Essay Gallery
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「向井潤吉」
もう何年前だったか覚えていないが、ふと目にした百貨店のチラシに一枚の絵が描かれていた。その絵に惹かれた私は隣の文字に目を移した。そこには「向井潤吉展」と書かれていた。
百貨店の広告には、最後のページの下のところに必ずギャラリーや美術品の展示即売などの告知がある。あることは知っているが、芸術に詳しい訳でもなく、ましてや購入など出来ない私は、いや、そもそも当時の私は百貨店で買い物すること自身縁が無かった。そんな私がたまたまそのチラシを手に取ったのである。桃色から紫色にかかった色調のその日本の風景画は、出不精の私にその百貨店まで行きたいと思わせるほどの、強い印象を与えた。それが私と「向井潤吉」の偶然の出会いであった。
展示会場は最終日近いせいもあってか、たくさんの人が訪れていた。何か場違いのような感じを拭えないまま、それでも私は、その風景画の世界の中に惹き込まれていった。
ご存知の方も居られると思うが、向井潤吉は日本の原風景ともいえるような、民家やその風景を描き続けてきたことで有名な画家である。もちろんその時の私はそんな事を知る由も無い。ただ、じかに触れる致筆と、湿潤な日本の農村の空気感を見事に醸し出しているその色彩を、息詰まる思いで見つめていた。何がこの湿った大気を油絵の上に漂わせているのか考えた。それがどこともなく帯びている桃色と紫の色彩と、鮮やかなほど純色の緑色と民家のこげ茶の色彩の対比の所為だと、私は理解した。もちろんそれだけの訳はない。しかしそれ程それらの絵は、私の中の色使いの常識を突き崩したのだった。
まだ私は向井潤吉のことをよく知らないまま、展示会のとき買った画集を見ながら、又あの致筆をじかに触れたいと思っていた。印刷物は印刷物でしかないのだ。そんな或る日、向井潤吉がマンタ山の自宅を世田谷区に寄贈し、美術館にしたというニュースを知った。それは、自宅兼アトリエを世田谷美術館の分館として、向井潤吉作品の常設館とするという内容だった。近くで、いつでもあの絵が見られる、私は軽く興奮をしていた。
しばらくした休日の昼下がり、私は世田谷線というチンチン電車に揺られていた。ニス塗りの車内は、日常そのものなのに何か美術館通いに似合っている気がした。「松陰神社前」で下車すると小さな案内板が立っていた。示されるままに気さくな商店街を抜けると、静かな住宅街に入った。知らない街の散策はいつでも楽しい。やがて、小学校を回り込むと、一段と緑豊かな一角へとたどり着いた。民家に入り込むような思いで庭に入ると、庭でご婦人達と老翁が静かに会話をしている。玄関の戸を開けると、ひと気が無いようでいて、数名の来館者が訪れていた。小さな美術館に知った人だけのわずかなギャラリーの静かな雰囲気。嬉しい再会のシチュエーションだ。
その後、私のお気に入りスポットとして何度かひとりで通った。そして、氏が戦前にしっかりとした美術の基礎を学んだこと、戦時中の従軍画家だったことなど、いろいろな背景を知った。
そして或る朝、開いた新聞の三面で日本画壇の巨匠向井潤吉氏死去の文字が目に飛び込んできた。三段抜きのその記事には、氏の業績が長々と記述されており、その扱いの大きさからも改めて氏の偉大さを思い知らされたのだった。
その後も向井潤吉アトリエ館を何度か訪れたが、少しずつギャラリーが増えているように思える。人が増えても落ちついた雰囲気はそのままである。氏が望んだであろうこの雰囲気は残したままで、より広く多くの人に永くこの美術館とあの懐かしい絵の数々に親しんでもらいたい。そうすれば私もいつまでも、逢いたくなったときにいつでも逢うことが続けられると思うのだ。