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「ドラマ『白線流し』にふれて」

 今年の成人の日にフジテレビでスペシャルドラマ「白線流し 〜二十歳の風〜」を放送しました。この「白線流し」は'96年1月からの1クールに放送された連続ドラマのスペシャル続編で、まあ「北の国から」的息の長い作品を狙ったものです。
 元々の原作は「「白線流し」を知っていますか」という長野の高校のドキュメンタリーにあります。'97年夏には、予告通り「白線流し・19の春」というタイトルで1年目のスペシャルを放送しました。刺激的な内容のドラマが流行の最近にあって、高校を卒業した7人の仲間たちの何気ない友情と日常を切り取っていくどちらかと言えば地味なドラマです。勿論、恋に悩み、友情に悩み、未熟さに揺れ動いて行く様を描いていくのですが、それは援交も無ければ、エイズも無く、現実社会のニュースよりも地味な出来事ばかりなのです。でも、それが普通であることにどれだけの人が気付いているのでしょうか。ニュースになるのは、それだけ日常的でないことの証明である訳で、多くの人たちはニュースは勿論ドラマの出来事でさえ、自分の日常には関係の無い派手なこと、作り物、まさに劇的な出来事であると思っているのです。
 このドラマだって、乱闘事件があったり、電車を降りて駆けていったり、雪山で遭難したりと私達の日常には有り得ないようなシチュエーションがちりばめられています。けれども、限りなく淡々として、似た思いをしたような事柄を描いているドラマなのです。

 そんなドラマにふれて思ったことがあります。
  それぞれの思いやり。それぞれの思い。
   違くても人は人にやさしくして
    すれ違ったり誤解しあっても
  この仲間(人)となら信じあえると思った限り
    心を触れ合わせるべきなんだ。

 私は、猫が好きと公言して憚らない、一人で居るのが苦でない孤独好きだったりします。けれども人と触れ合わずして、人は生きていけないし、成長できません。そして、どんなに独りが好きでも人恋しくなる時が必ずあるのです。人は皆、それぞれ考えていることや価値観が違います。でもそれは人と触れ合う理由にはなっても、人を遠ざける理由にはならないのです。そりが合わない奴とでも、触れ合うからこそ合わないことが理解しあえるのです。そんな中で、こいつならという人と巡り合えるって、とっても大切なことで、だから衝突してでも付き合っていくべきなんだなって思うのです。そんなことを考えさせられました。
 それともう一つ、主人公たち7人は普通の人たち(という設定)なのに、これだけドラマがあるということは、生きている人には皆それぞれのドラマがあるっていうことだと思ったのです。当たり前じゃないか、人生はそれぞれが主人公の二つと無いドラマなんだ、という人も居れば、いや俺の人生は何の劇的な出来事も無い平凡なものさという人も居るでしょう。でもそんな人にだってドラマがあるのです。本人がドラマだと認識していないだけで、実に劇的な人生を送っているはずなのです。
 私の場合だって、そんなワンシーンがあります。高校生の時、ギター合奏の部活動に熱中していた私。年に一度のコンクールの日、私達は自分たちの演奏をした満足感で、浮き立って講評を聞いていました。そんなとき審査委員長が仲間の一人の存在を無視したのです。何を勘違いしたのか彼女のパートが無くて演奏が今一つだったといったのです。仲間たちが騒ぎ出しました。舞台の上では講評が淡々と進んでいくホールの2階席で血気盛んな私達はその発言を訂正させる方法を巡って騒然としだしたのです。声を上げる者、舞台袖にいるであろう講師の先生へ向かう者、泣き出した彼女をかばう者、そんな中、私達の銀賞受賞が告げられました。一瞬こそ、わぁっ、としたものの直ぐにそんな賞よりも訂正の方が大事だとみんなが言うなかを、部長と副部長は受賞に向かったのでした。その後、訂正も無いままコンクールは終了し、散会の後講師を囲み口惜しさをぶつけ、事情を知る講師に慰められ励まされて帰途についたのでした。別に私が先頭に立って騒いだ訳でもない、こんな些細な出来事も仕立て方によってはドラマだと思うのです。少なくとも私の中では、青臭い位な青春のワンシーンなのです。
 人生が劇的に認識できるか否かは、その人のどんな些細な出来事に対してでも、感じ取れる感受性が研ぎ澄まされているかどうかにかかっているのです。そう考えた時、自分の人生を振り返ってみて、あぁあの時がドラマチックだったんだなという時が必ずあると思うのです。そうして、自分を主人公にした人生をドラマに仕立てて劇的に生きていく、人生の演出、というのもお洒落じゃないかな、ドラマを見て溜息ついて憧れてばかりじゃつまらないよって思うのです。


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