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がむしゃらのポジション
私は高校時代、ギター合奏の部活動をしていた。部活のイベントは春の新入生勧誘に始まり、夏合宿、秋の学祭、コンクール、クリコン(クリスマスコンパと呼ぶ身内でのパーティー)、そして年度末の定演&3年生の追い出しコンパで終わる。そして、中でも最大のイベントである定演は、同時にOB・OG交流の場でもある。卒業してすぐの大学生はずいぶんと集まって近況報告に余念が無い。さすがに社会人ともなると殆ど参加は無くなる。特に最近は、クラブお気にの市民ホールの倍率が高いこともあり4月のしかも平日(現役達と大学生は春休み)に開催されることが多くなって、社会人OBは殆ど来ない。と、そんなことを知っている私は、年に一度の楽しみだからと、何かと都合をつけて演奏会に足を運んでいる学生気分の抜けない社会人らしい。ギターの音色を聞くのは心地よいし、後輩たちががんばっている姿を見るのも微笑ましい。まして、OBの仲間と会えるのも楽しみのひとつだ。ただ残念ながら今年はついに一人も知ったOBを見かけることはなかった。
OBも歳を重ねると最近の現役の演奏は上手くなったけれど伝わるものが無くなって来たなどと昔を懐かしむ、これもいつの時代も繰り返される繰言ではある。もうOBを20年近くやっていると、情熱が伝わらないなどと批評した後輩たちと一緒に、当時の批評もどこへやら最近の演奏は上手いけれど、、、などと話が合って、なんだかなという気分もする。
しかし情熱どうこうは置いておくとしても、確かに現役メンバーの演奏は年々とてもうまくなってきている。最近の現役部員たちは恐らく私達の頃よりちゃんとしたメソッドに沿って、技術を身につけるのに効率的な練習をしていて、部活動と言う限られた時間内で私達の頃より数倍早く上達出来るのだろう。私達の頃も勿論、当時のメソッドもあったしそれに基づいて行っていた。けれども今に比べればまだまだ科学的合理性は低かったに違いない。
それが証拠に、時間をかけた割にあまり上達しなかった、と言ったら当時のメンバーにそれはおまえだけだと怒られるかもしれないが、いずれにせよ、当時の演奏を今レコード等で冷静に振り返るとお世辞にも上手では無いと思う。
上手さは足りなかったかもしれないが、練習は女子部員を中心に一生懸命やっていた。とにかく練習量が全てみたいな発想で物量をこなすことが練習であり、朝練、昼練、放課後の練習に、休日練習、持ち帰っての自宅練習、空き時間(休講も含む)を使っての自主練とやみくもに練習していた。良くも一所懸命それだけに時間を費やしたものだ。逆にいうと、今の学生にはやるべきこと、やりたいことが多すぎて十分に時間を使えないから、より効率的な時間の使い方が必要なのに違いない。そう考えると、私達は実に贅沢な時間の使い方が出来たというべきかもしれない。周りに眼もくれずそれだけに盲目的に打ち込んだ(それもおまえだけだと非難を浴びそうだ)。だから技巧を身につけたという自信は無くても、物量をこなせるという情熱だけはあった。考えてみれば、がむしゃら、無駄、遠回りということかもしれない。でもそうではない。それは、価値観の違いの表出である。
現在の効率追求の進め方は美しい。無駄を省いた美がある。そして、無駄でもがむしゃらな姿だって美しい。心を揺さぶる力がある。
例えれば、目的に向かって無駄なく効率的に伸びるフリーウェイと、あちらこちらに脇道がつながっている田舎道の違いのようなものだ。フリーウェイはその機能ゆえ、幾何学曲線を描き美しく伸びている。一方田舎道は雑然としていて美しくは無いが、脇道からいろいろな交流があって猥雑とした魅力がある。そんな感じかもしれない。どちらが優劣かなど無いことくらい誰でもわかるだろう。同列に並べて決着をつける筋合いのものでは無い。
しかし、なんと形容しようと理屈を述べようと当時の演奏が下手であることは変わらない。それが証拠に私達の価値観のスタンスでは最優秀賞はついぞ取れなかった。でも当然でもある。音楽コンクールは、素晴らしい芸術(正に芸の術(すべ)である)を選ぶものである。ホールの冷たいシートの深く腰掛けた審査員にとって、冷静にその音楽性を見極めて判断することは容易だ。どんなに情熱があったって、蕎麦が打てなければ蕎麦屋は出来ない。技術はあって当たり前、プラスして感動を呼び起こすパワーがあって初めて優秀な演奏と評価できるのだ。
では私達は、私達の価値観は評価されないのだろうか。それも間違っているだろう。技巧は無くてもがむしゃらな情熱は人の心を打つ。音楽の美しさを求めるコンクールにおいてそこを突いてくるのは正統派の攻め方では無いけれど、冷静にシートに身を静めていても評価せざる得ないような素晴らしい(?)情念もある。そして、当時から私達が技術以上に、いや技術が無いことを自覚しているからこそこだわっていた、この素晴らしさは正統で無いゆえに最優秀の上には行けない次点止まりの価値といえるだろう。正統は王道、これを曲げたら道理が引っ込む。とするとがむしゃらの素晴らしさを評価してもらう時の最優秀評価は次点ということになる。私達はそのコンクールで銀賞を受賞した。それは、すなわち私達が目指したものがその価値観の中で最高の評価を得たと言う証なのだ。人は与えられた境遇の中でベストを尽くすべきだ。私達は、いずれの価値観も選択できる境遇の中で、その片方を自らの力で掴み取ることが出来た。今の人たちにもし選択肢が無いのだとしても、その選ばざる得なかった価値観の中で最高を掴み取るためにベストを尽くすべきだ。それが人間の進歩の原動力であり美である。
道はひとつではない。どの道を進んでもベストを尽くせた時、結果はおのずからついてくる。
P.S. なにか今の若い者は、俺等の価値観とは違うとか、判るまいとか、劣っているとか決め付けているのではない。こういう話はステレオタイプに、決め付けを以って論じないと意が通じにくいのだ。個々の事情はケースバイケース、決して思い当たる相手が居て断じているのではない事は、聡明な読者諸氏にはご理解戴いていると信じている。老婆心ながら一筆付け加えさせてもらった。文章の後味を悪くするこのような言い訳を附けずには居れない私は小心者(^^;