@皇帝は国家第一の僕
A皇帝は主体性が
あってはいけない
皇帝は時には義を説きマナーを諭し、また時には策を弄して他者を貶める。皇帝とは常に外に対しては虚言を
用いる存在でなければならない。それは『狡猾であれ』というのではない。無論、それが『戦争論』で既に著者によって否定されていることを読
者諸氏は御記憶してくれていると思う。どういう事かというと、すなわち感情に素直になってはいけないと
いうことが第一に挙げられる。主観をもって皇帝が動くときには結果は伴わない。皇帝とは自らの役割を自ら決めてはいけない。皇帝はいわば惑星という宴会に於ける幹事の様な存在なのである。自らは決して酔うことなく、しかし士官全員を酔わせなければいけないのである。無論、皇帝が感情で動く
ときに士官がそれに奮起されることはよくある事であるが、それは“偶然”と“必然”が都合よく交錯した際に生じるイミテーションである。皇帝と感情を同じ
くした士官は確かに皇帝に忠誠を尽くすであろうが、このときに皇帝とは違う感情を抱いた人間を、その皇帝は切り捨てなければいけなくなってしまうのであ
る。全ての士官を纏め上げるようなカリスマを、通常では人間は持ち得ない。それは天性ではあ
りえないのだ。故に皇帝は自らの感情を殺して士官の為に尽くさなければいけない。士官を躍らせて、銀河にその名を挙げなければいけない。皇帝とは獅子の勇も狐の知恵も必要としない存在である。言わば『惑星最大の労働者』なのだ。知恵をもった蟻のよ
うな存在である。皇帝たる者はただただ士官の為だけに舞台を演じるエンターテイナーとなるべし。
B皇帝は果断即決を
是とする
C皇帝は信念を
持つこと
話はやや横道に逸れるが、3・10事件を前後しての皇帝の性質の変化についても言及の必要があるだろう。と、言うのも3・10以前の派閥構成とは他ゲームでの交友関係に立脚したものが多かった(おんぬ系、イゼル系などのように必ずしもこれに当ては
まらないものもあるが)だが3・10後、特に最後の超大国であった顔文字系派閥の崩壊によって派閥というものが「銀河獅子伝オンライン」のみでの交友関
係、またはリアル世界での交友関係にのみ立脚するようになった(もっとも、後者は必ずしも派閥形成の一員とはならない。その理由としてリアルでの関係を獅
子伝内でのプレイスタイルに結びつける事を避けようとする考えがあるためである)。
是に伴いより、アンシステマティックになったゲーム環境の中で、より“システム上の名声ではない名声”
が重要となったのである。この“数値化出来ない名声”というものはステータスや功績に依存す
るものではなく、プレイスタイルの課程と結果、特に行動や言動に拠る物なのである。
アクト率、ステータス、功績などに関係なく個人の識見と技術、そして思想が武将の、そして皇帝の評価基準となっているのである。例えば著者自身、
momo殿やhain殿を常々重用して来たが、そこにあるのはステータスやアクト率への信頼ではなく、深い
識見と確かな信念に対する信頼である。
識見と信念、これが武将の、そして何より皇帝の最も大切なコアの部分である。再び著者自身の話で申し訳ないが、私は以前に張遼殿とこんな話をしたことが
ある。私自身がイゼル系を抜けて独立して以後、私が最も張遼殿を信頼してきた事は、私も彼もお互いに知るところであった。だが、もし私が彼の完全なロボッ
トとなり、彼の言う事を100%鵜呑みにするとしたらどうだろう。私は張遼殿に、もしも私がそんな事をしたら貴方は今までどおり私を信頼してくれますか、
と問うたのである。無論、彼は例の笑いと共にきっぱり「ノー」と言った。我々は時に同じ惑星の中にあっても対立し、時には敵対してお互いを謀略にかけあっ
たりもした。だが、それで良いのである。なぜなら我々は同一の個人ではないのだから。張遼殿
は常々、「おんぬ系」という言葉を嫌ってきた。と、いうのも巷で所謂「おんぬ系」と称させる人々(あえておんぬ神殿二十柱と言えば差し支えもあるまい)
は、ovr氏、張遼氏、錬氏、Tairon氏、balius氏などなど、それぞれが違う信念に基づいて行動しているからであるという。私自身は所謂「おん
ぬ系」と親しくお付き合いさせていただいておりつつ、一線を画す部分もあるので敢えて深い御心情までは筆を走らせる事を憚るが、かの派閥(あえてこの呼び
方に統一させて頂く)は信念を異とする複数の武将たちが築き上げた一つの作品と言ってよい。
皇帝を志すものは覚えておいて欲しい。強調も同調も大いに結構だし、外交で下手に出る事も当然として、絶
対曲げられない一つの信念を皇帝たるものは持つべきなのである。それが原因で決定的対立を見せる事もあるだろうが、またそれも仕方のない
事。根本に同じ志を有するなら一時の対立くらいはむしろ歓迎すべきである。「気質ある武人」という言葉があるが、曲げられない信念を持たない武人、個性的なキャラクターを持たない人物ほど、皇帝に向かない人間はいないの
である。
最も哀れなのは「カリスマのイエスマンに成り下がった武将」と「参謀の操り人形に成り下がった頂点」であ
る。この事はゆめゆめお忘れなきよう。
D皇帝は強靭で
なければいけない
E皇帝の被保護性
先に「戦争論」で述べたとおり、皇帝たるものに求められている物とは簡単に言えば“カリスマ”と“人選眼”である。カリスマなどと言うと安易に皇帝の資
