Essay Gallery
TOMOKI NIMURA's home page
「乳頭温泉の夜」
橙色に照らされた大学ノートのページがゆらゆらと明るく暗く揺らめく。ふと目を上げれば、目の前の薪ストーブからぱちぱちと炎が輝き、頭上の電灯が発電機の音に合わせるように息吐いた。私は、ペンを持つ手を休め、旅日記に書くべき夢のような時間に想いを巡らせた。今、ひとり、山の中の一軒宿に居る。ドザリ、窓の外に屋根の雪が落ちる音が響く。
大学卒業の最後の春休みは、ちょうど青函トンネルが開通して、連絡船が無くなる年であった。昔ながらの白熱灯に照らされた旧型客車の夜行急行のような、ノスタルジックな旅に行きそびれていた私は、卒業記念に未だ雪残る東北へひとり旅に出ようと思い立った。時刻表をめくり大体の計画を練る、夜行急行「八甲田」で連絡船に乗り継ぎ、津軽鉄道と五能線に乗る。そこらで一泊になりそうであった。その後は、磐越西線と板谷峠を超えたい。後はその時任せで行こうとラフプランが出来た。自由気ままなひとり旅である。その時の気分でどう転ぶか分からない。とはいっても、せっかくの雪の東北旅行である。ひとり雪見風呂と洒落込みたい。そこで次に、泊りになりそうな地域に秘湯の宿はないかと探した。幾つかの候補の中でもっとも鄙びていそうなのが、乳頭温泉郷であった。しかし予定も立てないふらり旅、実際の宿泊地など分からない。特にこだわるのでもないから、予約もせず泊れるところで泊るつもりである。
温泉に詳しくない私は後で知ることになるのだが、乳頭温泉郷は田沢湖から更に山の中へ入ったところにある、7つの独立した一軒宿からなる温泉の総称であり、秘湯の湯として知られた温泉である。特に鶴の湯温泉はもっとも有名な温泉宿であり、雪深い厳冬期にも通年で営業しているのは、この鶴の湯温泉ともうひとつ孫六温泉の2軒しかないと言う。ガイドブックで調べると孫六温泉は、バス停から更に雪道を歩くこと十数分のほんとに鄙びた宿らしい。私は、有名な鶴の湯温泉よりも鄙びた孫六温泉に惹かれていた。
別れを名残惜しむというよりは、私も含めて一度は乗っておきたいと言う感じの乗客で賑わう連絡船に別れを告げ、五能線の深浦と言う駅前に私は居た。ここでの1時間程の待ち時間に時刻表をめくり、今夜の泊りがやはり田沢湖辺りになることを確認した後、私は田沢湖町観光課に電話を入れ乳頭温泉の様子と連絡先を聞いた。やはり孫六温泉の方が鄙びているらしい。すぐに電話を入れると北側の部屋なら空いていると言うので予約を入れる。そして夕暮れ迫る田沢湖駅に降り立ったのが、4:22。35分発のバスで揺られること1時間程で、終点の乳頭温泉郷に着くと言う。10名程の乗客を乗せたバスは、途中の国民休暇村までに全ての乗客が降りて、私一人夕闇迫る山道をうねうねと登ってゆく。雪深い何も無いバス停で降ろされると、バスはそそくさとUターンして山を下っていった。バスを追うように少し道を戻ると橋の脇に小径がある。もう日が陰り蒼くひかる雪の踏み分け道を足を取られながらゆくと、わらぶき屋根の小屋達が姿を現した。孫六温泉である。手前の川原近くには湯小屋が湯気を上げている。
部屋へ通され宿帳を記すと食事の案内で食堂へおりる。御主人によると今夜は、自炊部にスキー帰りの学生さんの団体が入っていて客が多いという。食事の後、部屋の電球のあまりの暗さに、御主人に書き物をしたいのだがと申し出ると、従業員の部屋があるからそこを使ってくださいと案内される。予約の電話に聞くともなく耳を傾けると御主人が、本当に何も無いところで先に温泉があってだからここに住み始めたようなところですと話している。遠くに客の賑やかの声が聞えては途絶える中、薪ストーブの音と自家発電機の音だけが途切れずに響き、白熱電球に照らされた独りの部屋に一人旅の感傷が込み上げてくる。そんな想いにぴったりの宿に、本当に来てよかったとしばらく書く手を休めていつまでも耽っている夜は、いつまでも深々と更けてゆくようだった。
板谷峠を目指す為あとを急ぐ必要があった私は、始発バスで山を下る為に御主人に早めの朝食をお願いした。7時に起こされた私は一人の食堂で朝食をゆっくり摂った後、会計を済ませると未だ客の起きだした気配の無い宿を出た。昨日はあんなに心細かった雪道もきらきらと輝いて綺麗。立ち止まっては孫六温泉に見とれるがバスに乗り遅れぬよう先を急ぐ。バス停に着くと待つ間もなくバスがやってくる。もちろん乗客は私一人。「おはようございます」と乗り込むと、走り出してから「お客さんはどちらから」と運転手が尋ねる。東京からと言えば「じゃあこの雪にはびっくりしたでしょう」と言う。窓の外に目を移せば、昨夜の感傷が夢かと思わせるような鮮やかな白銀の世界が広がっている。そんなギャップに戸惑うような私を乗せたバスは、まばゆい朝日に照らされた乳頭温泉郷を後に山を下っていった。