の眼〉を占拠し
    た。

 『どうやってそんなことができたんだ?』

 蜘蛛: 〈蜘蛛〉はどこにでも入り込む。遠か
    らず、きみの脳ミソの中まで入り込める
    ようになるさ。
     ジョークだと思うかね?

 心当たりはないでもなかった。「アカウント」だといっていたあの画面。記録しなければと思ってスナップショット・ボタンを押した。それがきっとロジック爆弾だったのだ。ボタンを押すと同時に、もう〈蜘蛛〉は侵入していたに違いない。そんな仕掛けができるのはあの〈革命算譜議会〉以外には考えられない。〈蜘蛛〉は〈議会〉の産物なのだろうか。

 『人探しだ。いくらで探偵を請け負う?』

 蜘蛛: わたしに金が必要だと思うか?

 『では何がほしいんだ?』

 蜘蛛: きみの魂だ。ハーハー!

 ぼくはこの悪魔と取引することにした。
 〈蜘蛛〉は、少女の居場所を完全に把握している。そして、ぼくはもう一つ願い事をした。〈蜘蛛〉はあっさり了解した。
 ぼくは何も「あしながおじさん」になりたいわけじゃない。自分のトラウマにけりをつけたいのだ。
 決行の日は二週間後、と決めた。


 次の日から、〈蜘蛛〉は様々なオブジェクトを送りつけてきた。例のライバル会社の社外秘オブジェクトも含まれていた。疑似オーケストラを実現した〈光学センシング・スタジオ〉のソフトウェアそのものだ。
 ロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックからは「健康に会わせた音色選択」のプログラムを手に入れた。心拍数、呼吸、体温をもとにして、どんな音色の楽器が適しているかを判別するもの。
 キイレス・キイボードで使っているオブジェクト。
 そして、ぼくが昔作った動物実験のオブジェクト。
 それぞれを多重継承で張り合わせていく。不格好なオブジェクトだったが、パラメータさえうまく調整すれば、何とか動くものが出来あがった。見積もり通り、わずか十日あまりの作業だった。
 本職のほうは後回しだ。そろそろ怪しまれているが、まだ今のところはごまかせている。

 蜘蛛: オブジェクトにはわたしの作ったロジ
    ック爆弾も入ってるよ。ドカーン。

 〈蜘蛛〉の軽口は生まれつきだ。まったく、人間の探偵よりも人間的だ。


 そして、ついに決行の夜になった。
 〈光学センシング・スタジオ〉の警備システムはすべて〈蜘蛛〉が騙してくれる。問題は、あの少女をどうやって誘拐するか、だ。ぼくは、〈蜘蛛〉の言うとおりに、路地裏に足を運んだ。
 〈鷹の眼〉に『A属性』警告が出た。
 少女は屑籠にもたれて眠っていた。
 ぼくが触れると、少女はすぐに眼を醒ました。
 「何もしないから、いっしょに来てくれないか」
 とぼくは言った。返事を待ってもしかたがない。そのまま彼女の腕をとり、引きずるようにして歩いた。

 『〈蜘蛛〉、準備はいいのか?』

 蜘蛛: もちろんだ。機械のことは機械に任せ
    ろ。

 少女の腕のやわらかさが、ぼくの心を少し動かした。性の自覚を高めさせた。
 〈蜘蛛〉の言う通り、警備はまるで手薄だった。裏庭から裏口へ、そして二階へ上がるとそこが《光学センシング・スタジオ》の操作室だった。
 操作室の壁面にはただひとつガラス窓があり、そこからは、四方をセンサに囲まれたスタジオが見える。床には緑色のカーペットをしきつめてある。CATVで見た、あの老指揮者の演奏が行われた場所だ。
 ぼくは、自分の作ったICカードをセットした。
 このカードには、人間の立ち居振る舞いをくまなく捉え、それを音楽に変換するシステムが入っている。オーケストラよりもはるかに不安定なプログラムで、学習機能はない。
 この装置を通じて、彼女は何かを語り出すかもしれない。彼女の感情をフィードバックしたら、どう反応するだろうか。
 少女をスタジオにいれ、ぼくはシステムを起動した。何の問題もないようだった。
 ぼくはマイクで呼びかけた。「歩いてごらん」
 少女はおずおずと足を踏み出した。
 その脚どりはハープのような澄んだ音色に変わった。
 彼女は驚いてたちどまった。
 残響があとをひいている。


 ステップ、ステップ、木琴4分の5拍子。
 まばたきはタンバリン。
 背伸びはヴァイオリン。
 くるっと身をひるがえして、ピアノのレガート。
 微笑みはピッコロの音がした。


 そう、彼女は確かに微笑んだ。何もかも予想通りに思えた。
 彼女は思いのほか気に入ってくれたようだった。心を開いたと言っても間違いではないような気がした。音の洪水が押し寄せ、十分ほどするとそれは整理された音楽になった。
 やがてぼくは、耳慣れぬ旋律につつまれていった。それは、ありうべからざる、危うい旋律をもった音楽だった。その音楽の構造は、全く新しいものだった。
 ぼくは、動物の音楽スキーマ(認識枠)を研究していたから、これがただならぬ意味を持っていることがわかった。
 あとでデータを解析すればはっきり示すことができるだろうが、ぼくらと彼女とのあいだに、音楽スキーマの違いがあることは明白だった。認知数学で良く知られた経験則がある――「同じ環境下で異なる音楽スキーマを持てば、それらは異なる種である」。

 蜘蛛: そろそろ時間だ。切り上げろ。

 ぼくはデータを回収し、証拠を残さないよう注意して、少女を連れて逃げた。少女は、以前と少しは違っただろうか。
 ぼくは、少女を自分のものにはしなかった。そのまま、闇の中に放してしまった。そしてそれっきり、少女はどこかへ行ってしまった。


 そして幾日かが過ぎたある日の夜、ぼくは夢をみた。口がきけなかったが、それは苦痛ではなかった。全世界から、彼らが集まっていた。いっしょに唖になりましょう、と誘っていた。
 ぼくのしたことは間違いだったろうか。ぼくは、自閉症の子供から感情を引きずり出そうと思っていた。でも、あれは病気でも奇形でもなかった。進化だったのだ。《沈黙の子》らは、未来への先駆者たちなのか、それとも、どこか他の世界からやってきたのか。
 〈蜘蛛〉も消えてしまった。何もかも、ぼくの手をはなれていってしまったような気がする。
 もう一度、モニタ・プログラムを起動してみたが、〈ウェブ〉のあった場所には〈コール〉というまったく合法的なアイコンが置かれていた。あの時、ぼくのCPU時間を食い潰していたのは、実は〈蜘蛛〉だったのだと思う。〈蜘蛛〉がモニタに仕組んだロジックを起動したのだ。すべて罠だったのだ。
 その前夜、ぼくがアナーキストの少女に出会っていたことは、あらかじめ〈蜘蛛〉には見えていた。ぼくの経歴も知っていた。〈蜘蛛〉はこれから何をするつもりだろう。奴だけが、彼女の座標をつねに捉えている。

BGM:
BUGGLES "The Age of Plastic"
YES "Going for the One"
GRYPHON "Gryphon"
PFM "Storia Di Un Minuto"

end

初出:SYMPHONIC WAVES(Aug.1997)




撰者から:

 音楽をテーマにした短編集「SYMPHONIC WAVES」からの一編。数学科出身でプログレッシヴ・ロックを愛好する作者の嗜好が表れている。キイレス・キーボードは面白そう。
 今後この世界で、《沈黙の子》はどうなっていくのだろうか……