質について云々されてしまいそうであるが、さらに言えばそれは“色”とでも言うべきものなの
である。その色が“覇”であるか“徳”であるか、“優”であるか“劣”であるか、“攻”であるか“守”であ
るか等、皇帝たる者の色合いによって集まる士官も自ずと異なってくるであろう。
より分かりやすく言えば、皇帝とは“愛され”なければいけない。誰かがその皇帝を好きだと
思う。それが一人、二人と増える。皆で皇帝と、皇帝の星を守ろうとする。そこが「個人惑星」と「派閥惑星」の境であり、「契約」と「忠誠」の境であるの
だ。おわかりだろう。強い星とは“皇帝が強固に守る星”ではなく、“士官が強固に守る星”なのである。
皇帝が非アクトでも士官19人総勢が24時間フルアクト防衛をすればその星は落ちない。これは極端な例であり、実際にはありえない事であるが、一つの教訓
を導き得る。つまり皇帝は「自分が士官19人を守っている」と考えるべきではない。逆に「士官19人が自分
を守っている」と考えるべきなのだ。そこに「忠誠」に対する「感謝」が生ま
れ、初めて土台の磐石な惑星となる。感謝しているからこそ自身も努力しようというつもりになるし、様々な楽しみを提供するつもりにもなる(ここで勘違いし
ないでもらいたいのは「感謝」を「責任」に転換して自分で簡単に潰れてしまわないように、と
いう事である。皇帝病の行き着く先にあるものは、そういうものであり、それは避けるべき事なのである)
始めに好かれる皇帝あり。そこに忠誠を誓う士官あり。そして彼らに感謝する皇帝再びあり。
こういう星を落とす事は至難であると言える。
□皇帝の決断
@信念と代償
皇帝には信念が無ければいけない。何度も言うがこれは大前提である。だが、皇帝はそれと同時に自らの信念の代償というものを理解しなければいけない。信念の無い皇帝は無能であるが、自らの信念を他
人に押し付けるというのでは、皇帝と言う以前に一個人として問題があると言わざるを得ない。それでも自らの信念を貫く上で人にそれを強制する場面も出てく
る事だろう。それは仕方のないことなのだ。「対立」を前提としたオンライン戦略ゲームである「銀河獅子伝オ
ンライン」に於いて、皇帝職を務めるとはそういう事なのである。これはゲーム内だけに留まらず、広く社会に渡って言える事であり、信念も誇
りも持たない冴えない管理職が魅力的でないという事実が存在する一方で、信念とは時に人を傷つけるものであると言う事もまた事実なのだ。人間社会が競争社会である以上、魅力なき者は淘汰され、忘れられていく。例えば外交折衝などは特にその性格が出やすい。皇帝は自らの信念を貫こうと折衝を行って当然であるが、それが
外交的に他国を不快にする事も往々にしてよくある事だ。だが、そこで皇帝は忘れてはいけない。信念を貫くの
も皇帝の義務であれば、一方でそれに伴うリスクを受け入れ、対応する事も皇帝の義務なのだ。例えば、弱小国の同盟や友好要請を蹴ったのであ
れば、その弱小国が他国を糾合し、あるいは強国の庇護を求め、自分の国に対して逆に包囲網を敷くということも想像しなければいけないし、覚悟しなければい
けない(例えば第四期救国とTiltowaitoは同盟を結び、当時は弱小であった巨門を攻略しようとしたが、それが暴威・天下・朧龍などの逆包囲を呼
び、結果的に第三次銀河大戦を勃発させる結果となったし、旧出口系は、出口で貫いたスタンスは評価されるべきだが、その結果多くの敵対勢力による以後数度
に渡る包囲や敵対を経験する事となったし、末期の顔文字が常に「悪役」という汚名を着せられたのも「覇権」というものが諸刃の剣であったことを物語ってい
る)。皇帝たらんとする者はこれを忘れてはいけないのである。
またさらに言えば“外交”は“命令”とは違うという事も理解して頂きたい。命令、つまり自
国内の話であれば必要とされるのは皇帝自身の信念と才覚だ。それが気に入らない人は始めから仕官もしないであろうし、また放浪していくだろう。それを省み
る必要は無い。だが一方で外交は非常にデリケートな舞台だ。自分以外の信念との対話であるの
だから、神経を使わざるを得ないのである。是に対する予行練習としてしっかりとした参謀を持つ事が有効だ。自
己以外との対話に慣れることが皇帝には重要なのである。しかし外交の重要性もさることながら、留
意していただきたいのは“言葉”の限界だ。出来るだけ皇帝は言動で自己を発露するのは控えたほうが良い。著者自身自省を込めて言うが、全ては行動で第一に示せば良いのであり、あまり舌を動かしても人に感動を与えられはしない。行動あっての言動であり、言動がまずありての行動では意味がないのである。知識も言動も無くとも、かつ
ての「2nd
earth」のコージ氏や、近いところでは1984氏などは、その行動に求心力が生まれた典型である。そして、それが今の両氏の名声の支えとなっているこ
とを御記憶いただきたい。
著者自身は言動を必ずしも完全否定するものではないが、顔文字系があれだけの武力を誇りながら遂に他からの求心力を決定的に出来なかった背景には言動に
よる“自己正当化”があるといわざるを得ない。覇権を誇る者は「言葉は無粋。文句が在れば圧して通れ」という態度を示せばいいのである。何も自己を言動に
よって正当化する必要は無い。それは御記憶いただこう。
□皇帝の戦争
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