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「落とし物」
昨日の事である。仕事を切り上げて帰り支度をした私は、丁度来る井田営業所行の市バスに乗ろうと急いで会社を出た。ところが玄関を出た時にバスの着く音がし、通用門を出た時にはもうバスは出発しようとしていた。会社の前の路線は、殆どが5つ先の上平間営業所行であり、そのはるか先、井田営業所迄行くバスは、一時間に2本程度しかない。けれども、上平間は市バスの営業所であり、以遠に行くバスは時間調整で停まる事が多い。次のバスでも間に合うだろうと急ぎもせず見送り、次のバスで上平間に向かった。バスは順調に走り、終点が近付くと前に停車しているバスのテールランプが見え、私は無事に乗り継いで空いているシートに座った。
近頃は、夜が寒くなりだしてバスも足元から温風が吹き出している。その足先に当たるものがあった。足をずらして覗いてみると財布が落ちている。私はどうしようかと一瞬考えた。無視する、拾う、別の席に移る・・・けれども私は殆ど熟考する事無く財布を拾った。慌てて降りる為に立ち上がって膝から滑り落ちたのだろう、逆さまの口から小銭がこぼれ落ちた。財布は女物の革の財布でカードがかなり入っているのが見えた。小銭を拾い財布に戻す前に、バスは定時になって出発した。私は、信号待ちで停まるのを待って運転手に拾い物を届けた。運転手は財布の中身を改めると、カードも入っているので連絡先を書いてくださいと紙片を取り出そうとした。信号待ちの時間も短いのに手間がかかると思った私は、名刺でいいですかと確認して名刺を差し出した。そして席に戻ると、ふと後悔の念が沸いて来たのである。
それは、もう数年前の事、通勤の電車の中で網棚の鞄が無くなった時のことである。網棚の上に一つ知らない鞄が残されていた。誰かが間違えたのかと思い駅に届け、鞄が紛失したことを伝えた。その後連絡があり、その鞄の持ち主は別の私鉄路線の利用者でその電車には乗っていないという。そしてその私鉄から乗り換えた私が間違えたのだろうとまでいうのである。つまり、私がその鞄を持ち去ったのであり、犯人は私であるとして疑ってかかっており、当然私の鞄が出てくることなど信じていないことがありありと分かる態度であったのだ。その時の口惜しさと苦い想いがふと思い出されたのである。誰かが鞄を間違えたのだろうと思い親切心で届けたのが逆に疑われ仇となる想い、その想いとダブって更に今度は財布、落とした時よりお金が足りないなどと逆にあらぬ疑いで訴えられたらそれこそ親切が仇となる。やはりさわらぬ神に祟り無し、無関心を装えばよかったのだろうか。
そして今日、仕事をしていると電話を取り次がれた。佐々木さんと言う。知らない人だと思ったが、受話器に出ると落ちついた婦人の声で昨日財布を拾って頂いた者ですと名乗られた。車内で寝ていた事、恐らくバスの中と思ってバス営業所に問い合わせたところ出て来て助かりました、営業所の方から名刺を頂いたので何かお礼を、などと語られる。突然の展開に、当然の事ですお手元に戻って何よりです、などと洒落た相づちも打てず、かろうじてお礼など結構ですからと答えるのがやっと、それでも会話の中で、ひとつ気になるセリフがあった。それは、届けた時に、営業所の人が財布は殆ど出てこないんですよと言われていたので助かりましたというものである。電話が切れてから考えた。人が困っているであろう落とし物を見つけたら、届けるのが当たり前の話である。少なくとも私はそう身に付けて生きて来たから、つい拾ってしまった。けれども、良く考えてみれば、現在は拾い物をしたらラッキー儲け物と、それこそ何の疑いも持たず心底そう思っている人が多い。そんな気がすると言う話ではない、私の理解を超えて確かにそういう風潮が広がっている。目の前に困っている人が居ればまだしも、そこにはお金という物しかないから、その裏に存在する他人の痛みに気が付かない。その場のお金と自分だけの世界で考えてしまうのだろうか。それどころか落とした馬鹿な奴とでも思ってほくそ笑むのだろうか。どう考えてもまさに今主流の自己中心な思考である。私が拾わなかったらそういう人に拾われて出てこないのが普通なのだろうか、少なくともたくさんの拾い物を扱っているであろう営業所の人の言葉はその事を物語っている。しかし、私には拾った事を威張れる立場に無い。何故なら昨夜、落とし主を信用できずに、トラブルに巻き込まれるのではと後悔していたのは私である。でも、どちらにしても哀しい話ではないか。人を信用できない世の中、人を信用できない自分、事勿れを選ぶ自分、優しさを前面に堂々と出すのがためらわれるような社会など、どこかおかしくないか。自分が哀しい。久しぶりにとても気持ちのよくさわやかな、そして後味の悪い落とし物であった。