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「薫」

 梅雨時の今頃、昔はよく道路に這い出してきたミミズがいっぱい居て、踏まないように避けて歩いたものだったけれど、今はもう道路の上でなくてもミミズなんかを見る事はなくなった。そんなミミズを良く見ていた小学生の頃は、背もちっちゃかったから地面が近かったんじゃないかと思う。だから、水を含んだ土と新緑の匂いが混じった梅雨の薫いが感じられた。
 匂いはいつもどんな時もその心の原風景と焼き付いて強く結び付いている。今は大きくなったからなのか、自然が無くなったのか、匂いに鈍感になったからか、いや、本当に匂い自体がなくなってしまったからなのだろうか、匂いなど滅多に感じられなくなってしまった。四季には四季の薫いがあって、薫いには四季や天気を連れて来る力があった。
 春には風の匂いがした。風の匂いは、新緑の匂いだった。芽吹きだした若葉の放つ香りを揺らしてさらって渡ってくる風が、風の匂いだった。風が渡る通り道は涼しく、そして土の匂いがあった。
 今でも、私が好きな風の通り道がある。東名高速道路の川崎インターチェンジを出て左に真っ直ぐ行くと、清水台の交差点を越えて緩い下り坂を下りる。その下り切ったところの、左にカーブする寸前の左の土手の下。ここが、土手から風が渡って来る風の通り道になっている。夏でも涼しい風が、左から右に通り過ぎる私のお気に入りの場所のひとつだ。昔はこういう通り道があちこちにあったのかもしれないが、自然破壊で風の通り道が壊されて風が渡らなくなったのかもしれない。ここも、クーラーをかけた車で通り過ぎては判らない。
 夏の匂いは、むっとするような草いきれの匂いだ。今でも、公園の草刈りをした後などを通るとする草の臭い、今はそんな風に草を傷つけないと判らなくなった匂いが、夏の日差しに照り付けられた草原や森林、空き地の雑草の中では感じられた。今はそういうところが身近に無くなって、或いは行くことが無いから嗅がないのだろうか。この間テレビであるタレントがその草の匂いが好きだといって、馬鹿にされていたが私もあの薫いが好きだ。裸足で駆け回った子供の時の夏休みの薫いだからだ。
 それから、今時には雨の匂いもする。ザッと夕立が来た時など特に匂う、あの土埃が舞い立つ時の焼けた土の匂いが雨の匂いだ。慌てて遊びをやめて家へ逃げ帰る時の匂いだ。窓から夕立の上がった後の夕陽を眺めた時にした、焼けた地面で蒸発する雨の湿った匂いと共に一日の終りの寂しさを思い起こさせる薫いなのだ。


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