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「臨時停車」

 私の集団生活の歴史は品川区に始まる。二階三階に老人ホームの併設されていた、新設の品川区立西五反田保育園に入園したのが最初である。その後これまた地元の品川区立第四日野小学校に入学する事になる。目蒲線の不動前駅のすぐ側にある、春には線路沿いの桜並木が美しい学校には、まだ木造の校舎が残っていた。上野級だった私のクラスはその木造校舎の二階で、下見板の壁のその隙間からは地面が見え、床の節穴からは一階の美術準備室が見えた。机だって、今は当たり前の脚と棚が金属製になっているひとり掛けのものではなく、全てがっちりした木で出来た二人でひとつの机だったし、冬は隙間風吹く教室の真ん中で石炭ストーブに金たらいを乗せ、給食の牛乳瓶を入れて暖めたものだった。夏にはコンクリートたたきの校庭に消防車が入り、消防ホースをとぐろに撒いた間に水を溜めどじょうを放ってどじょう掴み大会、はたまた、校庭の真ん中に古枕木の櫓を組んでコンクリート校舎の屋上からロープで火を伝わらしてのキャンプファイヤーと、幼心にも印象的ないろいろの催し物があった。
 そんないろいろな小学校の催し物の中で大物のひとつが遠足である。遠足の行き先は、遥か遠く、多摩川を渡ったその先の子供の国だった。東急目蒲線の沿線である私たちの学校は、近くの学校と一緒に、遠足専用の臨時電車を走らせて、乗り換え無しで子供の国まで行くのだった。今にして思えばすごい話だと思うのだが、不動前駅から子供の国駅まで行くには、目蒲線で大岡山へ出て、そこから大井町線で二子玉川園へ出、田園都市線で長津田、そして最後に子供の国線で子供の国へというルートとなる。そしてこれは全て東急電鉄の路線であるから、すいすい乗り入れ可能だったようである。とにかくそんな事情は知らなくとも、いつもは乗り換えの必要な路線を専用電車で直通するという事は、電車好きの私をわくわくさせた。よっぽど遠足の目的地よりも楽しみだった。

 専用電車はいつも見慣れた、乗り慣れた、緑色の古い電車であった。ただ目蒲線はホームの長さの制限で3両編成であったが、その臨時電車は6両編成だった覚えがある。折り返しの目黒駅は3両以上の電車は入れなかったから、途中の大岡山から増結したのかもしれない。スイッチバックをした覚えもあるから、奥沢駅まで行って折り返ししたのかもしれない。とにかく3両ずつ別の小学校の児童が乗って、2校で一緒に子供の国へ向かうのだった。もうひとつの学校の方が後からの乗車で途中の駅から乗車してきた。その為に停車した駅では、全てのドアが開き「この電車は団体専用ですので御乗車できません」とアナウンスしているのが、なんとなく一般客とは違う特別さを感じさせ余計にわくわくした。
 その頃の子供の国は、まだ開園して間も無い頃で中央広場にはミニSL、じゃぶじゃぶ池の方にもおとぎの汽車が走っていた。もちろん遠足で集団行動の私には乗る事は出来ず、その姿を見るだけであったが、まだちっちゃかった私は広い原っぱで友達と走り回っている方が楽しかったから、それ程残念には思わなかった。
 そして一日はあっという間に過ぎて、再び専用電車に乗り込んで帰途へついた。他の乗客の居ない電車内は、子供達にとってまだ原っぱの続きみたいなもので、ワーワーとはしゃぎ回っていた。そして、多摩川も渡り長旅ももうそろそろ終りに近付いた時、途中の駅で電車が止まった。何でもない途中の駅に長く止まっているのは不思議だったが、みんな気に留めるでもなく、やがて電車は再び走り始めた。そしてしばらくするとさっきの停車は、誰かが運転席後ろのガラス窓を割って、怪我をしたので臨時停車をしたという話が伝わってきた。その子を降ろして病院に連れていき、応急処置をする為に止まったと言うのだ。私は、血とか痛いとかがとても嫌いだったから、その話を聞いて浮かれていた気持ちが、一瞬すっと引いていく気がした。
 それだけの話である。その前後の事や怪我した子のその後の事など覚えていないし、聞いたかどうかも分からない。ただ、その後に運転席の窓を見に行ったのだろう、カーテンが引かれてガラスの無い窓枠から前が見えないのを見て、さびしい気持ちがしたような覚えがある。もうずいぶん昔の話である、どこまでが本当であったか自信が無いようなわずかな記憶のひとつである。


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