小川くにこの 以下の随筆が 日本インターネット新聞の月間編集部長賞を 19年9月に頂戴しました!

        在宅介護の経験を経て

 

 少子高齢化時代の真っ只中で、介護報酬・医療費抑制のために介護保険制度改革や医療制度改革が断行されています。私たちが、長生きしていて良かったと実感できるようにするためにはどうすればいいのか、全く頭が痛いことです。

 

 私は、舅・姑の在宅介護を経験いたしました。特に姑の介護は県会議員になってからのことでしたが、女性議員としていくら多忙といっても、夫の両親を介護施設や病院に入所させることはできないという思いから、私は舅が寝たきりになって1年、姑が寝たきりになって3年、前後あわせて6年間ほど介護経験をさせていただきました。

 

 ちょうど介護保険制度が施行される前からですから、舅は全く自力で、姑は介護保険を使っての介護でした。もともと、夫の家は農家でしたから、両親と一緒に住むことは当然のような環境でしたが、当初、私たちは別棟に住んでおりました。両親が年を重ねるうちに、別棟では、気軽に様子をみてあげることができないので、プライバシーはお互いに守れるように、しかもお世話はしやすいようにと設計を工夫し、2世帯住宅に立て替えて3年ほど経過してからの介護生活のスタートでした。

 

一口に介護生活といっても、非常に大変でした。舅は肺がんでしたので、入退院をくりかえしましたが、在宅介護が長かった姑よりは気が楽でした。文字通り在宅介護であった姑の場合は本当に苦労でした。県会議員の仕事をしながらでしたから、夜の会議や会合が多く、議会開会中は長時間拘束されますから、自民党に所属していながらの介護は並大抵ではありません。夜は8時ぐらいの帰宅、一人きりにはできませんから、実家の母に「見守っているだけでいいから、家にいてほしい」と頼み込んで協力してもらいました。たまに母の都合が悪く、急いで帰宅すると、エアコンの調節が悪く、喘息の発作が起きている最中だったり、ヘルパーの対応が悪く、オムツをしているのにもかかわらず、布団までびっしょりになってしまったりと、疲れて帰宅しても気が抜けない毎日です。議会閉会中でも地元で様々なイベントがありますから、合間をぬって帰宅すると、ヘルパーさんが、歯がない姑なのに、健常者でも噛み切れないような食物をきざまずに食事にだしているのを発見したり、心配の種がつきない介護生活でした。いくら伝言を連絡ノートに書き込んでも、読むのか読まないのか、家族の希望がヘルパーに伝わらない。勿論、介護事業所に伝えても、ヘルパーには伝わらない。夫の兄弟でさえ、お願いしたことを守ってくれない。せっかく嫁が一生懸命、お世話をして、喘息もちの姑がなるべく発作をおこさないようにと心をつくして環境を整えているのに、すべてを無視される。結局、発作の後始末は嫁の仕事。夜中の1時までは姑の様子を見守り、5時には起床して、オムツの世話、体を拭いて着替えさせ、食事と服薬、そして昼食、夕食の支度をしてから外出。という介護生活が3年続きました。

 

そして、4月の改選選挙直前の3月に姑は亡くなりました。選挙期間中は、普段と同じようにはお世話ができませんので、短期間預かってもらえる施設を探している最中になくなってしまいました。私が朝いつものように母を起こしに行くと、様子が変でしたのですぐ救急車を呼んで病院へ急行。手当てをしたのですが、戻らぬ人になりました。前日、喘息の発作が激しかったので、翌日はすべての予定をキャンセルして、病院に連れて行く予定にしていた矢先の事でしたが、何よりもホッとしたのは、私がいる時に亡くなってくれたことでした。仕事が忙しくて、いつも外出していた嫁ですから、嫁が最後に立ち会えなくても仕方がないのかもしれなかったのですが、私がいる時に最後を迎えてくれた、そのことに私は姑に心から感謝しました。3年間、私の言うことはよく聞いてくれて、帰宅すると「帰ってきてくれて、よかった。安心したよ。」といつも言ってくれた姑でした。いつも心せいて帰宅していましたが、待っていてくれた姑がいたからこそ、帰宅シガイがあったのです。いなくなってしまって、本当に寂しい気持ちです。

 

夫もよく手伝ってはくれましたが、細かい介護は女性に向いていると私は実感しています。でも、ヘルパーという仕事の未熟さを、介護の経験を経て、私はとことん思い知りました。ヘルパーの質を向上させるなどと簡単にできるものではないとも実感しています。質を計るスタンダードを明確にすることさえ困難だと思っています。この貴重な体験を糧に、人のお役に立てる仕事をしてゆきたい、と今は介護施設のお手伝いをしています。介護から逃げたいと思った時もあったのに、人の心は不思議なものです。

 

神奈川県議会議員 小川久仁子